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2003年 3月分

[浮上]


3月31日
 浮上するとき、光へむけて、なにかの取り決めがあっる。
緑の葉となるか、緑を捨ててつくしになるか、別れてゆく。
植物の決定は地の中で、光の響きをたよりに行われ、ある
日、そっと浮上する。

[りゃくだつ]


3月28日
 やさしくない手がにぎりしめ揺さぶり、檻を壊す。壊れると、手はやさしくなって
とまり、宙に浮き、そっとふれる。檻の中のものを掌にのせる。欲しかった。という
思いが掌につくと、手はかるくなってジャンプする。でも手首からみれば踊っている
だけ。指の関節ががくがくして、ブレイクしている。肉が切れて痛みが走る、それも
フラシュッ。
 ・・ほんのわずかなもののために、とっしんすることが、できるなら。できなくても
壊すべき檻を見失わずにいること。


[杏子 まばゆい 3月26日]



[町]


3月26日
 フスファルトで繋がる道路の上を運ばれてゆく。道路に沿って電線がつながれてゆく。
私の体と私の言葉が、別々に運ばれてゆく。同じ時間のなかに。これから、どこに、
浮き上がるのだろう。突き当たるのだろう。散ってゆくのだろう。バスの共通カードを
かって、白いビニール袋のなかにオレンジと海苔の佃煮を入れて、頭にはまっている人
の姿や声をぼんやり浮かべている。私はこんにちは、元気だった、といって笑うだろう。

 


[杏子が咲く3月25日]


3月25日
 ほぼ満開の杏子。雨にふられて少し散りはじめている。

 アレルギーの原因が分かった。一月に買った鉢植えの花「プリムラオブコニカ」の
かぶれだった。治療薬を一ヶ月以上も飲んでも手の腫れと痛がゆさがなくならかった
はず。皮膚科で症例のファイルをみせていただいて、植物のページにその花の写真が
載っていた。毎日水をやったり、花を摘んだり、世話をしていたのがあだとなっていた。
結晶状の微細な棘が皮膚に刺さり刺激するらしい。いまどの花屋さんにもあるポピュラー
な花なのだ。数年前にも買ったがアレルギーは起こらなかった。発症には体調や体質が
関係するらしい。花粉症の予防薬の方はまだつづけなくてはいけない。


[さくらのさくまえに]


3月24日
 イメージ・フォーラムの卒業制作cプログラムを見た。
安田薫さんの「Happiness もしくは Harness」がすばらし
かった。若い母親の彼女が、癒されようというのではなく、
何かの引力によって実家へ帰ると語る。ホームとは何か、の提示。
 母が飼い犬の世話を熱心にするところから、ハーネスで繋がれ
ている家の中の存在どうしの関係に焦点をあてる。また望んで
一人暮らしをする祖母を訪れ、祖母と孫のおしゃべりの場面を
とる。祖母が好きだと思って娘が買ってくる菓子を実は祖母は
好きではない。それは孫の彼女のために昔、用意しておいたの
だという。些細だからこそ家の中の関係の緊密さと亀裂が、
くっきりみえてくる。それから日常にもどってきて、彼女はさわ
がしい子どもづれの若い母親たち一緒にいてぐちを話す。自由に
ならないストレス。子に拘束されている日々。子のかわいさ。
子に当たりそうになるが絶対それはしたくない。そうしたシーン
からは、産み育てるほ乳類的な人生と、生き生きと生きたい人の
欲求を開放する人生とののっぴきならない対峙を、引き受けて
生きる現代の女の子の厳しさが鋭く浮き上がってくる。
4日間の一人の時間をもらい彼女は台湾へ旅行できることになる。
それを映像として作品にしようと考える。しかし、まわりから、
そんなものは刺激がないからつまらないと言われる。これが彼女を
取り囲む創作の環境。しかし彼女はめげずに決行する。観光である
という認識をひとつもごまかさずに、目にとびこんできた、感性に
ふれた旅先の人や物や海辺や町や店の雰囲気や空気感や光を撮る。
そして台湾の犬がハーネスも鎖もなく、磯や路地を楽しそうに跳ね回る
姿を追う。映画の冒頭、赤い風船が空に揺れていたが、その糸を
もっているのは夫。彼女は台湾旅行から帰ってくる。帰れるところ、
つまり糸をもつ夫との家庭。それを安心の場としてかえってくる。
彼女は自分についているハーネスもごまかさない。台湾の映像には
観光の甘さにぴったりのセンチメンタルな曲が大きな音でながれて
いた。それが、緊張感を溶かし、彼女のように生きている人が、
日本だけでなく世界中にいることを伝えてしまう。ひとときの観光
をしながら。そして厳しい対峙のなか、ぜんぜん厳しくないような
ふりをして、女の子が子どもを育て、創作をする意志を遂げたことを
宣言する。映像表現が、いまこのように行われるようになれたことを
祝福したいと私は思った。創作者たちも立場がいろいろで、無理解と
いおうか、ギャップがあってそのギャップもおもしろいと思った。
そしてギャプはいいけど、切り捨てはぜったいにしてほしくないと
も思った。


