今月へ




[おかえり展、はじまる]

11月29日
 心配していた天気も良く、晴れの日が続きそう。「おかえり」展がはじまった。
ベッパーズ・ロフト・ギャラリーの白い床に並んだ「泉」。透明な箱は一人一つづつ
用意した。蓋をあけて中のものを持っていってもらう。下の段に引き出しがあり、
それは手にとって見てもらうものが入っている。この場はフラット。そのほかテラス、
ハシゴを上ってゆくロフト、通路の空間がある。(通路には参加形の作品があるので
カードに言葉を書いていってください。)ロフトには詩集の展示コーナーもありゆっくり
みていただけたら幸いです。そしてテラスはマグタッチ・ペーパーの展示が自然光の
なかでリズミカルに並ぶ。貼るときのぴたっという感触も新鮮だった。
 慣れない展示で何度かひやりとしたけれど、全体にスムーズにいった。壁や床や天井
近くの梁まで、作品があふれている。、すけっとのパンクフアッションの照明の人が
ライティングを丁寧にやってくれて、光も絶妙にしてもらえた。
 あとは一人でも多くの人に見てもらいたい。

[うろこ雲の夕]

11月24日
 空をみあげると、うろこ雲。どこまでもつづいているような。どんな風の波が
雲を千切れさせているのだろうか。羊の毛のようだから羊雲と言ってみる。触れて
みたいような。柔らかいものが足りない日々に。

[落ち葉の匂いは]

11月21日
 とても枯れたとは思えない咲いているような落ち葉。そっと鼻を近づけて深く息を吸い込めば
日向の匂い。

 『おかえり』展の最終打ち合わせでギヤラリーへゆく。展示方法を詰め、作品を案内したり
質問に答えたりするツアー担当者を曜日ごとに決めた。私は30日火曜日の担当です。
ギャラリーの中は壁も床もまっ白。7メートルの言葉の「滝」や床の「泉」は共同作品で
どんな風になるのか私も楽しみ。

 白い空間に私は「写真ノ窓」というA1サイズの映像と言葉を構成して詩の窓を
出現させる予定です。また、ギヤラリーにはテラスがあり、鉄板で囲まれているのでその
壁面に磁石の紙にプリントした写真30枚を展示します。「繋がれているものを探して街を
あるいてみる」というテーマで撮ったものです。テラスなので雨がふったら剥がします。
そのときはファイルで見てもらえるようにしておきます。どうぞ見に来てください。
 


[入るのか出るのか]

11月19日
 耳元で考える。入るのか出るのか。とりあへず朝になってシャッターがあがって
しまうまで、どっちつかずのままでいるのか。

 雨が降っている。ペッパーズ・ロフト・ギャラリーでテラスの手摺りの鉄板に展示
する磁石の紙にプリントした写真を外に出して試している。だいぶ滲んでいる。少し
の雨なら大丈夫そうだが、やはり長時間は持たない。剥がして取り込む方が良いよう
に思う。はじめての紙なのでどうなることか。でもぴたっ、ぴたっ、と貼れ、動かせる
ところはとても新鮮だ。29日から始まるコラボ。どうか雨が降りませんように。



[紫のなか]

11月9日
 ふと紫のなかに目が落ちた。吸い込まれるように。枯葉が多くなってゆく秋に
光をあびて楽しそうなはなびらの中へ。一瞬でも、花にたすけてもらうのはいい。

 広瀬勉さんの写真展「鳥渡(ちょっと)」を見た。生まれたばかりの子猫が泣きながら
道を歩いている写真にどきっとした。見覚えがある。声が耳にささるようで、胸が
苦しくなった。広瀬さんの映すものはみな胸が苦しくなる。哀しい懐かしさのような。
もしかしたら一つ一つが物語なのではないかと思った。

 


[すっかりない]

11月5日
 なにが下げられていたのだろう。すっかりなくなっている。
 歩いて、繋がれているものを撮っている。
 いままではとは違う撮り方。そんなわけで動揺しているらしい。
 繋がれているものの撮り方がよくわからない。テーマで撮る
というのはとても難しい。驚くほどいつもの撮り方と異種だと感じる。
映像は気持ちが揺れて撮っていたから、テーマの撮り方は違和感が残る。
そのおかげで宙ぶらりんな悪夢をみる。明け方に落ち着かない目ざめ
方をして、私はいったいどういう繋がりをカメラと作っていたのだろ
うか、考えることになった。
 言葉の文字を使って詩を書き、ある世界を言葉を記すことによって読め
るようにする。これも目に見えるようにすることだ。読めばほんとうに
イメージが頭の中に浮かぶ。
 繋がれているもの、というテーマを撮ることで目に見えるようにしてみて、
悪夢をみる違和感があるのは、この撮り方が自分の気持ちにそぐわな
い、ということだ。それなら、私がふだん撮る映像は詩人であるあり方
と私のカメラとが繋がっているということだろう。
 そしてカメラと私は別のもの。そのことが、言葉を「はざま」で自由にさ
せてゆく。私は映像と言葉に引き裂かれながら、そのはざまに言葉を浮かせ
詩を書ている気がする。なにげなく使っている言葉がずれる。収まりが悪く
なって揺れる。言葉を揺らす。ゆれる。揺らぎ。ゆれるものは何かとどこか
が繋がっている。



[11/2の夕日]

11月2日
 秋のこの日、生まれた。それは遠すぎて記念日でももたないと忘れてしまう。
でもなぜ、忘れてはいけないのだろう。とにかくスタートがあったのだからいま
生きている。どこかで始まったということ。それでいいような気もする。いまが
ある。いままでがある。そしていまからはこれからしかない。

もう一度「誰も知らない」をみたいと思いつつ・・。先日ウォン・カーウァイの
「2064」を見る。彼にはぜったいクリストファードイルのカメラが必要だと
思った。小説を書く男は60年代の香港を記憶から呼び出す。男の青春時代だ。
そして、それを未来の時空に書き写す。その小説の世界がSFの高速列車といおうか
高速移動装置の中から始まる。60年代の香港のでの悲恋は、男の小説の未来で
別の悲恋となる。それを木村拓也が日本人役で演じ、彼の香港の恋人はレプリカント
という設定。時代と人が錯綜する映画になっていた。私はどちらかというと、
カメラワークが場面を錯綜させて異空間を作り出して欲しかった。