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2006年1月分
[枝を透かしてみるとビルは]




1月30日
 きょうは幾分暖かくてほっとする。冬の枝やビルの上をカモメが旋回して飛んでいる。

枝を透かしてみるとビルは・・。その後の言葉が枝分かれする。
たくさん枝分かれする。いろいろな想像が出てくるほうが楽しい。


[光の斑]

1月26日
 風邪を引きそうなので、舞茸を買って洗わずに切り、スープをつくって
飲んだ。舞茸は風邪の予防になると前にテレビで見たから。そのとき、成分
が落ちないように洗わないで使うといっていた。今はキノコはクリーン栽培
だから大丈夫なのだろう。
 歩いていて逆光に目がゆくと、光の斑なのだった。歩く人もひと枝のバラも。


[空・水・鏡]



1月25日
 毎朝通る道に、いつも光を探している。空も青い光だから、いつも降り仰いぐのだ
ろう私は。反射しているバイクのバックミラーを目にしたとき、とても嬉かった。
挨拶されているようだから、一瞬だけど、光にオハヨウといいたくなる。目の奥の
まっくらななかに潜んでいる恐いものを照射してほしい、とさえ言葉にしたくなる。
潜んでいるものは形がない。恐くなるのも意味がない、眠りのなかでも意味無く恐く
なるように、それは心の状態。心にも形がない。あるのは状態。恐い、嬉しい、悲しい、
怒り、などはみな状態、いきた私の状態。光にも形がないけど、光には動きがある。
生きた太陽光線の動きで朝、明るくなりはじめる。池の水の揺れに当たって反射する。
バイクのバックミラーに跳ね返されて角度を変えて直進する。光も状態。生きている
状態。どうして私は、こんなことになったのだろう、と落ち込むとき、状態だといって
もそう簡単に浮き上がれないけれど、これも状態だから変わるのだ、と考えること
だけはできる。

 

[飛び猫というけど飛び鳥とはいわない]

1月24日
 できてあたりまえのことは、あたりまえと思っている。
 歩けると歩けるのはあたりまえと思う。
 空が青いことはあたりまえだから、青に覆われていても覆われているなんて
思わないのだろう。空がアルとさえ思う。「空」も「アル」も「青」もみな
創られてきた言葉や観念なのだ。でもそんなことを言っていたらスムーズに
動けなくて転びそうだ。すっかりあたりまえのことにして生きている。そう
いうモードは人の長い時間のなかで培われた技なのだろう。あたりまえのこと
の前で、違和感や引っかかりを感じたとき、コペルニクス的な転換をして、
細かく考えゆく。そういう事が、大切なのだ。きっと。



[運ばれている]

1月23日
 赤いトラフィック・コーンがこちらに向かって運ばれてくる。工事の人が台車を押している。
オフィス街はちょうどお昼の時間を向かえていた。運ばれているのは始めて見た。置いてあると
ずっと前からそうなっているようで、動かし難い感じがするけれど、こうしてみな人の手が掛か
っているわけなのだ。あたりまえのことだけど。

○ mixiをはじめました。これがトップページの写真です。



[雪]


1月22日
 きのうの雪が凍って、路面がつるつるする。
 数年前にかった雪用長靴を出して履く。靴底の金属の歯を開くと
路面の雪に引っかかるのだ。長靴は足首が固定されて疲れるけれど
ころぶよりもいい。10月に沖縄の海の岩場で転んだし、もう転ぶ
のはいやだ。そろりそろり頼まれた買い物へ。使い捨てカイロ40
枚はかなり重かった。そのほか猫の餌1.5キロ。野菜も重い。雪
靴のおかげで無事に買って帰れた。


[朝・冬のバラと薄氷、と豹]