[杏子が咲く3月24日]



[杏子が咲く3月23日]



[杏子が咲く3月22日]



[いる・すぎる]


3月22日

 「いる・すぎる」

 眠っているとき、ワタシは白いような気がする。澄んだこと葉が、夜の木の枝で透明
な葉をそよがせている図は、きれいすぎてうそっぽい。ワタシは眠っているとき、こと
葉として木の枝で、まるでひっかかった白いビニール袋のようになり、ふくらんだりす
ぼんだりしている。きっと。ころんで起きあがるとき靴下が真っ赤な靴下だったので、
その上にベージュの靴下を重ねてはいた。あれはどんな意味があるのか、と目覚めてから
ワタシは袋の中のものを出してみるようなことをする。意味があるように思えるのは、ワタシ
は袋の中に入ってくるものを好きになるからだ。でも切ってはいけないものを切ってしま
った。可愛がっている猫のシロ。毛並が柔らかくすべらかなシロが、ぐんにゃりと横た
わっていたとき、ぬいぐるみになってはいけない、と手を施した。違うような感じで指に
力がはいらなかったけれど、ハサミでシロの首を切った。切り離されたシロの頭を見て、
ぜったいにワタシは、間違ったことをした、と悲鳴をあげ、いそいで頭を拾って首を胴
へ付けた。何かから逃げていると、間違うことをする。ハサミが金属の刃で説教を、しぼみ
きった白い袋に突き刺そうとした。と、そのとき、カチンカチンカチンとアルファベットが
説教を弾きとばした。cat、kit、cut、こと葉の木の実が、はじけ、ハサミを撃ったのだった。
夜の実が皮を裂いて飛び出し、ハサミめがけて撃ったのだった。説教する刃が倒れると、
シロは白い両手の平手をこちらに向けて、ばいばーい、とまぶしく笑いながら、少年の
ような少女のような陽気さで道を遠くなっていった。ワタシは白いビニール袋の中という
のは、道が遠くまで続いているらしい、おもしろいなと感心した。そしてシロが遠ざかるとき、
なんにもなくなっちゃうように、淋しかった。
         


[杏子が咲く3月21日]



[知らなかった]


3月21日
 杏子が咲いてゆく。一方、街をあるいてどきっとした。醜い。しらなかった。こんな
色の街を歩かなければいけなくなったなんて。


[杏子が咲き始める3月20日]


3月20日
 今年もまた裏の家の杏子の花が咲き始めた。早い春に速く咲く杏子に、毎年焦らされて
きた。今年は花展で少しだけ先に開いてみられたような気がする。

 花を咲かせ種子を飛ばす杏子が窓から覗く。机の上には新聞の切り抜きがある。
甦れニッポン人というコーナーで多和田葉子さんが語っている。
 日本という国や日本人とぴったりくっついていた日本語はドイツ語に洗われて、
一つ一つの文字や音にまでばらばらになり、かえって可能性を秘めているように
見えてきた。「日本語でもっといろんなことができるのではないか。常識に引っ
張られずに、言葉の力だけでゼロから創造できるようになった」
 昨年刊行した「球体時間」について「言葉と思考でものを作り出す世界を中心に据えて、夢を
飛ばす力がすごく大切だということを、語りかけたい衝動が強かった」と、多和田さん。
 日本語の可能性をじる。夢を飛ばす力。じっさいに多和田葉子の文章を読むと、私は改めて
書く楽しさを刺激される。可能性を刺激される。ことしも杏子の花が咲く。


