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2005/5月分

[車の雨音]


5月30日
 雨の日にいちばん耳にする雨音は車が走りすぎるときに雨水を巻き上げる雨音。



[湯島]

5月29日
 お祭りに遭遇。湯島駅から少し歩いたら突然祭囃子が聞こえてきた。
ほとんどの都内の祭は録音されたお囃子を再生しているから、それほど
わくわくできない。そんな感じで歩いていると、矢のように澄んだ笛の音
が耳に飛び込んできた。横笛を吹き始めた人がいたのだ。乾いたビル街に
とつぜん水が流れたようにはっとして、少し楽しくなり、やはり湯島は
伝統を保つのにおざなりではない人がいるのだと思った。


写真を撮ることについて
 はじめて手に持った液晶の画面には映像が流れていた。液晶の画面にはゆらゆらと
生きたまま外があった。カメラの液晶画面には今の外が移ろい、私は外があるのを体で
感じられ、自分が自分の外へ流れ出すようだった。外があったのだ。そこには外があった。
 デジタルカメラを初めて手にしたときからもう離せなかった。憑かれたように、
カメラを揺らしつづけた。画面では外が揺れて移ろい、その光に見入ってしまった。
その上ボタンを押すと光が止まった。光り水が押す毎に灯ってどきどきした。



[ガラスの内のカーテン模様]

5月27日

写真を撮ることについて
 いままで詩の言葉を書くときは、違和感やふと浮き上がる記憶の断片や、気に掛かるかすかで
ほんの小さな手がかりをたよりに、言葉を探し、手探りで、よくわからない塊のような深い
森のような曖昧な中へ分け入ってゆくようだった。目は開いているけれど何も捉えてない。
集中してゆくと脳裏の闇の中にぼうっと光がさし、何か掴めるものが浮かんでくる。それは
思い出した出来事だったり、体感だったり、場面だったりいろいろで、どこに地面があるのか
わからないところへ踏み入っている。当然入りこんでいるから人としては希薄になっていて、
詩を書くために時間を費やしたあと、家の外へ靴を履いてでるのは、自分の足へ靴を履くよう
ではなく不安なのだった。頭の中にいたから、幾分自分のからだのすみずみまで私が行き渡る
のが遅れるのかも知れない。それまで意識が漬かっていた塊のようなところから外へ出るのは
、日常の時空から離れていたぶん、普通の街路でさえ恐さが残り、歩いていてもしばらく日常
にもどるまでに尾を引いた。
 そうして詩をずいぶん書いてきた。詩を書くことで何が書きたいのか、どういうことを好む
のか、嫌うのか、反発するのか、詩の言葉の形によって気付いてきたということがある。
書き得ないことを書くのは苦しいのに、詩を書きたいのだった。書くことで何か書ける。
そのことで気づき、私は育まれてきた。書いてことによって私がうまれたのだった。長く詩を
書いてきた、この私は、そういう私なのだった。



[仰ぐ位置]


5月26日
 家の近くに美容師さんの学校があって道のめんしている大きなガラス窓からは
練習風景がみえる。何人もならんで椅子に仰向けになっている。どんなことを
これから練習するのだろう。見ては悪いような気がするけれど、あまりに大きな
ガラス窓はどうしても視線を引き寄せる。ここから近くの住宅街の路地を入った
ところに、少し古い家があって駐車場にしている小屋のようなところに、いろいろ
な物が置いてある。物置兼、車を止めるところなのだろう。だから自転車もある
のだな、でもなんであのように仰向けにしているのかな、取られないようにそう
しているのだろうな、と思ってよく見ると、しっかりタイヤは縛ってあるし、
なんとハンガーがひっかけられている。まさか。洗濯物を干すのでは。洗濯竿
の代わりだとしたらこれほど使えない物干し竿はない。

