今月へ

2004年3月分
[止まれ]


3月31日
 母を車椅子にのせて桜の花見へ。公園では馬が調教師とともに静かにたちどまっていた。
子どもたちへのサービスなのだ。調教師のブーツの爪先が号令をかけいる緊張感を伺わせる。
この静かに動かない馬は大人の馬。じっと目もあげず、首もうごかさず、立っていた。

[膝]


3月30日
 ペドロ・コスタ監督の『ヴァンダの部屋』はホルトガルのリスボンにある移民の街
で撮られた。貧しい人達の住む街は強制退去させられ壊されはじめる。がんがんコンクリート
の壁を打ち壊す音のなか、ヴァンダたちは暮らしている。息詰まる、暗く狭いベッド一つし
かない部屋。その部屋で解体工事の強烈な音にさらされ妹とヴァンダが話している。毛糸
の糸を巻き取ったり、アルミホイルをライターであぶり薬をすったりしている。貧しくて
希望ももてない。でも友達や家族との懐かしさの詰まっているこの街を愛している。
ヴァンダが激しく咳き込む。唾を吐く。煙草を吸う。話す。また咳き込む。昼には母の
仕事の手伝いで野菜を売り歩く。一軒一軒声をかけながら。貧しい街の男たちは腕に
注射をしている。皆、体を悪くしている。けれど慣れた街、慣れた家を離れ難いと感じ
ている。リスボンの強烈な陽差しと強いコントラストで映る暗い部屋は、獣の巣穴のように
体臭と体温と安心と倦怠が詰まっている。巣穴のなかのように馴れ合っている。
ペドロ・コスタ監督が2年間ともに暮らして撮った映画らしいが、そうだろうと思う。
ホントにここに住んでいる人の素の行為や声や表情が映っている。長い時間暗い部屋の
ヴァンダとつきあっていると咳をするたびに辛そう、こちらも辛くなる。トーンが
この街そのものに流れる時間と質をそこなっていないのだろう。街の空気がじかに
やってくる。小津安二郎がいなかったらこの映画はなかった、と監督が言っている。
部屋のなかを映すところ、日々の波を追うところ、事件ではなく、出来事と人の人生
との関わりなど、静的に追うカメラがそうかもしれない、とは思う。けれどリスボン
は渇いて、危険で、移民の暮らしはショックを残す。

[スミレ]


3月28日
 もうサクラが咲いている。春なのだ。下を向いて歩いていたら、家のそば路面にスミレを
みつけた。渇いていたり踏まれたりしながらも蕾がつぎつぎ花開く。


[レモンイエロー・アンド・オレンジ]




3月27日
 パスタを食べて終わって汚れた皿をみたらレモンイエロー・アンド・オレンジが
元気。

 イメージ・フォーラム卒業制作展で大木千恵子「つぶつぶのひび」と滝澤圭「UTA」がおもしろかった。
「つぶつぶのひび」が優秀賞になったのを鈴木志郎康さんのサイト・曲腰徒歩新聞で知り私も嬉しい気持ち
がする。納豆工場でシロずくめで働く作者が工場の流れ作業を映すとき、臨場感があったれけど、ホントに
あの納豆工場で働いていたのだ。女友達と合い、彼女が風俗で働いているこというとき、ふつうに話したり
聞いたりしているけれど、ちらりと作ったのかという気がした。でも時給の安い納豆工場のことを言ったり
納豆と自分が結びつかなくてスーパーで売られる様子を見にいったりしているので本当らしいと思った。
 そしてセスナ機に乗って働く納豆工場を撮影すると、作者の地上での位置が息苦しく伝わってきた。少女のころから
飛行機に手を振って、飛行機に乗ることに憧れていたというところは、少女を使って撮っていて、夢をずっと
持っていること、その夢を叶えたい、ということが、セスナ飛行で、上空から納豆工場を映すと、まだ途中
だ、まだまだなんだ、といっているように思えた。叶えたい、ということへアクションを起こしてどんどん
撮っていく。その感じが迫ってきた。