[子ども用]


3月19日
 季節の変わり目でアレルギーがひどくなり、目にも少し異常がみつかり、皮膚科と
眼科をはしごする。疲れが出てしまったのか腹痛があるからひょろりひょろりと病院
を巡った。こんなときは下ばかり見る。と、小さな足用のスリッパがたくさん用意さ
れていた。こんな小さくても、体が悪くなるのかと思うと、生きている身体は強いよ
うで危ういものだと思う。それから、私は大人用のグリーンのスリッパを履いて、あ
たりまえのような顔をして待合室にはいっていった。

 花展の反省はこれからゆっくり考えよう。そして、これから、に繋がる何かをみつ
けてゆきたい。


[花展終わる]


3月17日
 「花展」が無事終わりました。11点展示して、ひとつ「センタン」が飛び立ちました。
額装もせずにプリントアウトのままのDスタイルでやって爽やかでした。
 「センタン」は今 S県S市H田家のコーナーの S智子のところをクリックすると現れます。
                (3月20日 センタンは消えましたが S県S市H田家のコーナーはおすすめです)



[枝の行方]


3月13日
 光のなかに、枝わかれる。空へ。水のなかへ、枝わかれる。地中へ。
一本の幹になっているのはほんの一部分なのだと気付く。

 「花展」で16日の日曜日にも詩を朗読します。4時からになると思います。
よろしくお願いいたします。


[旗が目印]


3月10日
 明日から「花展」がはじまります。入口は旗が目印になってます。
どうぞ、お出かけください。

[路地の上]



 狭い路地で宅配の車をよけ、塀の切れ目にしりぞく。その後をバンが走ってゆく。
それから自転車がはしてくる。もう通れると、足をふみだそうとしたとき、ちらりと
華やかな頭上に気づいた。


[ぺろり]


3月8日
 ミケがまた来た。きょうもぺろりと猫缶をたべる。何年たっても
警戒心は変わらないから、ドアをあけたままにしておく。


●ポエトリー・ジャパンの日替わり詩に
 私の詩がのってます。

[窓から橋がみえる]


3月7日
 その部屋には川が流れている。
 佐藤淳一写真展 Driving air のギャラリーの部屋の片は川に続いていた。
 そこは、逆さまの世界。デジタル写真の透明がひろがる。私達は逆さまの天の路面に
足をつけてぶらさがっている。

●高橋明洋ワンダリング・バッグ・コラボレーション
 へ、私の部屋のビニール袋の写真を送った。


[3年ぶりに来たミケ]


3月4日
 とても風が強く吹いていた。裏口で細く高い声が鳴く。ドアを開けて
びっくり!!ミケがやって来たのだ。子猫に餌場をゆずって出ていってから
3年ぶりだ。3年も来なかったのだ。やせているけれど元気だ。餌を急い
で食べていたから、きっと腹ぺこだったのだろう。がんばって生きている
のだ。ミケ。生きていて良かった。また食べにおいで。いつでもおいで。

 「花展」の詩を直す。写真を直す。プリントし直す。A3ノビの紙を何度も捨てる。
言葉と写真の二重の直し。大きいプリント紙を何枚も無駄にするのが気が引けてしま
う。言葉を書いて、写真とバランスをみて置く。一枚の紙に構成しながら、言葉
と写真の自分の表現について考える。言葉の独立した表現と写真の独立した強度。
おのおの、表現としてありながら、起点としての絆があることは、発する側からす
るときっても切れない。時間と場とワタシの起点が、溶け合っている。
 しかし展示空間への選択をしていると、自分の「言葉と写真の関係」のレベルが
何通りかあり、並べるときが難しいと気付いた。今回は文字を縦書きにしてみた。
紙にまっすぐ一行、ということもしてみた。本の字詰めとは違う、と知る。
 一行の具体的な長さとは何だろう、と初めて気付いて、ワタシは、本のペー
ジの行の長さに慣れきっていたのだ、と思った。