詩集「暁:少女」より

崖   〈バツ〉   毛布            詩集のページに戻る                                                           
 崖       向かいの窓には 男のひとが住んでいる 彼は 誰でもない 誰なのか それはいらない ときどき 窓に 明かりがつく たとえではなく 明かりがつく 窓際へいって わたしは 照らされるために そこに立つ 公道に隔てられた二階の窓の 見知らぬひとの部屋と 向かい合って暮らす ひとりを選んで 暮らしをする ほつれた容貌を押し込めて 押し黙って服を着替える 切れ切れに見えるベゴニアの鉢をどけ 掃除をする  掻き消えては灯る指でする 洗剤が湯に溶ける 渦巻きに 服を脱いで 沈める 洗濯を積み重ねて 眠る 見知らぬ部屋のひとにとっては わたしは 誰でもない いらない 窓が開き 向かいの部屋の 手摺りに緋色のタオルが干された 幻想はしない わたしの その日のスカートが はきたくて 緋色だった 緋色 だっただけ 向かいの窓の 曇りガラスには ひとの姿が過ぎてゆく この部屋は 下の通りからみあげると 窓際で咲くベゴニアの花が 冷たく ゆらぐ 虹の色 淡い シャーベットのようにゆれ 霞むガラスの陽差しの束を 刺さるように凍らせる 崩れやすい 柔らかい ひとりで暮らす 部屋がある 明かりがつく 窓に 明かりがつく もがれるように 窓際へゆく てのひらにきつく籠めていた 幻想はしないと籠めていた ゆびで固めた蕾が開く 照らすひかりに 濡れてほどける 許してもいいと 胸元で 緋色に割れる 薬玉が咲く 見知らぬから 愛憎もないけれど 夜だから 許されて (愛している)というひとになる ここが崖だと忘れるまで 見知らぬひとの ものになる                      
〈バツ〉 眠れなくて 膝をかかえた 横たわる私の腰はフラスコ 脆いガラスのからのフラスコ このまま固いタイルに落ちて壊れてしまうこともできる 冷たくなってゆこうとしたとき 眠れない瞼の暗闇に ぎゅっとクレヨンを握っている六歳の手が現れた 〈ヨクカケナイ ヒマワリ ヤ!ヤダ!〉 声に耳を澄ましてゆくと 古い畳の部屋がひろがる 散らばる広告の裏側で 私は描かれたひまわりだった クレヨン描きのいびつなひまわり それが自分だと気付いたとき 真上から黄色いクレヨンが ねばっと 私に×をした クレヨンの×が私の体を羽交締めにする  (腹のあたりだ 〈ユリチャン カイテ ヒマワリ カイテ〉 六歳の手はゆりちゃんのワンピースの裾を引っ張った ワンピースは体にはりついて ペイズリーの渦巻きの虫のような模様がゆがんだ ゆりちゃんは黒い髪をのばしている ゆりちゃんは保育園の用務員のおじさんの娘 保育園のそばに住んでいた私は遊びにいった あたたかい昼過ぎ ひまわりいろだ 畳に広告の紙が舞う ひまわりが描かれて散らばっている ゆりちゃんがきゅうに ねころんだ あおむけの 腹が波打ってゆく 〈ノッテ〉 ゆりちゃんがそういった 腹をさしてわらっている 〈ヘンナノ〉 なんだかわからなかった 〈オ腹ナノニ〉 へんだった 〈ヘイキダヨ〉 ゆりちゃんがわらっていうから おそるおそる片足を腹の上にのせてみた それから思いきってのる ぐんにゃり ゆりちゃんはぐにゃぐにゃだった 六歳の足は驚いた 恐い なにかに飲まれる感じ ぐにゃぐにゃが口を開けている のった足の裏側をぐにゃぐにゃは体のなかへひろがり 手にも喉にもひろがってゆく ぐにゃぐにゃの口をとじなくちゃ ぜったいに口をふさがなきゃ 知られたくない ぐにゃぐにゃを知ったことを 知られたくない まだ 用務員のおじさんは外だ 〈イタクナイ?  ヘイキ! ヤブレチャウ〉 ゆりちゃんが 起き上がったとき 私は なんとなく窓のガラスをみつめて ゆりちゃんを知らない子のように黙った ×をつけていたのだった ゆりちゃんに 羽交締めの× 六歳の手のクレヨンがねばつと×したぐにゃぐにゃの口 私は ゆりちゃん ゆりちゃんの 塞がれた 夏の ひまわりだった
毛布 薄い氷が 放られた発泡スチロールの箱に張る 家々の窓には まだ雨戸が重い 戸を押し開けるやわらかな手は ほの白く 朝の手前にいる 車のエンジンの音が家の近くで途切れ 聞き耳をたてる (なぜ聞き耳をたてるのだろう) ベッドに投げ出して眠る手足の 冷えて透ける腕を通って 若い父が 冬の街路を 腹に私を宿す母のアパートから 今 帰宅する 眠く透ける私の体は 若い父と母のいる街の空を覆っている 街路樹の下に車をとめた お父さん なかなか車を降りない どうしたの 身をのりだすと 眠りの窓から落葉になって剥がれ落ちた くるくる 知らない父母の街へ 暗闇を落ち 混じり込む      父が母の部屋にいる      若い父の 喉が 震え      なつかしい声が立ち上がる      「産んで みようよ」      (聞こえたような)      母は「・・・・・」      (なんて言うだろう 私の母になるひとは) 横たわる母の声を 求めて 母の部屋へ よりそってゆく      銀杏の形のブローチが 毛布の上に落ちている      (お母さんのブローチだ      お母さんが毛布を寄せた) 私も毛布をかき寄せる      そっくり同じ仕草が灯る 灯ったときだけ私は母だ      (襞ができた      籠もりたい      甘いお乳の霧に溶けたい      乳房の百合から腰の崖      ふわふわの子猫の鼻になる ふくらむお腹鼻で押す) (知りたい なんて言うだろう 私の母になる人は)        切ラレテシマウ、           切ラレテ落チル、                  マッ暗、マッ暗、  ドコカヘ落チル、 ふわふわ 歩き継いでいた いつか歩いた街だろうか 街路にはアパートが並び建つ 棟棟の名は覚えてないが 路地を囲むアパートの 奥まったところの あの扉 銀色の扉に呼びとめられる 薄く扉に浮き出している錆の甘さに 結ばれる 胸を閉ざしつづけた鎖が 錆に覆われ崩れてゆくのか 素顔の私がほどかれる 息が開いた 扉のなかに 私が男の人といる      (いそいで外されたブローチ うれしい)      きらりと母のブローチが咲く 私と母のブローチが毛布の上に咲いている      (あとからあとから荒らかな 男の人の熱い息が 弱い首に巻きついて      あまい母の腕になって 私を壊す やわらかくする)      母の毛布で 私の毛布で ブローチの銀が光ってゆれる      (壊れる 恐い やわらかくして 子供になってしまいたい) 男の人といたのだった 張りつめた夜が裂けだした すると私は 部屋の窓から 白い皿を持ち出して 皿に置かれた食べ物を 脇に流れる水路の溝に すっかり沈めてゆくのだった 冷たく浅い溝のなかでは 太った蛆が幾つも育った 溝のなかで育った蛆の 飴色に澄んだ 腹が割れると 水をくぐって ぷくりぷくり 膜から 透き通った少女が出てきた                 *****                          冷タカッタ、                               暗タカッタ、                 ソウ、ワタシススガレナイ、               ワタシノ方ガ ホントダモノ、               出ヨウ、外、 外、                腕、動カシテ、               
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