今月へ
[前を向いた衿のあたり]12月28日 左数メートルゆくと崖になっている。首都高の高架橋と ほぽ同じ高さ。前をみている衿のあたりに差している夕陽。 マフラーも夕陽の色。風邪を引いて熱を持った喉の色も似 ているだろう。今週は風邪で辛かった。 牛島敦子さんがリンクにあたり送ってくれたメールに私の詩集 の一部を丁寧に読んだ感想を送ってくれました。了解をいただ いたので載せてみます。 ※ ※ ※ 北爪満喜さんから詩集を頂いた。 タイトルは「ARROWHOTEL」作者の造語だろう。 同名の詩の連作があり、そこで繰り返されるモチーフ、ホテルの非常口の緑の矢 印(ARROW=矢)からきているようだ。 初め見たとき、NARROW HOTELだと思った。 読みながらもなんどか、そう誤読した。 しかし、あながち的を外した誤読でもあるまい。 矢印に満ちた非常階段、作者が通らずにはいられないその場所は「NARROW (細い・限定した)」な回路でもあるのだから。 自分が自分であることができる場所。 そこに至るのはなんと難しいことだろう。 詩集中では、「the mouth of river」に惹かれた。 「母が大地という連想は受け入れられない」 という明確な一行に充分な肉づけをひとつの作品内に持っている。 「the mouth of river」では、人間内面の自然破壊に伴い、行き場を無くし た「母性」を、埋め立てられ、「水」ではなく「泥」になった川、初めから生み 出すための「土」であったというよりも、重荷を受け入れるよう強いられていく 内にそうならざるを得なかったものとしての「土」になぞらえることで過不足無 く形象化しているように思われる。 「母」という言葉には古来「豊饒」が期待されるが、実際に私たちの日常に向か い合う「痩せた」母たち――家族を支えてきたことが自らを豊かにすることには つながらず、いまは無力ものでしかない老いを迎えて怯え・苛立っている母たち ――には大きなギャップが生じている。 作品中にリアルな実感を求めようとするならば当然、「母=豊饒・受容・優しさ 」のイメージに寄りかかることを止めなければならない。そこまでは感じられる 詩人も多いが、今度は過少評価し、酷な言葉を突きつけて平気な無神経さを晒し ていたりする。 「こないで 今は」と言う作者はしかし、泥のようになってしまった母性たちの これまでに対し、蔑視によって関わりを拒絶するのではない。いたわりと同性と しての共感をふまえた上で受け入れるまでしばしの保留を求めているのだ。 押し寄せてくる現実に対して発する、生の声があるように思われる。作者自身の 現実がどのようなものであるかについては私は親しく知らないのだが、ここには 抽象的な”内面世界”ではない、手触りのある外部としての他者が感じられる。 少なくとも誰にむけられるでもない「独白」ではない。他者に向けられた「発語 」である。森永純氏の写真集を見て書かれたという契機をもつ作品だそうだが、 そのせいもあるかもしれない。 [クマか?]
12月22日 人工の都市の地下街を嘘でも一瞬クマがあるいてくれれてらと思ってこの足跡は 描かれたのかも。都市を建設しながらも自然から切り離されることへの心理的葛藤。 ノスタルジアだ。 ●詩人の牛島敦子さんが葉・曜・日・通・信に、私のホームページをリンクしてくれました。 きのうCCDのメンバー(小林のりお・佐藤淳一・丸田直美・高橋明洋)と大嶋浩さん 望月祐志により神楽坂で開催された「Digital Photo WorkShop」に行き、ウェブでの発表 の行為についていろいろ私なりに考えた。 まず、デジタルについて。今デジタルカメラは銀塩カメラに近づいてきて、銀塩カメラの ようになることがいい、という方向でメーカーで作られつつあるようだ。一般の買う人 が求めるものは銀塩カメラを基準としていて、取り方も銀塩カメラのようにしたいという ことのようだ。今年あたりはデジタルカメラが普及しておりしかも、銀塩の一眼レフと近い デジタルカメラも発売され、デジタルというところをパスしてまるで従来のカメラのよう に使ってゆけるわけで、デジタルカメラで撮るといっただけでは、どう新しいことなのか 伝えられない時代になっている。ということは、違いを改めて言わなくては、どういう ことか説明しないとダメだいうこと。 デジタルカメラでは、デジタルカメラでこそできることを日々ウエブで実践してゆく ことが面白いし、可能性を発見することに繋がる。シンプルで本質的で決定的なことは、 デジタルカメラではやっぱり目からカメラを解放して撮れることだろう。そしてスピー ド。そしてすぐに自分が取った映像を見られること。それらのことを日々やってゆくと これまで従がって来たの固定観念から出られる、またそこまでしなければわざわざ行為 する意味も面白みもないということ。そこでその人の写真がどうなるか。不安で面白い ことだ。 