写真を撮ることにつて
 私はカメラを持っていなったときは、下ばかり見て歩いていた。ほとんど
いつも地面ばかり見て歩いた。ときどき信号を見るけれど、人の顔はほ
とんど見ない。人の顔ばかりは今でも見られず、そっと視線をはずして
避けている。カメラを持っていなかったときは、また、等身大の周りの物や
風景を眺めることもあまりなかった。気持ちが沈んでいてもいなくても、
外を見ることがほんとうに少なかった。では内側ばかりが気に掛かってい
たのだろうか。どうも意味というほどのものではなくそれが私の歩き方だっ
たのかも知れない。地面で視線が押し変えされることで、支えてもらって、
それで前進していたのかも知れない。そんなに下ばかり向いていても、はっとする
ことはあって、そんなときは、季節になって咲きだして花を見ていたりする。
下ばかり向いていても地面近くの花は見えるのだった。



[口の形]

5月23日

     口のカタチ

 どんな口の形をしても口から出てくるものは変わらないということがあるだろうか。
丸い口からは丸いものが、三角の口からは三角のものが出る、と答えたのはキッチン
の引き出しの奥でながい間使われず、忘れ去られていた、クリームを絞るときに使う
★型の口。できるだけさいごまで★型でクリームを送りだしてきた自信のようなものが
アルミなのに白っぽい錆びが出始めしまった体から、まだ仄かにきらめきながら、
ちくちくと、思いもかけず強すぎる力で引き出しを引きすぎてしまったワタシの
落としたた眼差しを刺すようにみつめるので、
ふと手にとって★型を手の平へぎっゅと押しつけてみた。
すると
手の平に刻まれた★型の跡がぷつぷつと感情線やら頭脳線やらを区切って
何か意味を持たされていた線がただの斜線に変ったので、
気がかりだったことも途切れた。
すると星型がくっきりとして、
中味が形になるというより、口が形なのだと気付いた。

丸や、三角や、楕円形が、
瞬間だけ止まって口になる。
動くと
口から形が飛び立ち
丸や、三角や、楕円の続きが生まれ落ちて巣立ってゆく

ハチドリのようによく響く音を生む
バイオリンの口は丸
丸い口の音楽を聴こう
音楽をかけるとイコライザーに波のように投影される
崩れるように移って、映る、音の響きが
寄せては引いて
生きてるような波の動きに
見入ってしまつた
寄せる波には
遠い海で遊んでいる
砂浜で波と走っているとりどりの水着がきらきらとして

じゃっと水道の栓をひねって
ずっと使ってなかった★型を水できれいに洗っていると
 星の口をくぐった水が 一瞬
水の星になって
シンクまで短く尾を引いて
バイオリンの波を潜った

                                 (5月24日)

[ステンレス製]

5月18日
 閉じていても開いてしまっても、ステンレス製なら箱だけは腐らない。
 そんなひとこま。

 岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』を初めて小説で読む。まだ映画を見て
いないけれど、小説から読んでよかったと思う。
 はじめの掲示板の書き込みのやりとりが、とても不安で、何が次ぎに書かれ、
どう関係がぶつかるか、こわくてリアルで、自分でもその場で書き込みをみている
人、ROM者、になっているようだった。ハンドルネームの匿名性が、犯罪の匂いを
まとったり、書き込みが特別な心理になって恋愛感情をつくったりする現場が、
手に取るようにわかる。掲示板の言葉が書かれるとすぐにその反応が書かれる、
そのライブ感がすごい。シンクロしている人と人の今、が、ぶつかる。たわいない
書き込みだけれど、ぎくしゃくしたり、すれ違ったり、開かれているゆえに未知の
他人にさらされ、暴力まがいの言葉を投げ込まれたりする。そのなかでもリリイファン
の常連の書き込みが、妄想的なイメージをふくらませ、独特のムードが流れはじめる
ところが匿名の闇のなかで異様な発光をしてゆくところが興味深かった。
 繊細さと暴力の同居するダークな空気のなかで、窒息しそうな人たちが、リリィの
音楽と歌詞を介して、奇妙な蜘蛛の巣を張っている。これが関係といえるだろうか
という書き込みの関係が、人を傷つけたり、喜ばせたりしている今のリアル。それ
があることを岩井俊二が認め現している、そのことが明るさであることだけは確かだ。 


[あっ蛇イチゴ]