1月20日
 今朝も冷たい風が吹いていた。11時の太陽がすこし背中を暖めてくれる。
ビルの間の公園では、ほんの少し、けれどくっきりバラの赤が枯れかけた枝に
輝いている。目を伏せると怖い夢が追いかけてくるが、もう暗い霧のようになった
怖かった夢の感触は、輝く赤にすっかりかき消され、寒い青を吸い込むようにすると
消滅した。薄い氷の池には細いアーチの噴水が水をゆらし、水面はどんどん氷を
解かしてゆく。すると靴が音たてずに歩かせてくれる。身のこなしがしなやかに
なって、眠っていた好奇心が動きだす。用事が終わったら、おもしろいアートを
見に行こう。



[朝・梢の腕]

1月18日
 ターゲットを追うように、急いで急角度に曲がった。ヘルメットを持った青年はすぐに
見えなくなった。見上げれば曇り空にほとんど葉を落とした枝だが梢の腕をのばし、空
に語りかけているように見える。もちろん語りかけてはいない。木の実を用意している
木は、勢い余って、梢は上へ伸びることだけを競う。ターゲットは光。陽光をまっさき
に掴むのだ。私は何のターゲットになっているのだろう。見えない印をつけられていない
人はおそらくいないだろうから、できれば好ましいことのためでありたい。


茂木健一郎さんのブログで、「世界一受けた授業」に私のアハ・センテンスが
使われる予定だったのが使われなかったのを知る。

○以下ブログから引用
 「日本テレビに着き、竹下美佐さんの笑顔に
迎えられる。

 「世界一受けた授業」の収録。
 脳に関しては、他にいろいろいいネタも
あるのだけれども(!)、
 とにかく好評ということで、
アハ体験の第3弾。
 change blindnessを「アハ チャンジ」
「アハ ムービー」と名付けたのは
日本テレビのスタッフである。

 解答者は(敬称略)、岡江久美子、
中田敦彦(オリエンタルラジオ)、
藤森慎吾(オリエンタルラジオ)、風見しんご、
坂下千里子、櫻井淳子、為末大、久本雅美、渡邊透、
有田哲平(くりぃむしちゅー)

 司会はいつもの堺正章校長、上田晋也教頭
(くりぃむしちゅー)

 「アハ チェンジ」「アハ ムービー」
「アハ センテンス」と用意してあったのだが、
最初の二つで盛り上がり過ぎて、
 時間切れで
 またもやアハ センテンスが出来なかった。

 アハ センテンスの天才、倉田忠明さん、
その「弟子筋」の小山賢太郎さん(オズマ)、
そして詩人の北爪満喜さんの傑作群が控えて
いただけに、残念。

 しかし、坂下千里子さんが「あるはずが
ないものを見る」という驚くべき才能を
発揮して、
 脳科学的にもなかなかに興味深い結果と
なった!」

 


[木の気持ち]

1月17日
 まったく木には何かある。ガードレールも緑にしようと人間に決めさせるほどだ。
ビルのガラスだって何か返事のように姿を映している。

 詩人の谷内修三さんが私の詩「青い影 緑の光」の感想を書いてくださった。
ありがとうございます。その谷内さんのホームページ『象形文字』「読書日記」
のコーナー1月14日に掲載されています
 掲示版に返事を書き込まなくてはと思うものの、掲示版に書くのがてとも苦手
なうえ、パソコンの設定が違い開かないので、また今度にさせていただこうと
思います。

 



[松]
1月13日
松林図屏風をネットでみつけました。
左 右

どうですか。凄いですよね。
ずっとみていると入りこんでしまいます。
余白のようなところになんともいえない広がりや時間を感じます。
松の林のなかに霧がながれていて、はじめはうす暗いように
思って見ていました。けれど長く見てると、霧が白く光を発し
ているようなのです。静かで、うつむくような松の枝ぶりはすこし
うら哀しく、ずっと林の中に含まれていたくなりました。

[テーブルの枝]

