今月へ [どうしてここに]6月30日 近くに公園も川も池もないのに、どうして鴨が。舗道を歩いて 住宅街に。どこかから逃げてきてしまったのか、飼い主が捨てた のか。保護しようにも、下手にちかづくと、危険な車道へでてし まう。けっきょく私は通りすぎてしまった。 [路地の猫]
6月28日 ふりかえった。老いた猫。よくここまで生きてきたね。 車ばかりで危険な都市で、生き延びてきた猫を愛おしく うつくしく思う。 [鏡には回る街]
6月25日 等間隔に並ぶステンレスの杭。その杭に添って歩いてゆくと、等間隔に銀色の街が くるりと回って歪んでゆく。 とても久しぶりにルイス・ブニュエルの映画をみた。 「哀しみのトリスターナ」。 そして気付いたことがある。ブニュエルは人間社会の残酷さを冷徹に、手をゆるめず に描ききることで、返って清潔に人間の社会の惨さを陽に晒したのだと。 「哀しみのトリスターナ」は母を亡くした娘が、貴族の男の養女にゆき、養われるが 父親同然の養父からセックスの相手をさせられてしまう性的虐待の内容だった。そのた めに悲劇がおこる。タイトルの「哀しみの」という言葉は「憎悪の」が本当。その証拠 にはトリスターナは最後まで一貫して養父を憎み続けている。経済的な無力さが出発点 の女性が、養父に人生を踏みにじられ、飛び立とうして挫折し、その憎しみを貫徹する という展開になっている。ブニュエルは原作を曲げてそうしている。当時この視点で撮 ったことは凄いことだと思う。トリスターナを悪女とか、魔性の、とか形容している映 画評がまかり通っているが、ブニュエルの視点をぜんぜん分かっていないと思う。なぜ 虐待の相手に反抗することが悪女なのでしょう。つまり人権のところに女も入る、とい う意識がない人がずいぶん多い、ということだろう。 [空には]
6月22日 ふしぎな色の光が、夕映えの街を横切ってゆく。宙に浮いた立体交差の 道路の橋は、どことの架け橋なのだろう。 19日にふれたサイトは広田早智子さんのサイトです。広田さんは 森ミキエさんの詩の感想にふれ、自分も書いてみようと思った、と メールを送ってくださいました。 ●広田早智子さんからのメール 6/22 the memories「いる・すぎる」を黙読している時は イメージが湧かなかった。 眠っている時に白いビニール袋になる感覚が解らなかった。 それから時間をおいて、音読してみた。 その途端、詩の世界が「見えた」。 夢を見る器官が脳ならば、白いビニール袋は北爪さんの脳みそ。 ふくらんだり、しぼんだり呼吸している夢袋なのかもしれない。 「ころんで〜〜重ねてはいた」「でも切っては〜〜胴へ付けた」等 状況の説明から急に夢が始まる。気がつけば一緒に飛ぶ。 その夢の途中に、おそらく北爪さんが何気なく、しかし重要に 思っていることが出て来た。 「ぬいぐるみになってはいけない」「何かから逃げていると〜」 この二文は夢と一緒に書いてあるけれども読み過ごしてはいけない 部分と思う。 最後に、こと葉の実が弾けてハサミを撃つのは、 北爪さんが北爪さんである証拠と思えた。 jsatoの言葉を借りてこの場をしめたい。 「夢は核分裂のように扱いが厄介だが、 取り出せるエネルギーは桁が外れている。」 (武蔵野美術大学デサイン情報学科佐藤ゼミ展 「夢を測る/Mesauring a dream」ステートメント抜粋) 詩を読んでいたらある光景が浮かんで来たので 描いてみました。 *注 jsato とは 佐藤淳一さんのこと。 武蔵野美術大学デサイン情報学科の広田さんの先生 ○私から広田さんへの返事のメール 6/22 メールをありがとうございます。 感想を読んで、音読して詩の世界が「見えた」。というところ はっとしました。はじめ白いビニール袋のイメージがつかめな かったというのも率直な感想で参考になりました。白いビニー ル袋のことを夢袋と受け取ってくれたところも、この詩がお読 みになった広田さんのものになってゆくことができたのだ、と 感じ、とてもうれしいです。「ぬいぐるみになってはいけない」 という言葉は広田さんにすくい上げられてみると、確実にメッ セージがはいっているのがわかりました。これも森さんの気の つかれた言葉のときと同じく現場の声だったのです。 なにしろ、こうして広田さんが詩の世界が見えた、というふう になった事がとてもうれしいです。」 [測量]
