遠藤浩輝短編集@

遠藤浩輝

講談社

98/5/11


遠藤浩輝は、アフタヌーンの「四季賞」という新人賞でデビューした人である。
新人らしからぬ絵の巧さと、緻密なストーリー展開で一気に読者の支持を集めて、それからちょくちょくアフタヌーンで短編を発表していた。(今は「EDEN」という連載を持っている。)この単行本は、その短編のなかから、発表された順に3つの作品を収録している。
「カラスと少女とヤクザ」「きっとかわいい女の子だから」「神様なんて信じていない僕らのために」
・・・・これがその3つの作品のタイトルである。

「カラスと少女とヤクザ」を初めて読んだ時は衝撃だった。
あまりにも巧すぎる絵。隙のない構図。残酷な優しさを湛えた見事なストーリー。
これを自分と同い年の作家が描いたのだとは信じられなかった。
長いことこういう漫画家が出てくるのを待っていたような気がした。周りの人間に強引に読ませて顰蹙を買ったりもした。完全にやられてしまった状態だったのである。
その後は、アフタヌーンが出るたびに、まず遠藤浩輝の新作が掲載されているかどうかをチェックするという習慣がついた。

そんなわけで、遠藤浩輝は一時期の自分にとってほとんどカリスマ的な存在だったのだ。自意識に揺さぶりをかけられたという意味では、ある意味エヴァンゲリオンなどと似たような存在であったとも言えるだろう。
しかし・・実は最近俺は、やや距離を置いてこの人の漫画を読んでいる。それは、「この人の漫画は冷静になって読んだ方が面白いのではないか?」という気がしたからである。(現在連載中の「EDEN」がやや低調な展開であるせいもあるが・・・)
強引なたとえだが、例えばエヴァンゲリオンに感動するのがカッチョ悪いのと同じ意味で、遠藤浩輝に感動するのはカッチョ悪いのではないか?
「自我と世界」とか、「コミュニケーションの不安」とかいうのは、エヴァにも遠藤浩輝にも共通するテーマであるが、そういう側面から作品を捕らえて卑小なレベルで共感してしまうことに、何だかうんざりしてしまったのである。
第一そんな辛気臭いお題目なしで読んでも、遠藤浩輝の漫画は十分面白い。むしろそういうところばかりに反応するのは、作家や作品の持つ可能性を限定してしまうことになりはしまいか?と思うのだ。

というわけで、最近はもっぱらカタルシスを得るためだけにこの人の漫画を読んでいるのであるが、そういう視点から見てもやはりこの初期短編集は絶品であった。