蓑田貴子 

個展
1989  「Dancing Miraraor」プランタン銀座 読売サロン
1989  「Flicker」  東京デザイナーズスペースフォトギャラリー
1990  「Flicker 2」パストレイズ横浜ギャラリー
1999  「collection」ギャラリー伝  floor2

グループ展
1987 「写・真・展」 有楽町マリオン朝日ギャラリー
1988 「ニュー・プリミティブ・フォトグラファーズ」
        ミノルタフォトスペース
1989 「女性のまなざし展 日本とドイツの女性写真家たち」
     川崎市民ミュージアム
1991 「神奈川アートアニュアル」 神奈川県民ホール

受賞歴
1991   第7回東川賞新人作家賞 受賞

1992〜1998まで活動を休止する
1999   インターネット上で小林のりお・谷口雅 佐藤淳一と
    「web  photo  collaboration 」を開催
     作品の発表を再開し始める
1999  「現代写真の母型展」
             unit2000にゲスト参加 川崎市民ミュージアム


「くつがえされた鏡匣」コンセプト   蓑田貴子 写真の持つ四角い枠 あるいは枠の外と時間の外 何かが眼と身体の琴線に触れてシャッターは押される。 ガラス瓶に反射している光がきれいだったから、水面に太陽 がとろとろと流れ込み、揺らめいている様子が私が普段「水」 だと思って見ているものと違って見えたから、と、ごく些細で、 しかし、きわめて印象的な事柄が私を惹きつける。 うつろい消えゆく瞬間を残しておきたいという気持ちから、 それを私だけではなく他の人にも見せたいという気持ちから シャッターは押される。シャッターを押すことによって景色は 切り取られる。写真は断片だ。 数年前に撮った写真が引き出しの中から出てきて、それを眺める 時、その写真(写真によっては何も思い出せないものもある)が きっかけとなり、いろいろな記憶が蘇ってくることがある。 記憶は、四角い枠の中の画面についてというより、その写真の枠 の外の事柄について主に蘇ってくるようだ。(写した画像について はどうしてなのか記憶が薄れている。記録するのと引き換えに記憶 を失うのだろうか。だから写した画像を焼きつけて再び見るのだろうか) 撮った写真を見て、蘇ってくる記憶とは、例えば、その日はと ても寒かったから、撮影の帰りに熱いレモネードを飲んだこと、 を思い出す。 そして、温まったガラスのティーカップから立ち上る湯気の様子が、 コップの中に浮いている薄いレモンスライスが、重なりあい層にな った膜の中から浮上し脳裏に浮かぶ。 そんな時私は、日常の時間の流れの外にいて、写真の中に入り込み はじめる。写っている人の声が聴こえてきたり、枠の外にいた犬の こと、尻尾を振っている様子がぼんやりと蘇ってくるのだ。 そのように四角い枠を超えた世界を感じ、過去の時間と戯れてい ると、とても幸せな気持ちになる。 時間はもしかしたら、過去も現在も同時に流れていると感じる時の 幸福な体験。自分が撮った写真に限らず、他の人が撮った写真にも そのような体験をすることがある。その時は自分の記憶と想像とが、 写っているものや、その時代の時間の流れと響きあって交差してい るようだと表現すればいいのか。 写真に限らず、ある景色を眼にした時、何かの音を聞いた時、匂い を嗅いだ時、言葉を読んだ時、そのような体験をすることがある。 誰にでもそんな体験はあると思うが、その体験自体は、それぞれに とても個人的な体験だと言っていいだろう。 写真は世界に溢れ返り、人々に意味を伝え、流通し、消費されてい る。しかし、写真にはそのような役目だけがあるのではなく、私は きっと見る者を時間の外に連れていってくれるような、そんな写真 があると思っている。 写真という「かけら」と言葉の「かけら」への夢 私は「撮ったり、見たり」してきた人間なので、やはり、言葉の視 覚的要素、また聴覚的要素などに興味を持っていた。 ある言葉の連なりから、景色が見え、匂いを感じ、音が聴こえてく ることに惹かれていた。 そして、今回、恥ずかしくも大胆なことを夢見た。 写真を撮るように、あるいはカメラを回すように書けたら素敵だと。 そして、一枚の写真を言葉で補うわけでも、意味づけするわけでもな く、写真という断片と言葉の連なりの断片が響きあい、刺激しあいな がら拡がっていくような時間と空間がつくりだせないものかと夢見て います。