1月12日
 とても寒さうな枝ぶりだと思う。木には寒いもなにもないけれど。
 
 ときに、映像だけで、胸が打たれて、涙がにじんでくることがある。
 特にゴダールの映画では、あんなに引用が多かったり、換喩のような風景や
人の行為が多く、難解ですらあるのに、ふと、何もかも意味を抜けて、映されて
いる川の水面に涙がにじんできたりする。「アワーミュージック」の川は
彼岸と此岸の生と死をわける川という比喩で撮られているけれど、映るのは、
なんていうことのない、ただ美しい自然な川で、そのなんてことない川に、
至福のひとときを感じ、ああきれいだなぁ、と思う。じーんとしてしまう。
それまでのあからさまな比喩はすっかりどうでもよくなる。あからさまの意味づけ
だから、逆に、直ぐに剥がれて、ただの川、という見方がまっさらに生まれるの
だろうか。ゴダールの映像はポップだと思ってきたけれど、ポップの力は、消え
剥がれることができる儚さ、なのかも知れない。
そして、よく考えてみると、
ああきれいだなぁ、と思う瞬間は、まさにいま、映画のスクリーンに写し出されて
いる川に、一瞬だけ自分のいまが重なっているわけで、映画が終わったら、
いえ、次ぎのシーンになったら、その川のさざ波にゆれる枝の緑も、豊か
な水量で護岸工事のない自然な岸に触れながら流れる水にも、やわらかな
水面の光にも、もう会えなくなってしまうのだ。それは、本当の意味で消える
ことだから、とりかえしのつかない時間のなかで生きている一回限りの
出逢いなわけだ。映画の物語の文脈で、比喩の川が消えたところで、ほんとう
の一回性の川が心を流れたのだった。


[氷が張った]

1月7日
 大雪が降っているのをニュースで見るにつけ、新潟や富山や長野などにいる知り合いの
生活が心配になる。仕事に行くのに車を運転しなければならないだろうし、危険がいっぱい。
どうぞ、なにごともなく、と思うばかり。こちらは、氷が張る程度だけれど、それでもいろ
いろといつもと違っている。

 ○上野の国立博物館で、長谷川等伯画『松林図屏風』が公開さてます。
 一見の価値があるので、近くに寄られる方はご覧になることをお勧めします。
 

[新年の冷たい朝に]

1月2日
 あけましておめでとうございます。
 元旦はテレビのウイーンフィル、ニューイヤーコンサートで「美しく青きドナウ」の演奏を
聴けて幸せな気分になりました。
 きょうは家族と近くの神社に初詣にゆきました。雨が降っていて気温は3度。さすがに一人
しか神社に参拝の人はいなくて、私も早足でお参りをすませました。

 読書は茂木健一郎著『クオリア降臨』の、「「スカ」の現代を抱きしめて」を読み、
今年もメールやインターネットやブログの情報の海へ、飛び込もうと、背筋を正しました。


 それから昨年11月末に、鈴木志郎康さんの「読詩アクション」、という
詩の作者と会って話す試みに呼んでいただきました。詩集『青い影 緑の光』について
詩集の核心となる、言葉と意識のあり方など、本格的な批評をしていただきました。
自分が何をしてきたのか、はじめて分かった、という実感を持ちました。詩集について
これほど面と向かって話したのは初めてでした。また、この詩集の有り方が、ある種、
装置として機能しているということや、それは今、どこでも現代美術などいろいろな表現
の場でそうなっている、ということなど、そのとき開催されていた横浜トリエンナーレの
作品を挙げながら話していただき、視野が広がってゆきました。詩ばかりが孤立している
わけではないのでした。
 また、生活のもろもろのこともなども話し、聴いていただいて、自分の詩を書き始めた
ころのことまでも遡って話したり、ほんとうに、人に言葉を受け止めてもらえるとは、
こういうことか、と、しっかりした地面に立ったような感慨を持ちました。
 これから、私はこの体験をどう生かしたらよいだろうかと考えています。
 もらっただけでは済まない、済ませたくない、という気持つようになりました。