システム構築についての小論
・はじめに
雑誌「室内」1997年12月号(工作社発行B5版)の特集に「建築家用語事典」というのがある。建築家の使う難解語を会話形式にして分かりやすく解説をしているほんの5〜6ページの特集である。その冒頭に建築家が書く文章の分かりにくさに触れている辛口のコメントがある。『建築家が難解語を多用するのはその内容の平凡さが世間にバレない様にする為であり、文章そのものが「分かられては困るもの」らしい』という具合である。勿論、その文章の中でも触れている様に「一時代を画した人の文章には内容がある」のかもしれない。しかし、思うに一様にして、分かりずらいのは事実である。その文章を読みながら我が学生時代、英語とドイツ語とフランス語の辞書と哲学書を片手に難解な文章に果敢に挑んでいた自分を、苦笑いしながら思い起こした。建築を使う一般の殆ど方々が専門雑誌等を見る時、文章を読まず写真があれば写真のみを見て、「この部分の陰影がきれい」とか「コンクリート打放しってステキね」的な感覚論となるケースが多い事が、建築家の「かくれみの」を広げてしまう手伝いをしてしまっている事も事実であろう。感覚論が悪いということではなく、後に本論の中でも触れるがそれはそれで最も重要な要素の一つであることには違いない。私は自分自身にも、自分以外の方々にも理解しやすい言葉で明解に小論を展開していきたいと考えている。もし、以下の文章等を読まれた方で、分かりずらいと思われる方がいらっしゃれば私自身の勉強の為にも是非、ご一報頂ければ幸いと考えている。
1.「システム」について
全ての分野においてこの「システム」という言葉が氾濫し、多用されている昨今である。教育システムや医療システム、生産システムや交通システム、販売・流通システムや環境システム等々である。我々はこの複雑に絡み合った幾つもの「システム」の中であたりまえの様に生活をしている。万一、それらの「システム」の中で一つでも機能しなくなったら、おそらく現代社会において我々の生活は成り立たなくなると言っても過言ではないだろう。しかし、その反面、それら「システム」の呪縛に業を煮やしているのも我々にとっての事実である。私はこの「システム」とは何か、その本質は何なのかを私なりに考察したいと考えている。
「システム」とは翻訳すると「組立、組織、方法、制度、規律等」という意味を持ち、我々の日常の中におけるそれは、社会構造上の自然発生的或いは人為的な「しくみ」であり、歴史的産物と言える。この「歴史的産物」である事が、我々にとって大変大きな意味を持つことになる。一旦、「システム」が機能しはじめるとその「システム」は社会的骨格へと肥大化し、動かし難い「歴史的産物」となる。この「歴史的産物」とは、それが我々にとって善か悪か、又、そのどちらでもない事か議論されず、実態として過去から脈々と続く或いは続くだろう事象を意味する。気がつくと「システム」の中に組み込まれている、何となくそれがそこにある。何故それがそこにあって、我々にとって必要か否か、考えもしない。これが「システム」のもたらす弊害と言えるのではなかろうか。認知するところから全てが始まる事の平凡さ故の恐ろしさである。「システム」の目的は、「効率性」や「利便性」や「快適性」である事は言うまでもないが、それを求めれば求める程「システム」のもたらす弊害により、我々の思考回路をオフ状態にさせてしまい、そしてある時「システム」が機能しなくなった瞬間に我々はどうしたら良いか分からないまま、パニック状態になるだろう。これが「システム」のもつ構図である。我々はこの部分を充分理解した上で「システム」造りをしていかなければならないと私は考えている。
2.「システム構築」について
「ここちよい」「ゆったり」「きれい」「便利」「安心」「驚き」等々、日常的に我々が持つプリミティブな感覚でおよそ理論や技術などとは無縁の言葉である。しかし、我々はこれらの「感覚」を得る為に膨大なエネルギーと理論と技術を用い、「システム」を構築してきた。誤解を恐れずに言うならば、そのつもりになっていたのかもしれない。現にその弊害が色々な形で社会的ひずみとなって現象化している今日、「そのつもりになっていたのかもしれない」と考えたほうが適切であろう。問題は目的や目標の見定め方にあり、そのベクトルの方向性がどこにあるかという事である。つまり、「システム」の為の「システム構築」(システムありき)であってはならないと言う事である。
「システム構築」の目的の本質を一言で言い表すならば、我々人間の「感覚覚醒」にあると私は考えている。「システム」に依存するのではなく「システム」を用い、相乗効果作用により我々の本来有るべき「感覚」が呼び起こされるのである。これは分野・分類を越えた意識レベルの問題であり、建築においても「形態表現」や「工法」や「素材」は「システム構築」から導かれる結果であり、本質ではないと考える。それは「形態表現」や「工法」や「素材」に重きを置いてないということではなく、主に経済的事情等により決定される事柄に問題の本質は無いという事である。建築は最終的には「形」でしか表現出来ない宿命にあるが、だからこそ、「形」以前の「システム」造りに今以上に力を注がねばならないと私は考えている。
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