6月19日 距離を測る精密機械と出会った。三人の測量士さんが 路地に入り、標準点を確かめたりしていた。私がカメラ をむけているとちょっとふりかえったけれど、すぐに仕 事にもどられた。 私と街、私と人、私と何かの距離は、測れないけれど、 とりあえず自分にある距離感を保って、日々いきている のだなと思う。 そんななか家族の間にカメラとwebを置いて、部屋の中 で暮らす様相を浮き上がらせる試みをしているサイト がある。「aio39」の● S県S市H田家のコーナー。 勇気のある計測行為だと思う。独特のユーモアがあって 笑わしてくれるのだけれど、これは、作家ひとりが、 がんばって凄いという範囲ではない。見続けて日々を 伴走することで感じることがでてくる。そう伴走して いる感じがするのだ。私は私の暮らす室内があり家族 がいる。そこへある視点が照らされてくる。べったり だった私的な意識が薄く剥がれて、すこしづつさらさ らになる感じがする。 [みどりの蔓草がのびてく]
6月19日 つたわってゆく。みどりの蔓草。草のしなやかな指先は、 明るさのなかへとのびてゆく。 森ミキエさんから、私信のメールで「瞼」と「緑へ尖る」の感想をいただきました。 とてもていねいな感想に感動しました。載せさせていただいてよいか伺ったところ おどろかれましたが了解してくださいました。 ●森ミキエさんのメール 6/15 「瞼」とてもよかったです。まず現実から入っていって、その怖さにチャンネル を換えながらも次の場面を想像してハラハラしている感じがよく出ているし、それだ けに 終わらず「ナイ瞼は動かせないからナイ場面を消せない」と表現することで、人 間の想像力の威力や不思議さを改めて思い出させる力があって、凄いなぁと感心しま した。なのて゜、前半最後の「ワタシは知らない、これ以上」という一文が私には 少し違和感を持って響いてきて、これでいいのかどうか、判らないでいるところです。 後半の逃げる夢・追われる夢は、そうこんな感じ。やっぱりハラハラします。ここ での ワタシは、奄美の黒兎と呼応していて夢の中に居る時の自分は、闇の中の黒兎の ように体が隠れてしまっていることが多いなと気づかされました。ここでは同じ「開 きつづける瞼」のことでも、潜在意識とか深層心理とかのことになっていて、チャン ネル変更できない怖さ、欲求のまま眠ってしまう怖さも感じました。そして潜在意識 や深層心理は自分の意志に関わりなく現実の時空に頭をもたげてくるのだという脅威 さえ感じました。と、ここまで書いて気づきました。想像力は個人の体験や経験や実 感によって育まれるものだから前半最後の「ワタシは知らない、これ以上」という一 文はあっていいのだということに。ところが、後半の最後の二行に来てつまずいてし まいました。「連れてゆかれる」とあるけれど、これは何にどこへ連れてゆかれるの か(夢によって心の深部に連れて行かれると一応解釈しましたが)、また「出かけ て行くと〜花畑に出る」というのは、連れてゆかれるという受身の動作に対して自分 の意志が働いていると思うのですが(当初は連れてゆかれてもそこからは自分の意志 によって出かけて行くと良い場所へ出るということなのかな?)、この辺りをどう 読み 解いたらよいのか、私の未熟さゆえによく判りませんでした。それから、「負の 茎」という言葉が気に入りました。 「緑へ尖る」もとても興味深く読ませていただきました。こういう書き方ってす ごく新鮮で、面白かった!「みどりのゆび」の筋立てと感想を述べながらことばの力 のことを賛美していて、戦争のむなしさを際立たせていると思いました。