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ファミリーレストラン 川口晴美 いらっしゃいませーお客さま二名さまでいらっしゃいますかぁお煙草お吸いになられますかぁ。という若いウェイトレスの声に、先を 歩いていた男が振り返ることなくいいえと首を振ったから、なるほどこの男は私がいつもバッグの中に精神安定剤がわりの煙草を一箱持 ち歩いていることなど知るはずはないのだとおもった。車道に沿った並木の揺れる葉を上から眺めることのできる窓際の席はみな喫煙席 で、黙ったまま私たちが坐った禁煙席は路地と隣の古いビルの狭い駐車場に面しているらしく薄緑色のブラインドが下ろされている。平 日のランチタイムが終わったばかりの午後、客は少なくてファミリーレストランはとても静かだ。窓際で仕事のやり取りをしているらし い中年の男二人。その向こうで携帯電話に向かってものすごいスピードで親指を動かしている女。禁煙席コーナーの隅にいる客は男か女 かわからないけどうつむいて書きものに集中しているのかと思ったらよく見ると食べ終わったばかりの皿を丁寧になめているのだった。 ゆっくりと目をそらしてウェイトレスから受け取ったメニューを見る。 なぜファミリーレストランのメニューはどこの店でもつるつるにコーティングされているのだろう。指に吸いつく感触に気を取られ、 つい和風おろしハンバーグセットとか言いそうになって食事をしにきたわけじゃないんだからと思い直す。「えーと、アメリカンチーズ ケーキとコーヒー」と言いながらメニューを閉じて顔を上げると、ブラインドのわずかな隙間から差し込む光を浴びた男の顔の左側はオ レンジ色の縞模様になっている。ということは私の顔の右側にも同じ縞模様ができているのだろう。「タンドリーチキンとメキシカンピ ラフ……あとビールも」とウェイトレスにメニューを返した男は、では食事をするつもりらしい。右頬が少し温まっている気がしてなん となく頬杖をついてしまった私は、さっきからこの男の名前をどうしても思い出せないことに気がついている。きっと徹夜明けのせいだ。 ほんの数分前、幹線道路脇の埃っぽい歩道で薄曇りの光の下を近づいてくる人の顔になぜともなく目をとめたとき、すぐに相手の表情 が何かくっきりしたものに変わるのがわかった。ああ、と声には出さなかったようだが男はにっこり笑って、どちらからともなく私たち は立ち止まったのだ。何してるのこんなところで久しぶりですねえ、となれなれしいんだか丁寧なんだかわからない調子で話しかける男 の輪郭を記憶の中で手探りし、その端っこをかろうじてつかまえながら、そっちこそ……と私はあいまいに笑うしかなかった。男のオー ダーを聞いて、そうかこの人は食事をしに行こうとして「こんなところ」を歩いていたのだなと今さらながら私は考える。でも、ファミ レスにでも寄ってかない?と彼が言い、そうだねと私がうなずいたのは、私たちには何か話すことがあるような気があのときしたという ことなんだろう。でもいったい何を? 私よりも少し背の高い、痩せた男。頬から顎にかけての削いだようなラインをわずかに伸びた無精髭が淡く霞ませている。やわらかく 脱色された髪が額にかかっていて、その陰で二重のくっきりした目を眩しそうに細く開けるのがくせだった。だけど私の記憶の中では、 この男はひっきりなしに煙草を吸っていたはずだ。今、私たちのテーブルの上に灰皿はなく、男の唇はくわえた煙草に邪魔されることな く私に向かって言葉を発するために滑らかに動き続けている。かたちのいい唇はまだ浅い春の乾いた室内でひび割れそうになっている。 私はその唇に触れたことがあっただろうか。とても不思議な気持ちがする。彼が何を話しているのか、私にはわからなかった。音は聴こ えるのに、どうしてだか私の体まで届くことのできる言葉は一つもない。こんなに近くに坐っているのに。そして私は頬杖をついたまま、 へぇ、そうなんだ、知らなかったよ、どうして、ワタナベさんもたいへんだね、ヤだなあ、じゃ次の仕事は、ほんとに? などと平気で あいづちをうっている。とても不思議な気持ちがした。私たちの弱々しい声は私たちのあいだのテーブルの上で吸いさしの煙草の煙のか わりに弱々しい渦を巻いている。 昨夜はずっと渦巻く水を見ていた。長い時間をかけてつまらない仕事をようやく終え、すぐには眠ることもできずにたまっていた洗濯 物を片付けようとして、つい洗濯機の蓋を開けてしまった。透明な水がただ渦巻いていた。動いているのにとまっている水。ごぅごぅと 絶え間なく音が響く。ゆっくりと盛り上がりまた窪んで、飽くことなく繰り返される曲線。その滑らかでかたくななカタチに吸い込まれ、 真っ白に自分の輪郭を失っていくような心地がした。