ともかく床屋に行こうと思った。刈り上げた側頭部は伸び放題で、まるでどこぞの僧兵崩れの様になっていた。  さて、通常は理髪店の料金というのは決まっている。正直言って、ちと高い。だがそこは自由経済国家、少し大きな町に行くと標準技術料と言うやつを無視した「安い床屋」があったりするものだ。渋谷も例外ではなく、何件かの「安い床屋」がある。私はそんな中の一軒を目指していた。店の前には『調髪¥1600』と大書きしてある。ところが、この不景気に考えることはみな同じらしく、8つほど並んだイスは満席で、順番待ちのソファーにも3人ほど。店の外で立ち止まったまま私は50mほど手前にあった看板を思い出した。例の赤と青のしましまが廻る看板の上に『調髪¥一六○○』と書いてあったのだ。値段は同じ。だったらあそこへ行って見よう。というわけで私は踵を返した。  その店はビルの地階にあるらしかった。ビルの入り口を入ると塗装かなにかの工事中らしく、階段の床にはビニールが張り付けてある。一瞬改装中では、と不安になるが、休みだったら看板が廻っている訳もない。  階段下の木枠のガラス扉の向こうにその店はあった。何だか店内が妙に暗い感じがしたが、私の姿を認めた店の主人が電気のスイッチを入れるといくらか明るくなった。だが次の瞬間、きしむ扉を開け店内に入った私は強烈な不安と寒気を感じた。まるでオカルト映画の中に迷いこんだような異様な雰囲気。背筋を走る寒気。”なんか変だ・・・”  何が変なのか。一番奥のイスに案内されながら店内を見回して変な理由を探した。  まずその調度品。どう見ても昭和30年代前半のそれである。ニス塗りの木の棚、横に大きなレバーの付いた手動レジスター、下開きの化粧合板にステンレスの板を張り込んだだけの洗髪台。まるでタイムスリップでもしたように昭和30年代なのだ。  さらによく見れば、それらすべてが、汚れ、煤けている。5台並んだイスのうち一番奥のイス以外は、もう何年もの間使われていないらしく、黄ばんだ座布団の上に毛の切りかすとほこりが積もっている。そしてその上に無造作に置かれたドライヤーや蛍光燈のカバー。淡い色のリノリウムの床のあちこちには、なにで固まったのか、毛のかすが茶色いかたまりになってこびりついていて、鉄ベラで剥がしでもしなければ落ちそうにもない。さらに、白いボードを張ってあったはずの天井も真っ黒に煤けていて、その黒さが壁の上1/3くらいまで侵食してきている。そして鏡の手前のカウンターには汚れが黒くこびりついた整髪料の瓶や霧吹きが並んでいるのだ。見れば店の主人が着ている水色の上着も方々黄ばんで、さらに幾つかの、まるで血痕のような茶色いしみまでついている。そしてその顔の額と頬骨のあたりには、3cmくらいのケロイドになった傷跡!!おまけにこの主人は足が不自由らしい。  私の目の前には今、それらの怪しい風景が、決して十分とはいえない明るさの蛍光燈の青白い光に照らしだされているのだ。今まで映画の中でしか見た事のない恐怖映画の世界。渋谷という大都会の中にひっそりと息づく殺人鬼の理髪店。たまに訪れる『客』という名の獲物を待つビルの谷間の人間蟻地獄。イスに腰を掛けた私は、鏡の中に、はさみを持って立つ主人の姿を見ながら、死を覚悟した。