構成もとて も自然に流れるように良くできているのではないかと思いました。窓から街の緑を眺 めるように始まり、いくつかの緑にまつわる思いを追憶しながら深く内容に触れ、結 びにはまた緑を眺めながら何かが生まれてくる気配で終わっているように読めたから です。でも、最終連は“まとめ”のような感じにもなってしまったかなとも感じま した。蛇足ですが私もモーリスって緑色だと思う。少しズレるけど、トム・ソーヤ は青でハックルベリーは茶色なの。 二篇とも一つのことからイメージが少しずつ変容しながら連続していって別のこ とになって帰結する、その道筋をたどりながら読める楽しさがありました。 以上が感想です。 ○私から森さんへ返事のメール 6/17 丁寧によんで感想も詳しく書いてくださって、ありがとうございました。 こんなに的確に読んでくれて、また森さんの視点をだしてくれて、とても 感動してます。指摘してもらった、自分でも着地がうまくないと思った 「瞼」のラストなど、よく考え直してみました。じぶんでは、「ワタシは 知らない、これ以上」など現場の声として出てきているので、案外これが、 キーワードとなって考えるときに、怖さということと関係しているのが分 かってきました。否定、見ないこと、覆い、無意識の、という深いところが 見えてきました。よい指摘をありがとう。 「緑へ尖る」もモーリスの色について共感がいただけてよかった。 私はもう少し、花合戦以降の詩の内容を考え中です。もうすこし 「みどりのゆび」を持つことについて大人の視点で思ったことを 入れるほうがいいような気がしています。 ○その後「緑へ尖る を推敲しています。 *皆様へ 「メモリーズ」の詩をお読みになって、どんな感想をお持ちになったか どうぞお気軽にお聞かせください。お願いいたします。 [雫は棘につかまっていた]
モーリス・ドリュオン著「みどりのゆび」を読み直して、大人が童話を 単純な比喩につかってはならない、とつよく思った。 「緑へ尖る」を推敲しました。 [チェリー]
6月17日 どうしても踏まずにはすまないほど道に実が落ちている。 靴の下で、もう潰れてしまっている実を感じながら歩く。 花が咲いていた頃は華やかな気分だった。二か月が過ぎ、 誰も、鳥も食べない実の上を歩いて、とりあえず今日、生 きてゆくのだなと思う。 [空を乗せる]
6月16日 BON APPeTIT は このごろ良く行く若い写真家のサイトです。「LIFE in the BOX」 のコーナーが私はとくに面白い。 どきっとすることばかりで外で社会的にとりつくろっている私達の 仮面が解体されてゆくようなインパクトがあります。超アップで身体 の一部を切り取られるとき、それも電車のなかや街のどこかという公 の場で切り取られるとき、つまらないプライドが、はぎ取られ、生き 物の生な生しさが表面に出てきます。現在のデジタルカメラだからで きる表現だと思います。 [這い出る]
6月13日 いきぐるしさから、這い出ようとしていた。網の目のフェンスは、隔てるために あるのかと思っていたけれど、フェンスをにぎりしめて、昇って、風の吹く高さま で抜けすこともできる。非常階段のように。 [夕陽の波]
[瞼]
6月10日 「瞼」 恐いと瞼を閉じてしまう。奄美の黒兎が険しい岩を昇り降りして夜になると草を 食べに洞穴の巣を飛びだしてゆくとき、黒い兎は森の闇ですっかり体が隠れてしまう。 でも闇の中では音がする。そんな森にかぎって夜に動き回るハブがいる。猛毒のハブ。 卑劣なハブ。せっかくの黒い体も闇も頼りにならなくて、黒兎は張りつめて草を食べる。 ワタシは、夕ご飯を食べる。テレビの赤外線カメラの映像には黒兎へむけて薮からハブが 近づいてゆく。危ない。噛まれる。早く逃げなきゃ。ワタシは耐えられずリモコンの チャンネル変更のボタンを押す。切り変わる画面。もう見えない。見えないはずなのに、 閉じていた頭のなかの瞼が開いて、ハブが近づきつづけている場面が映りつづけてしまう。 