目をそらすことができなくなり、電子音が終わりを告げてももっともっといつまで も見ていたくなって、トレーナーやTシャツやタオルを次から次へと洗濯した。シーツを剥がしクッションカバーを剥がし、もう洗うもの が何もなくなって、気がつくと朝になっていた。部屋の中は洗濯物だらけで、窓を開けたら湿った布たちが吹き込んできた風にバカみた いに同じリズムではたはたと揺らめいた。ベランダに出てしゃがみこんで、空を見ていたら眠ったわけでもないのにいつのまにか昼にな っていて、私は煙草を吸いたいとおもった。ずいぶん久しぶりに。バッグに入れっぱなしの一箱はしけっているにちがいないから、だか ら、コンビニへ行こうとおもって、だから、ぼんやり幹線道路脇の歩道を歩いていたのだ。 男は何を話しているのだろう。私たちには話すことがあると彼がおもった、それはいったい何だったのだろう。平日の昼間の幹線道路 脇の歩道で出くわすあかるい幽霊みたいに不確かなもの。空いた午後のファミレスの禁煙フロアで嗅ぐ消毒薬の匂いのようにすぐに消え てああ気のせいだったんだと思ってしまう奇妙な幻。つかまえることができない。私たちはねたことがあるのだろうか。そう、たぶん渦 巻く水の底の夢の中では。眠気に似たあいまいな靄に隔てられ、今の私にはその姿は見えないのだけれども。こうしてファミリーレスト ランで向かい合っていれば、私たちは夫婦とかきょうだいとか、家族に見えるかもしれない。……お待たせしましたぁ。 料理が運ばれてきて男は話すのをやめ、にっこり笑ってからフォークとスプーンをリズミカルに動かして食べ始める。それは無心に遊 んでいるようにも見え、油っぽくありふれた味の食べ物のはずなのに男の唇が健やかに動いて咀嚼していくのを眺めているとこのうえな くおいしそうに思えてしまう。私はその唇に触れたくなる。言葉ではなく唇に、ちょくせつ。キスをしたい。だけど私たちのあいだには やたら大きなファミレスのテーブルがあるから、不恰好に上半身を乗り出したとしても唇に届きはしない。ここはそういうことをする( ゆるされている)レストランじゃないのだ。まのびした昼間の光、さっき自動ドアが開いて入ってきた中年の女の人たちのグループはテ ニススクール帰りのようで、私たちの隣でにぎやかな笑い声を上げている。キスのかわりに私は一人で欠伸をする。 どうしたの、食べないの?と男の声ではなく表情に問いかけられ、見ると私の前には「アメリカンチーズケーキとコーヒー」が置かれ ている。寝てないからおなかがすいているのかどうかよくわかんなくなっちゃってるんだよねー、と笑って私はやわらかそうな黄色い固 まりにフォークを突き刺す。すかすかの手応え。口に入れるとすかすかの味が舌に貼りついてくる。きっと寝てないから、私は自分が何 を食べたいのかわからないんだ。急に喉が渇いた気がして一息にコーヒーを飲み干してしまう。薄くてぬるいコーヒーを、でもウェイト レスはいつまでたってもおかわりを注ぎには来ない。家族連れのいないファミレスにいても、私は淡い影のようなものでしかないのだろ うか。フォークがすごく重くなった気がして、私はそれきり食べることができなくなる。ビールグラスを持ちあげて、男は少し心配そう な顔になるから、ちょっとゴメンね、と何でもなさそうに微笑んで私は洗面所へ向かう。 洋式トイレの便器の端に腰掛け、ドアを閉めて私はバッグの底から煙草の箱をつかみ出す。思ったとおりしけっていた一本を唇にはさ み、ライターを探すのだがどうしても見つからない。内ポケットの奥にも手帳の間にもなかった。火をつけることができない煙草を唇に 貼り付けたまま、私はぼんやり落書きを消した痕のあるドアを見つめる。ゆっくりと涙が滲んでくるのがわかった。そういえば昨日の夕 方の天気予報で今年もスギ花粉が飛び始めたと言っていた。見えない花粉が幹線道路のアスファルトの上を漂っていたにちがいない。何 も実らせることのない幽霊みたいに。私はこんなところで中学生みたいに隠れて煙草を吸おうとしていて、おまけにライターを忘れたか らそれさえできなくて、チーズケーキは不味いし、コーヒーのおかわりももらえない。涙が気持ちよくあふれて次から次へと頬を伝って いった。私の中で渦を巻いていた夜の濁った水があふれこぼれていくような気がした。少し声を出して泣いてみる。誰かが洗面所に入っ てきて隣の個室で水を流す音がしたけれど、私の声を聞いて変に思ったのか、すばやく出て行ってしまった。可笑しくなってどんどん泣 きながら、テーブルに戻ったら不確かなもののせいで確かに赤くなってしまった目と鼻を、まだ名前を思い出せない男にどう言いわけし ようかと、私はそればかり考えている。