5月15日
 歩いていたら駐車場の隅にこんもり生えた雑草の草むら。近づいてみると赤い実が
ちらちら見える。もしかして。あっ蛇いちご。やっぱり。春も半ば。きょうは肌寒い
のに雷が遠くで鳴りはじめ、あっというまに驟雨にみまわれ、近くのお店に雨宿りした。
雨はやがて天気雨になり、陽の中できらきらふったあと、まもなく止んでいった。
あちこちに薄い水たまりができている。薄い空が足元にひろがって、みつめていると
くらっとする。風景が広くなって見知らない場所になって平衡感覚をたよりなくする。
らゆりふらり、水たまりの空に浮いているように移動する私の足もあやしい。どこを
歩いているのか一瞬忘れてしまっている。


[通る人が誰も折らない]

5月14日
 それは棘があるからだとも思えないけれど、誰にも折られずに咲いている。



●苅田日出美さんが写真と文章を送ってくださった

苅田さんはデジタル写真と言葉で「Pomme de Terre」という個人誌を作っている。
いまは新たに誌面の形をもとめているという。苅田さんの日々の視線から発見する
美しい光景やこの世界への疑問がまっすぐにやってくる言葉に共感。
(紹介させていただくのが少し遅くれました。5月2日に送っていただいたものです。)

苅田日出美・落ち椿


  落ち椿            苅田 日出美

「岡山県矢掛町にある圀勝寺に樹齢300年の八重咲き椿を撮りに行く。
この寺の椿は、咲いているものより落ち椿で有名である。
地上から6メートルもあるといわれるこの樹に咲いている花は、とても慎ましく
艶やかな葉に隠れるように咲いていて、どの花も蕾のように小さく見える。
ところが地上に落ちたとたんに華やいでくる。
落下すると、八重の花びらが深紅の濃淡にひろがって、その瑞々しさは花のもつ
生命力というよりも、樹やその枝が持っているオーラにつつみこまれているような
感じがする。
夥しい数の花が落ちているのに、不思議なことに朽ちている花が見当たらないのは
どうしてだろう?
落ちるに任せてお寺の人が椿の下を掃いている様子もないのに。

4月25日・突然に飛び込んできた「JR福知山線」脱線事故のニュース。
100人以上の人々が突然に生命を絶たれてしまつたことが悲しい。
どんなに悲しくても時間がどんどん過ぎて行き過去化していくことの速さ、この頃
の日本も、世界も、地球規模でおかしい。
真夏のように暑い日も、人のこころを狂わせるのかも知れない。

カメラの前でまた数個の椿が落ちてきた。
首が落ちると、生け花には嫌われたらしいが、樹齢300年の幹がささえる天と地
の空間は、カメラのなかには収まらないものの気配に包まれていた。」



[ビル街を持ちあるく]

5月12日
 プリントにはビル街の写真がつかわれていた袋を左右の手に持って
歩いていた人をみて、写真があまりにも、歩いている新宿の風景に近い
のでぎょっとしてしまう。
 アルモバルド監督の『バッド・エデュケーション』を新宿タイムズ
スクエアでみる。神学寄宿学校でふたりの少年が互いを好きになると
ころが良かったけれど、その好きな気持ちが、少年を横恋慕する教師
の神父によって激しい嫉妬と監視のために、歪められ、のびのびと開
かずに、小学生なのに不倫の愛のようになっていて、この映画はスペ
インの巨匠アルモバルドの半自伝だというのだから、その壮絶な環境
に胸を突かれた。映像美は確かにそうで美しいけれど、いっしんに互い
を愛する心はピュアで強く美しいというものの、その後の少年たちの
展開は、悲劇なうえにグロテスクな影を引いていて見ていて複雑な心
境になる。イグナシオが青年になり女性として生きていながら、過去
にマノロ神父によって性的虐待を受けたことを憎み続け、そのことも含
め少年の恋の思い出を小説に書き、それを恋人だったエンリケが青年に
なって映画監督をしているので、脚本に使おうという。でも本当のイグ
ナシオは青年のエンリケに会えなかった、殺されてしまって、という
ふうに話も複雑にからんできて、おぞましい神父マノロ神父は生きてい
てまた大人の彼等へ絡んでくる。エンリケにあたるのがアルモバルド
監督なのだから、この、脱げ出そうにも抜け出せ無さが、アルモバルド
の苦悩と切実さを、創作によって昇華するしかない、というような崖へ
追い立てているのだ、と区切ってみるしか、この世界を受け取る術が
ないと思えた。構想10年という触れ込みだったが、商業映画の監督
は自分を確認したいということが、他の映画を撮っていてもくすぶって
いた場合、それをフィクションと混ぜてこのように商品化するものなの
だとすると、商業映画にしては複雑になってしまったのは、自分の想い
と切れないものの作用にふりまわされたのではないか。撮りきったとは
思えないだろう。自分に限ったのではまずい商業映画なのだから。
 先日見た鈴木志郎康さんの映画『極私的に古希』のすがすがしさを改
めて発見する。自分に限って、傷ついたり、老いたり、美大で働く現場での
芸術に分け入っていったり、自分の通る場に限った志郎康さんの自主映画
のカッコよさや、強さというのを、こんなところであらためて眩しいと思
っている。
 



