今月へ 2003 5月分 [めまい]5月31日 ブリジストン美術館へ「レオン・スピリアールト展」をみにった。 代表作の「めまい」は急勾配の階段が塔のようにそびえ立つ、非常に危険な崖のような ところを女の人が、身を屈め、降りてこようとしている。強い風がふいているらしく、長 いスカーフがたなびいている。みているこちらも、めまいがしてきそうな不安定さで危 険を感じる。20世紀初頭のベルギーでほとんど独学で描いたものだという。その身体 感覚の再生は、レオン・スピリアールトの世界の体感として伝わってくる。体感と してのめまいの普遍性を呼び起こされるとき、いまここと作家の精神状態が交感する。 抽象的な海岸線が大きく波打つ線で描かれ、海と砂浜との境界の揺れの、まさに境界の ところに、女の人が立っている構成も多くあったが、これも構成がテーマではなく、 境界線の真上に立っている精神状態の孤独さがつきだしてくる。その失調感を露わに晒す ものと向き合っていると、隠されている自分の失調感を指さされ、あわてながらも、 指さされてしまったことで、安堵する。それはとても素朴な体と心への手紙のやりとり のようだった。自画像でも、隠れた精神状態を引っ張り出す試みを、執拗にしている。 作家にとって必要なことと、時代の表現とは、必要の切実さで、引き合っていると思 った。 (6月6日まで開催されてます) [ふたりのように]
5月28日 めずらしい白いハイビスカス。二人でなにかを待つように、空をみている。 [尖る]
5月26日 「緑へ尖る」 窓があれば、人は窓辺に立ちたくなるし、外をみる。みてなごむ外には街路樹や 公園の木々やとりどりの花の咲く庭や、都市ならではの屋上庭園、郊外の開発の されていない小高い山の緑などが窓の外にひろがって、眺めのいい部屋、とその 部屋に立ち寄ったなら呼びたくなる。『眺めのいい部屋』はアイボリーという 名の監督によって撮られた映画。すごく緑の似合いそうなアイボリー氏は、その 映画の中で美しいロマンスを描いた後に『モーリス』という映画を撮った。 モーリスという青年と彼に友情以上の心をよせる青年との恋愛感情が封建的な世 の中に破られる痛みをあらわしていた。まるでアイボリー氏の心が破れ、絵の具 のチューブの破れめから、窓の外にひろがっている緑に混じってゆくように、 哀しみと批判が世界に流れてモスグリーンとなっていった。 モーリスの名は発信する。 モスグリーンの気高さが苔むさないようにモスではなく、森のリスたちの息づいている モーリスと名付けられたのだ。 なるほどとワタシは遠くを思う。遠い記憶が開かれてゆく。モーリスという名の青年なら、 きっと緑のイーメージを胸に抱いてくれるだろう。小学校の宿題で読んだ『みどりのゆび』 はとてもよかった。その著者もモーリスという人だった。モーリス・ドリュオン。 あれは童話? 触れるとどんなところにも緑の草や花が咲き出す不思議な親指をもったチト はじめはチトさえ気付かなかった 庭師のムスターシュおじさいんが見つけてチトに教えてくれた みえないけれど草の種はあらゆるところに落ちていて チトが指でどこかに触れるととたんに草がするする生えた けれどある日、裕福な家のチトの町にも戦争のうわさ 戦争が何か知らないチトは庭師のムスターシュおじさいんにたずねる 「破壊して、めちゃめちゃにして、ほこりにしてしまうということだよ」 「花でいっぱいの庭が、たった二分でなくなってしまったのをわしは見た」 その上やさしいお父さんの経営する工場は兵器工場 知ったチトは胸がいっぱい どうしたらいいか考えた チトはお父さんの工場へゆき兵器箱にそってあるき 大砲のなかにもぐりこみ 機関銃のなかにゆびをいれ わき目もふらずに工場じゅうに親指を押しつける押しつける 父の兵器工場からは敵となる国の双方へ兵器が売られていったわけで、戦場で両軍が砲撃 しあうと飛んでくるのは花ばかり。 ジギタリスとツリガネソウとヤグルマギクの雨 ウマノアシガタとヒナギクとハコベの洪水 スミレの花束の雨雹 花合戦となり戦意が落ちて、戦争はとりやめになった。 これだけならばたしかに童話の流れ ところがこれからがモーリスだった 兵器の欠陥で父は非難され受注がなくなって兵器工場は閉鎖する。 工場でもつ町の経済も大打撃となってゆく。父が権力で人々の取り調べをはじめようと したとき、純粋なチトは勇気を出して父にみどりのゆびを告白。 チトが指を押しつけると部屋の壁から草木がするする生えてくるのをみんなにみせる。 父は憤怒、人は青ざめ子どもを刑務所へ送れという。 みどりの親指は子どものワタシの心で確かな真実だった 悪いこと、みんな無くしたい。ワタシもみどりの指が欲しい。そう思った、心から。 けれど大人のワタシは思う「みどりのゆび」は願いだと。