これはナイ映像だからと必死に瞼を閉じようとする。でもナイ瞼は動かせないから ナイ場面を消すことができない。ワタシは知らない、これ以上。 でも、ナイ映像ってなくないから。箸をとめているとワタシの指先がぴくりと鮭を離れた。 兎が噛まれる、と思うとゆらゆら頭のなかの映像がむすばれそうになってくるので、急いで リモコンを取り上げてボタンをきつく押していた。黒兎の映る画面へとチャンネルを戻す。 もう、済んだかな。アル画面では敏感な黒兎は気付いて逃げさっていた。 ワタシは開きつづける瞼のことなら、夢のなかで逃げつづけるあのことのようだと思いあたる。 屋根から屋根へ逃げている。屋根から屋根へと追ってくる。屋根の煙突の後ろに隠れる。煙突 の後ろは狭くてすぐに回り込まれる。空へと泳ぐ。泳ぐ手足がひどく重い。廃工場の錆くさい 鉄柱の間を逃げ回る。逃げ回るワタシはみつけられる。ガラスが割れていて薄い明りで地下の 入口を探しあて、地下へ逃げ込む。鉄の棒や鉄板が体積しているその下へもぐりこむ。 すると何かが覗きこむ。気配に震えあがって目がさめて、夜のなかで瞼をあける。姿が見えなかったのに。 どこまでもきた。獣のように。追われてワタシは、負の茎に咲くラナンキュラスの花びらのように 幾重にも茂った獣の罠の瞼のなかへ落ちるために眠っているみたいだと思う。怖いのになぜ 眠るのだろう。頭の中の瞼は開き、なくない?なくなくない? と昼でも夜でもはてしなく つづいてゆくから連れてゆかれる。ずっとずっと出かけて行くとどこかで光にまばゆいほどの 花畑へ出る。出るかもしれない。 [NAYA2]
6月7日 ふとおかれた。そしてそのままに。ふとおいた、手がみえる。 [NAYA1]
6月6日 きえないで。 [水中の笑み]
6月3日 たべられないで生きていられる。ちいさな魚たちのよろこびが、水槽から つたわってくる。いきもののほとんどは食べたり食べられたりなのだと気付 く。そのあいだに殖える。泳ぎのなかには、でも、あそぶ、ということも あるようにみえる。 [きらいな記号]
6月2日 酒屋の店先に酒パックと花がうられていて、日本酒らしいパックに芸者の絵。 日本酒に芸者。正月の鏡餅。それよりも米の酒がどうして女の着物姿で売られ なくてはいけないのか。女の人からはぜったいにこんなお酒は買わない。これ はきらいというより不快。生理的感覚ではなくて社会的な不快感だ。 [とりあえず送信]
6月1日 イメージフォーラムへゆきイメージフォーラムの若い監督の 映画「凪」をみる。ヤング・パースペクティブ。出品作品はデ ジタルビデオカメラでとられたものがほとんどと鈴木志郎康さん から伺う。デジタルビデオカメラができてから、若い人たちの 映画がほんとうに多くつくられていて、ある映画祭の応募は 1500作品にのぼるという。独特といえばすべて独特でなの でどういうものが映画か、ということはもうなくなっている。 作られる作品の多さ、つまり創作の大衆化がそういったことを 無効にしている。もうこれだけ多くつくられている状況は過渡 期ではない。例えばこれは「詩」かどうか、これは「写真」か どうか、という問いもおなじように無効になっている。という ような話しをしていて、ウェブで膨大に創作されている状況が あることになり、これからの表現をどう行ってゆくか、という ところで自分のことをふりかえる。おおきな視野もない私は、 やはり自分が本当に面白いと思うことをしてゆくこと。発表す る機会を持つこと。という地味な事柄をこつこつ、楽しんでや ってゆくことになるだろうと思う。 膨大な創作のうず。そんななかでも評価で示唆する存在がでて くるだろうか。評判がいい、というようなことになるのだろう か。 ところで、サイトを開いて五年になります、と、自分でも感慨 深いものがあるので志郎康さんに言うと、写真が独特な感じにな ってきた。洗練されてきた。と言ってくださった。すなおにうれ しい。