北爪満喜
kitazume@yubin.net
http://voo.to/maki/
1988年詩集『ルナダンス』(書肆山田)
1990年詩集『アメジスト紀』(思潮社)
1993年詩集『虹で濁った水』(思潮社)
1997年詩集『暁:少女』(書肆山田)
「くつがえされた鏡匣」によせて
はっきりと見る
詩を書くこと、写真を撮ることを生活の一部にして日々を過ごし
ている。でも私の毎日は掃除洗濯食事の用意・・いわゆる家事とい
うもの。そこを切り裂くように詩を書く意識が通過する。いえ、切
り裂かなくては窒息してまうから、日常に詩を書く道筋を保ち続け
ているといったほうが近い。私の生きるための道筋はずっと長いあ
いだ、詩の言葉だった。自分しか書けない自分を解き放つ言葉「詩」
、を書いて発表し詩集を出版することで、自分一人の暗闇から社会
と繋がり、ようやく私はほんとうに呼吸することができた。ところ
が、いつのまにかそこに写真が加わっていた。いつのまにか写真が
切り離せないものになっていた。どうして・・・だろう。
あたりまえのことを見直してみると、私は目を開いて見ながら生
きているのだった。見ながら感覚で触れ、目から何よりも早く、生
存のための必要なことを教えられている。判断の役にたつ、または
気分を揺らす、あるいは記憶へと入る、目で触れたもの。また今こ
うして書いている文字だって目で触れているもののひとつなのだ。
ならば私を今の私にしている最も大きな要素のひとつは見ることに
ちがいない。
はっきりと見ること。写真を撮ってぼんやりと見ていたものをは
っきりと見ることは「意識化」に影響してくる。もちろんはっきり
見ることは輪郭をくっきりさせることではなくて、はっきり意識す
るということ。そうしてゆくと映像は、ときには詩へと揺り動かす
きっかけをつくってくれる。しかし、おそらくそれどころか、こう
して映像と付き合っていたら、映像は言葉を書く私の何かを変え続
けてゆくだろう。
写真を撮ることは面白い。これからの未知に私は惹かれる。
2000年10月13日東京新聞夕刊
北爪満喜「詩と響き合うデジタル写真」抄
「夜になって食事のあとかたづけも風呂の掃除もみな終わって、
パソコンの前の椅子にかける。ノートパソコンの画面を開き、電源
のスイッチをいれる。メールをチェックしたり、返事を出したり、
ホームーページをみたりする。そして次にするのが、きょう一日持
ち歩いたデジタルカメラの内容をパソコンへ移して整理すること。
水溜まり、街角、落ちている影など。この頃私は日々デジタルカメ
ラを持ち歩き、スーパーへゆくにも、用事で出かけるときにも、気
の付いたものを撮っている。直感的に、さっと。直感だから言葉で
はないのだけれど、撮ることは詩を書くことと何かでつながってい
る。だから撮るのが面白い。はまってしまって机の上にあるデジカ
メをもう一日も手放せない感じがしている。
この頃はメモリーカードなのでパソコンへの入力が簡単で助かっ
ている。その中からホームページへ載せる一枚を選ぶと、短い文章
をつける。「メモリーズ」という絵日記風のコーナーを設け、いま
のところだいだい週に2、3回のペースで更新している。
パソコン画面の透過光でみる写真は紙でみるのとはまたちょっと
違う世界。光に一瞬浮くような、夕空の紫がかった雲、細い草の密
生した空き地、通りで陽差しを浴びるまっ赤なハイビスカスの花。
キーを押しながら一枚づつみてゆくと、これ今日のこと?と手を止
めていたりする。選んだ写真は調整して画面に置き、日付を入れる。
タイトルをつける。そして写真から促されるようにでてくる言葉を書く。
それはときに詩と近い言葉だったり、ときにその日の出来事だったり、
知らせたい事、言いたい事だったりする。
私がホームページをはじめたのは1999年1月なので、今月で1年
と10ヶ月になる。デジカメも同じ。長いような短いような。そうし
てきた間にも、しらないうちに、いつということなく、撮った写真
へ言葉を書いて、映像と付き合ってきたことが、ほんのすこしづつ
詩を書くところへ降ってきて、すこしづつ書く言葉と響き合いはじ
めている。映像的に書くとか、描写を緻密に書くということではな
くて、なにかこう、もっと詩を書くまんなかのところで、響き合っ
ている。思い巡らせば、言葉を書いたり、映像を作ったりすること
は、根本的には古く洞窟の壁に絵を描いた頃から、人が生きてゆく
うえですることとして隣り合っている関係だった。」