戦火を潜ったモーリスの。 だから「願い」に託されたことは何なのかよくみなくちゃいけない。 願いは叶うという話だと受け取ってしまってはだめなのだ。 ここで父は苦悩を重ねる。 何度も重役会議を開く 仕事部屋に閉じこもってノートをとっては破りすてる 会議で議論しノートを破り父は何をしていたか お父さんは考えていた コトバを使って想像力をいっしんに伸ばしていた よくなるために ひとびとが よくなって生きてゆかれるために それがお父さんの意志だった 草のつるが伸びてゆく 想像力を支える力が 草のつるを伸びさせる お父さんの「みどりのゆび」は 頭の中の手にあって その手はコトバでできていた 想像力が体をめぐる 草のつるが縫ってゆく 心をめぐる 裂けた体を 胸の日向や傷の湿地を しなやかな緑の草はめぐり 呼吸している 生きている意志は 古いかんがえを すてるにいたる こと葉の道筋を青々と付け おそれなく渡ってゆけるよう ときにはペンを握り締め 地図のように記すだろう コンクリートの割れ目に生えた草がコンクリを割ったのを ワタシも目にしたことがある かくれていた種が生え出すように 移ってゆく 足を踏み出す 道筋はこと葉 青々としたグリーンに添って何をしよう (6/17) [胸のあたりから浮き立った]
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5月25日 シャボン玉のことを詩のなかで書いていた。だから直後に出会った この風景にびっくりしてしまう。それほど頻繁にシャボン玉と出会う チャンスはないのに。 [車の見ている通り]
5月24日 ひがな一日、エンジンが働くことのない日は、このような風景を 見ているわけで、ときには猫に昇られたりもする [輪]
5月22日 「輪」 ワタシは風の声を聞く。聞こえるのだから耳かもしれない。輪郭だけ残ってしまったワタシの形はた ぶん耳だと思う。耳の輪を風がさわって過ぎる。さわられていると中味のない輪の形でも何かの出口の ような気がする。何が出てゆくのかわからないが、過ぎる風を聞いていると青空のように気分が晴れる。 気持ちが向いて流れると、みずいろのほうへ晴れてゆく。たとえば晴れた日の庭で、ワタシはときどき 石鹸水にひたされる細い金属の輪で、子どもの指に握られる。心の硬かったところがどうも金物感になっ たらしい。シャボン玉が光りながら建物のどこかから昇ってくる。虹色の光を回転させて昇って、空で ぱちんとはねる。何かを飛ばしたいと思う。風にのせて飛ばしたい。風を出口の形に限る。金属の輪と 石鹸水で、シャボン玉をつぎつぎ飛ばす。きょう限り、と言われて必死になる。もう少し待ってくださ い。もう2〜3枚書けば終わります。紙が書かれる文字を限る。シャボン玉ひとつひとつのように、一 枚一枚が、薄く震えて、人の頭のなかをさまよう。ページを繰る指がシャボン玉を作りなから透けてゆ く。透明に軽く浮くように。熱いコーヒーは朝にかぎる。もうこなくていい、と見限られる。ぎゅっと 閉じると内側がふるえ、カギをかけて部屋を限ると、部屋の中で、あふれんばかりにふくらんでゆく想 いがあった。あっても形じゃないから軽い。キーホルダーになっている丸いアクリルの中にはぴったり 四つ葉のクローバーが入れられている。丸いアリクルは揺れながら中味はちょっと重いと語る。クロー バーは摘み取られるまで、林のそばの野原に生えて、木々のこと葉と触れていた。緑のハートの葉の上 に、木漏れ日がゆれて、木々の話が影絵のように伝えられる。木の幸福は切られないこと、刻まれない ことだと教わった。けれど、あまりにもあたりまえのことなのでひどく哀しくなった、と秘密を漏らす クローバー。あの葉はハート形なので、案外うち明け話などを聴かされやすくたいへんなのだ。 [まるで海の中]
5月20日 みあげる。みまわす。さまざまな魚の群がゆく。回る。逃げる。 まるで海の中にいるようだ。ぼーとなってしまう。浮遊感にとり 残され、なぜ自分は魚でないのだろうと感じる。不器用に二本の 足で床に立ち、ちよっとジャンプするくらいしかできない。あら ためて身体の重さを思った。 [群]
5月19日 群になって回遊する。潮の流れのひろい道を、けっして直線ではなく移動する。 [エイの道]
5月18日 空を飛ぶようにゆったりとヒレを広げて、みな同じ方向に泳いでいる。魚だと いうことを忘れてしまう。優雅な飛行が滑ってゆく。私は乾いた体で垂直に立ち エイの速さを感じている。すべらかな遊泳が私の体を通ってゆく。私はエイを体 にくぐらせ、気持がなめらかにされてゆく。ぽかんと上をむきながら、分厚いガ ラスにへだてられた海のなかへ含まれてゆく。 [水族館で]