●お知らせ
詩学4月号から詩誌選評を一年間続けます。
現代詩手帖4月号に戯曲『雲母坂』(松田正隆著)の言葉について書きました。


[六本木ヒルズ・52階のオープンエアーテラスで]

3月23日
 大田さんの短歌と私の詩をwebコラボのコーナーに乗せました。
 展望フロアーでは草間弥生展「クサマトリックス」が行われていました。
 大田さんの短歌にあるように、草間弥生がビデオのなかで歌ったりしてします。
 水玉の無限空間や、ホントの干し草を敷き詰めて少女の理想空間を作っている
ところもインパクトがありました。

[イルミネーション]


3月21日
 今月の香り匂いのコラボレーションは「六本木ヒルズの最上階の風の匂い」です。
 詩と短歌を近日、掲載します。六本木ヒルズの最上階の展望ロビーにはオープンエアテラスがあり
ます。この高度で都心の上空の空気の中に出られるところを他に知りません。


[花の形]


3月15日
 たぶん見る人によって違うのだと思う。花というより色彩だったり、機能を見たり、形だったり。
 夫の母の誕生日に花を飾ったのだった。彼女にちくま文庫の木村伊兵衛写真集「木村伊兵衛 昭和を映す」
を見せたら、若い頃に住んでいた町内や、行った店、通った街、などが映っていてとっても懐かしいと感激していた。
こんな髪を結っていたとか、同じような着物を着て千人針を縫った、とくいいるように見ている。そして親戚の人が
映っている、と、生き生きとして昔の話しをして、とても喜んでくれた。

田代田さんからヒマラヤスギの球果の写真をいただいた。先月のメモリーズのヒマラヤスギについて。
  ↓   花粉が多量で地面を黄色く染め、根元には他の植物は生えてきません、という。恐ろしい。

田代さんいわく「ヒマラヤシーダの球果です。バラのごとく自然の造形です。
こつこつ拾い集めました。白いのはバラではありません。山東菜の芯です。
小さく開いているのはクヌギの殻斗、植物の不思議。」
山東菜の芯だとは言われなければわかりませんね。



[永代橋]





3月14日
  13日の永代橋より。佐藤淳一さんjsato.orgの写真展「Space,Lies」へゆく。ジャンルを越えてきてはっとする写真でした。
和紙が写真を見るときの枠をはみださせ、本でページをみるときに安心していた目を、ゆさぶります。縦軸がずれたり
水平が垂直になっていたりするから、高さに敏感になる。傾いだ少女も教会の塔も高層ビルのように高層感が同じ。
すると、空間は縦横高さが等しいと数学上はなっていても、人の体の感じからは嘘だったと暴かれる。縦のほうが
距離が同じでもぜんぜん高く感じる。そしてこのようなことを写真の世界で暴いていると思っていてはいけなかった。
紙が本に近くなっていたおかげで、言葉の世界と同じシーンで目にする。安心できない。いままで、感覚がジャンルに
より縦割りになっていたことに気づかせていただいた。

 きょうは詩と短歌のコラボの詩を書く日。大田さん、私も書いてます。


[デコレーション]


3月12日
 飾られた花の隣を通り過ぎる。花粉症の他には、春の季節はデコレーションなどから
渡される。そして街をゆく少女のファッションも季節感をプラスする。作られたものから季節を受け取る
生活。ここの。


[□・○]



3月9日
 その空きを、覗きこみたい。覗きこむと、空の穴に、飛行しているものがあった。
覗き込むのはたのしい。公園の遊具へ首をつっこみ、空を見上げる。首をそらすと
それだけで、ぐらぐらしてしまって、可笑しい。バランス、バランス。


[見る・しらぬふり]


3月8日
 しらんぷりをする、だめだと言っているのを知っていて、ぴりぴり意識しながら、それでも爪を研ぐ。
人間なんかのろい、と思っているにちがいない。それによく鳴く、と。爪を研ぎたい、バリバリやりたい。
家具なんかぼろぼろにしても。そういうとき、昔はノートに何ページもカリカリと日記を書いていた。
 