[5時39分]

5月11日
 早く目がさめて、カーテンを開けてみた。いつも見ている昼の空よりも澄んでいて
高いように思えた。こんなふうに写真を撮ったり、詩を書いたりしているのだなぁー、
と自分のことを、みつめ返しているのは、夜の会で、いろいろな人と話をしたり、見て
もらったりしたせいだと思う。横山克衛さんはアメーバ的に動きます、と書いていたと
おりおしつけるところのない人だったので、会が進みながら会が出来てくるような不安
で不思議な体験をした。朗読は「いる・すぎる」「瞼」「ゆりゆられ」と「ARROWHOTEL」
のボイラーマンがドアを開け閉めし老婆がでてくる一編を読む。「ARROWHOTEL」を一年
ぶりくらいに声に出して読みはじめると、自分が吸い込まれるように闇の奥へ入ってゆく
ので驚いてしまった。今の立ち位置とははっきり別のところから声が出てきて、また別の
私だった。私といっても複合態なのがよくわかった。搬出のとき両面テープを剥がしてい
たら指に血豆ができてしまった。つぎの日、紫のを潰していると、水豆も一つ出来ていた。
これは潰さないで自然に消えてもらった。


 「ヒカリの目」の展示を載せました。

 「夜の会」に多くの方に来ていただいて感謝してます。体内の感じを持たれた感想を
ふたついただき、興味深く拝読しました。ありがとうございました。

 ・「逆光の写真を見ていると身体の内側の普段陽射しを受けないところがあたたかく
なってくるような気がしました。内臓(^_^;)カメラで見えない部分を撮影しているような
面白さがありました。目くらましだったり暗部だったりする対象が意外な表情を見せてく
れるので。」

 ・「目が覚める鮮やか写真を直接拝見しまして、元気が湧いてくるようでした。
朝起きて強いヒカリを浴びて、体内時計をリフレッシュするというのが最近の
健康法のようですが、写真でもそんな効果があるようです。」





[ヒカリの目・番外編]


5月5日
 これはフジ、ファインピックスF700というデジタルカメラで撮ってます。
 CCDがヒカリの目を見せてくれている。


[ヒカリの目・番外編]

5月1日


 ヒカリの目             
                  北爪満喜

 直接太陽を見てはいけない。直接、太陽に向けては撮れない。
そんなことをよく耳にしていた。それが逆光につよいデジタルカメラでは
できるのだと知って、ときどき太陽に向けて撮っていたら、太陽にカメラ
を向けるのがすきになっていた。
 目を太陽に向けると真っ白になって目には何も映らない。それどころか
痛い。その痛みは、目の中で赤いハレーションを起こし、思わず目を覆っ
てしまう。でも痛くて、赤い、ヒカリは、どうしてか懐かしい。夢のよう
に浸みてくる。遠くへ。幼い頃へ。いえもっと遠くへ響いてゆく。太陽の
視線は光線だから、ヒカリが私をあなたを見つめる。ヒカリがあなたや私
の細胞を見つめる。目の裂け目から入ったヒカリは、直接細胞を見つめて
いる。私たちの意識を外し、通り抜けて。だからヒカリと見つめあうこと
はできない。
 
 私は「ヒカリの目」を集めながら、その暗さに気付く。
 
 ヒカリが私を通り抜ける。でもそれは、とても爽やかだ。