5月17日 ピンクの魚があざやかに泳ぐ。花の他にもこんなピンクがあるのに驚く。魚がひらひら するだけで異界へまよいこんでゆく気分になる。珊瑚の中にいたらこの魚たちも目だたな いのだろう。 [散歩]
ゆったりと散歩する。やわらかな珊瑚の草原。 [水族館で]
5月15日 水族館へゆくと私のデジタルカメラが炸裂してまう。水中の魅力と浮き泳ぐ魚の 魅力で憑かれたようにシャッターボタンを押しつづけてしまう。そんなとき、間近に さめた顔の魚がきて、私のほうを見つめてゆく。魚だと思って安心していたのに、こ んなに人の顔みたいな魚がいたなんて。見透かされているようでどきっとする。 近くの人がナポレオンフィッシュと呼んでいるのを耳にする。 [5月の庭]
5月9日 思い描いた色彩を考えて植物を植えてゆく。それで個性が表れるから庭作りは真剣そのもの なのだ、ということをメイ・サートンのエッセイで知った。きょうは天気がよかったので、母 のホームへゆき、車椅子の散歩をした。その散歩の途中でこの庭があった。色彩のハーモニー がやってくる。花の開花時期がこうして一致している時間はごくわずかなのに違いない。そん な短い時間の庭に巡り会うことができてよかった。花の咲き乱れからくる幸福感。これは私達 の記憶の古い層にもきっとある。大通りへ出ると車の往来が激しい。バンのなかでは書類を口 にくわえたまま運転している青年がいる。タクシーの後ろのシートで携帯電話を耳に当て、頷 いているスーツ姿の中年の男がいた。舗道と車道の坂にはまると車椅子が傾いで危ない。注意 しながら押してゆく。それでもさまざまなシーンが目に映る。母はホームであったことを話し 続けている。ノンストップで話し続ける。私は相づちをうちながら、きょろきょろしながら、 安全を確かめて押してゆく。「創造は記憶の古層から」ゴダールの字幕が舞ってゆく。あれは 「映画史」だったと思う。知らない街の映画館で映画をみたい、とふと思う。 [ガードレールの外で]
5月7日 車の排気ガスがある。でもここなら草は轢かれない。すこし光もさし こんでいて、空だってみえないわけじゃない。走り去る車の風で 離陸した種子が、もうすこし土のあるところへ運ばれてゆくこと もある。 [プリントアウト作業]
5月5日 ●個人誌 「 the memoris 」 創刊準備 自分でできる形で、個人誌を作ってみることにしました。 きょうは一日インクジェットプリンターでプリントアウトの作業。 写真を起点にして書いた詩を、どのようにして届けられるか考えてい た。デジタル写真であること、カラーであること、その写真が詩の 起点という緊密な関わりであること。これらの要素を損なわずにす るために、自分でカラープリントをして、カードのように詩と写真 を一枚に収めた。カードを手にとって写真を感じ言葉を読んでいた だければと思う。 「 the memories 」は詩誌の形にこだわらずにゆこうと考えて いる。このmemoriesのコーナーを紙に反映させたものだが、私の気 持ちとしては、生活のなかで身近に手にとって詩をよんでもらえる ように、という願いがある。詩をよむとき、ぜいたくなことをいえば プライベートなリラックスできる場や時間に読んでもらえれば嬉しい し、忙しい生活のなかでふと手にとっていただけるならホントに有り 難い。 [人工芝を持ち上げる]
5月2日 つよい陽差しのなか人工芝が濃く緑をひろげていた。そこへやわらかな草の緑が 這いだして、人工芝はズレたりもちあがったりしている。それでもよく見なければ 自然の緑か人工の緑が気付かずに通りすぎてしまうだろう。重い毛布を引き剥がす ように柔らかな草が力強く意志をつよめて殖え生えすすむ草のにみどりにほっとす る。 ●「衰退いろいろ」の感想 「衰退いろいろ」は今までの取り方と違って鈴木志郎康さんが画面に出て こない。自分のまわりを撮ることで、自分の思考を語り「衰退」を浮きあが らせるものだった。自分の外が気になってゆく、その外の場には、授業のな かで「嘘の話」を教室で発表する生徒や、自分の現在が数年前よりも開放され たと話す山本遊子さんがいる。言葉で語ってゆくなか、どういうことが開放 なのか明らかになる。その言葉で語られてゆくことを聴いて理解してゆく、 つまり言葉の存在は大切だということが気付かされる作品だった。ダンスを する生徒たちの発表に向けての緊張感のある練習風景があり、体が表だって くるところで、さきほどの語る言葉がやってくるので、言葉の存在、につい てのことが際だっていた、と思った。「身体が言葉を獲得してほしい」とい うナレーションが耳にいつまでも残っている。衰退、ということも、若い人 が語っていた言葉から、つまり新しい意識から、照らし出される。どちらか というと発見のような意味合いで衰退、があり、衰退のまわりには明るさが ある、そう思った。