日々撮って日々ウェブで発表してゆくことは、そうしない時間を生きることと凄く違 う実相をその人に与えていると私は感じる。時間は人にとって根本的なものだけれど (人の一生の時間なんて長いわけじゃない)このウェブの撮って見て選んで発表しての速い サイクルは、ものすごい速さで生を過ぎる時間に気付かせてくれる。一方、現在の時間を意 識することにより緻密に自分の生へ映像が関われるようなところがある。人の方面から いえばライブ感だ。でも判断しながら進むライブ感でもあるところが、現実と思っていたも のを疑える、酔わない、覚醒したライブ感だと思う。映像の方面からゆけば、私性を溢れ 出てしまうことかな、と思う。私が撮り、しかも私を離れた映像、ということかなと思う。 私を離れてもパブリックというのではなく異様な外、人が撮っているけれど、人の視線を離れ 現実の表面の映像が人の常識的な現実の域を剥がれ、どうにかなってゆく感じ、ほとんどフィ クション。ではそこでの再構成はどうなるか。再構成がより大切になりそうだ。そこには思考 が関わってくる。そのとき言葉が関わってくる。コンセプトというのとも違うかもしれない。 もっと言い表し難いものを仮にまとめる言葉かも知れない。発表しなくても、自分のなかで手 探りはするかもしれないと思う。 こうしたウェブの実践は言葉と私、イメージと私、というところにもけっこう深く関わって きているとこのごろ感じている。言葉が、いままで詩を書くときのイメージの出方のところで どうも変わったようだ。 イメージと私との密着がいくらか壊れ、言葉が言葉のイメージを書かれた文字から出すよう になっていている。言葉が言葉の力によっていわばデジタルに引き出される。そんな感覚がある。 これは、デジタル映像とつきあってきたことによって認識の形かスピードか、はっきりしないけれど どこかで変化が起きたのではないかと思う。詩と読んでもらえるのかどうかわからないが 「」つきでメモリーズに書いているものが、いま私の書ける詩となっている。怖いけれど こうなったのだから、書いていってみようと思う。 [北]
12月17日 「15日の夜には家の近くの坂道で、ビルの上の東の空に流星が長く尾を引くのをみた。 獅子座流星群は去年で、あの夜は60個以上もみえた。東という漢字をみると太陽が隠れ ている。木のなかに日が昇っている。ハヤシ先生は国語のときそんなことをよくいった。 ハヤシ先生の木々のなかにわけいってゆくと、前の席から送られてくるみたことのない プリントは詩で、改行された林へは深く入ったら出られなくなる。やわらかな木漏れ日の にゆれるブナの葉、透けるナラの葉、武蔵野なんてこと葉のなかでうっとりしすぎては いけない。日の暮れないうちに雑木林を出ようとしていたのにもう日暮れになって、蒼 くなってきた空には星がぽつぽつ瞬きはじめていた。子どもの臓器を売買する地下組織 が暗躍する地方なら、ますますもってここは危険だ。ざわざわシダが騒ぎだす。ワタシ は教室の椅子におさまる体の大きさなのだから。出よう。はやくここを出よう。方角を 確かめるなら北だ。ワタシは北東七星をみつけるのだけはできるから北極星もみつけら れる。じっと枝の間から空の北を探していると、枝が黒い模様になって、北には水が隠 れている、とハヤシ先生が木霊した。これは出口への謎かもしれない。北という漢字を 頭の中に剣のように持ち上げた。ぎらぎら光るその北をいくらみつめてみていても、な ぜだか身体が離れてゆきそうな、切られて改行されそうな隙間風はくるけれど、水の気 配がぜんぜんこない。夜がせまってくると片目に、赤外線センサーを装着されたサイボ ーグを操り組織の男が臓器を求めてさらいにくる。くるかも知れないと、じっとしてら れない。林の斜面を行ったり来たりしながら必死に考えを絞る。と、来たと行ったは逆 だと気付く。キタにも逆があるのに気付く。逆さにするとキタはタキ。あっそうだった。 まっ白に水のしぶきが吹き上がる。瀧がなだれる。瀧に打たれる。感動すると、ワタシは 暗い東のビルの空を仰いで、いくつもいくつも光って流れた流星群を想っていた。」 [紅葉]
12月13日 交差点にかかった歩道橋。夕暮れの光がビルに反射する。 天願大介監督の映画『AIKI』をみた。これはハンディキ ャップ青春映画。不自由さがリアルにわかるし、若さの 爆発もリアルに響く。車椅子で合気柔道をすることは神 業のように思えるが天願監督は実際のモデルの合気の師や 車椅子の青年との交流から事実を的確に描いて、説得力の ある映画にしている。ともさかりえの、イカサマのサマ子 との恋もおもしろい。麻痺とは身の回りのことにどう手間 がかかるかを的確な理解のもとに描く一方、麻痺した身体 とダメージを受けた心が、前向きになってゆけるのも事実 であることを、青春映画として描いた。これはなかなかで きることではない。苦痛の描写のうちには見る者の心に傷 を負わせる程の場面もある。それでも試合の姿は感動的に かっこいい。たいへんな力業だ。 [サザンカ・サザンカ]