[荒い呼吸のような雲]


3月7日
 詩誌を読んでいて、同人のサイトがそれぞれ乗っていた。面白かった詩の
人のサイトにいってみる。パソコンを立ち上げたまま詩誌を読むのは初めて
だった。その人の詩を他にも読めるのはうれしい。詩誌のつくりがほとんど
気にならないことに自分で驚く。ネットで詩を読むことがなかった時代とは
違ってきた。詩が言葉の素のままでもOKになっている。紙の上とか画面とか
も、縦とか横とかもとおりこして、言葉に触れる、そんな読み方に慣れてき
ているのかも知れない。おもしろい詩に巡りあえることが、こんなにわくわ
くする。それがすべてかもしれない。いい詩が書かれていると、やさしく光
がさしてくる。モーニング・ライトのように、暗いとげとげした心を洗ってく
れる。



[首都高速の下]


3月6日
 風がつめたい。詩誌を読んでいると病院、葬儀、介護の内容がとてもとても
多い。本人ではなくて家族にあたる人が書いている。でも葬儀などはものすごく
雑事が多いし段取りやクレームや感情の荒れる親戚のただなかで、私はとても詩
を書くことはできなかった、と思いだす。父の死を悲しむ余裕はなく、ただただ
儀式を潜りぬけたという感じだったこと思いだす。私の親戚ってとくべつ恐い人
たちだったのだろうか。やさしい気持ちにはなれず張りつめていたし、とにかく
恐かった、と思い出す。

永沼さんの「女ゆ」 明るい。まだみられるかも。


[目を上げると]


3月5日
 暮れかけた陽にビルのタイルが反射している。木の枝の先に
光るメタリックな色は、どことなく80年代に建てられてビル
の趣がある。映画「私は「うつ依存症」の女」の主役だったクリスティーナ・
リッチが演じるなかで、学生達のパーティーで大きなイヤリングや
派手なドレス、いまだったら娼婦のかっこうといわれるようなドレスを
着てみることができて楽しかった、またハサミでカットしたトレーナー
など着るのも楽しく、自分は知らない80年代の雰囲気を味わえて良か
った、と言っていたのが印象深い。クリスティーナ・リッチは「バッフ
ァロー66」でも独特の魅力的な雰囲気だったが、80年代のアンバ
ランスなありかたも強烈に演じていた。あのファッションはやっぱり
パブリーだった。また「私は「うつ依存症」の女」にはルー・リードが
ルー・リードの役で出演していた。


[春のエレベーター]

 
3月3日
 ミツバチのように春の花の明るい色彩に反応する。誘い込まれて、エレベーターに乗ってしまえば、
花はなくなる。紙を裏返したみたいに、何も書かれていない日々がひと箱、上下にいったりきたりして
揺れる。

水曜日女性1000円の映画館で「涙女」という中国映画を見る。
葬儀のとき、泣き女は、死者を弔うために泣く。お金はうまく泣けたらたくさんもらえる。
泣きっぷりがいいので泣き女になるよう勧められるグイ。彼女は、はじめ北京で働かない夫を
養うために路上でCDを売っていた。もちろん映画のCD。いまはCDなのか、ふうーん、と思う。
がびっくりしたのは摘発をのがれるために、だっこできる位の子どもをレンタルして、両手に子
どもを抱きかかえ道行く人に声をかけている。重そうだ。摘発する警官は、逮捕するぞ、と脅すように
言い、グイが謝って手ぶらで逃げ帰ると、CDを漁りこれがいい、あれがいい、と手づかみだ。
この映画では、警官が金も命も巻き上げることばかりが目についた。グイが泣き女をして稼ぐ金も
掴まった夫を、保釈してもらうための裏金に変わる。ストーリーの展開はひどくドライ。グイの
生きのよさが光っていたけれど、葬式を金儲けにする仕事と、警官の横行が、クローズアップ
されてくるから、いまの中国の人は、建前とお金の現実にハードに直面しているのだと思い知る。
泣き女が、子どもをみすてないところや、夫をみすてないところが、人間味が生きていてよかった。