12月12日 「くるくる花が回転している。こんなに回る花があるだろうか。車のようだから ヤグルマだろうか。それにしては花弁が広い。それにしては桃色が濃い。風が吹 いてきた初冬のなかで、ワタシは神社の境内で誰もいないお祭りのように枝中の 花が回転している満開の木のしたに立っていた。くるくるくるくる、葉のなかで 桃色の花が回るのは、あれは木のダンスだろか花はこの木のダンサーだろうか。 舞踏会ではふくらんだドレスの薄い布を両手でつまんで礼をする令嬢たちが色と りどりに集まって、森の中では妖精たちがベールのようなドレスから光を撒いて て飛び交っていた。そしてページをめくり、めくると、毒のあること葉が娘を枯 らし、毒の実が囓られころがった。それから生き返ったりした。ページをワタシ が滑ってくる。お尻をついて滑ってくるそのワタシはとてもちいさい。細い脚、 細い首、小さい両手を広げながら着地する。ワタシの肌に入る。ワタシはちいさ くおおきいワタシ。ワタシはほんとは大きさがない。 来たね。花がくるくる回る。今年も来たね。と呼びかけるのは境内の奥の二頭の 狛犬。二頭の狛犬の声が重なりハーモニーになっている。狛犬が笑う。ワタシも 笑う。ポンと狛犬の前足にタッチしようとした手が、届かない。ワタシは急に泣 きべそをかく。 しかたないでしょ。たえちゃんのおとうさんはお回りさんなの。あきらめなさい。 転勤するのはしかたないのよ。回り、たえちゃんのおとうさんが、コマになって 回転しだす。紺色の渦を巻きながらコマが唸ってワタシを弾く。痛い、はじかれ た。ころんでしまう。ワタシは神社の濡れた地面にころがってゆく。地面が黒い。 七転八起。転んでも、手が、濃い桃色をみいだしていた。サザンカだった。 拾いあげると初冬の道が銀に光った。サザンカ・サザンカ咲いたみち。 口をついたフレーズがでた。サザンカ・サザンカ、冬の手前で、濃く桃色に燃え たっていた。」(12月14日) [雪のなか。雨のなか。]
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12月10日 ぬれている地表の日々。濡れながら猫が走る。濡れながら花がさいている。 濡れながら建物が道に添ってひっそりと人を飲み込み、人を吐き出す。排水 溝を生活をくぐったにごった水が走ってゆく。地下はいつも濡れている。地表 はときどき乾くだけなのかも知れない。ここでは。 [冬のアーチ]
12月6日 しずかな空にかかる枝にまだ葉がついている。もっともっと透明 になると、葉はようやく離れてゆく。 きょうの毎日新聞夕刊の近況の欄に私の詩集が紹介されました。 [みのり]
12月3日 「そのおいしいパン屋のある小道に足を向けるとパンを買った。軽く白いパン の袋をゆらしなから歩いていると、ゆらゆらワタシの目の前にブロック塀に根を 張ったワインレッドの蔦がみえ、引き寄せられて目が止まる。上をむいてみつめ ると、赤く染まった葉の色にいつしかワタシの目は盗られ、ワインレッドの色彩 に落ち、うっとりとどこか酔ってしまった。酔った目はどこへ寄ったのか、その 間、しばらくぼーとなって雲の群がなだらかな丘の羊のようにたゆたうやわらか なところに浮いていた。縁側で陽に温もって丸く眠る猫のように、空に浮き眠っ ているようだった。と、うっすらと夕陽が差してきた。にじむ夕陽の色に洗われ、 雲がゆっくりワインレッドに色づく蔦の一と葉に戻り、気がつくとあっ、と驚く ほどの青紫の蔦の実が、蔦の枝に成っていた。 みえていたのにみえてなかった。 青紫のたわわのみのり。惹きつけた蔦は、蔦の葉は、たわわのみのりを隠すため、 あんなにきれいなのかもしれない。赤く赤く、燃えるように目を惹きつけて、く らまして、みのりを守る。身代わりをする。蔦の葉ってすごいなぁ。こと葉が口 をついて出た。ついて出たこと葉は蔦にむかって、自分も恥ずかしくないように、 変わってみよう、実を守ろうと、想いをワタシに返してくるから、身を乗り出し て、実を前にブロック塀に両手をついて、身を赤くして力んでみた。みのり、が ぽっと、祈りに変わった。手を合わせたいほどうれしかった。 こんなブロック塀の上でも立派に根を張り、実を結ぶ、蔦のようにもできること が、身代わって、祈りを結べたことが、ワタシも身にしみてうれしかった。こと 葉に、とくんっ、と血が波打った。み、ち、のり。みのりに血がかよう。こと葉 をはやす木となって来た道のりに血がかよう。そういうこと?そうひふこと。 パンの入った白い袋も、小道を歩きはじめたワタシとゆらゆら、ビニールの白 い口を動かし話しはじめてた。」(12月5日) [店先]
12月1日 骨董店の店先を過ぎる。ランプが灯って古道具も賑やか。フラッシュを付けたまま ボタンを押すと、螺鈿の細工ががきらりときらめく。螺鈿の光は妖しい。海の深さと 繰り返す波の時間をたたえている。骨とは呼ばない貝の石灰質が森の木のなかで光を 投げる。