今月へ

2006年2月分


[ウェイブ]

2月27日
 夢のなかで、死んでしまった男の人から携帯電話がかかってきた。
 男の人は10代のようにも20代30代のようにみ見える。いえそれ以上にも。
 バイクに乗ってゆっくり私の家のまわりをぐるぐる回って、笑いながら
 何か言っていた。言葉が聞き取れなかったけれど、
 何か楽しそうで、これからどこへゆくのだうと思う。知っている人な
 のに誰でもないような、その人は、出発ということを知らせに来たのかも
 知れない、と、わかったように思ってしまうこともできるけれど、
 何か楽しそうに回っている感じだけを受け取っておきたい。


[空を見る]

2月24日
 朝起きると体が冷えていた。うっすらふわふわと猫の毛の散らばった床を
掃除する。朝食の用意をしてご飯を温めてテーブルにはこんだら、シロが、
掃除したばかりの床に、ぐぇっと吐いてしまった。カリカリがほとんど粒の
まま出てきていた。なんてタイミングですかシロちゃん。ご飯を食べる前に
ゴム手袋をして始末した。さあ、これでいい、と食べていると、今度は、
ソファーの背に乗って、高いところから床へシロがぐえっ。うわぁっー。
知らない知らない、とみなかったことにして、テレビのフィギュアスケート
の美しい映像をみながらご飯を食べ終える。そしてさすがに、そのまま知らんぷり
はできないので、ゴム手袋をしてまた始末した。ゴム手袋を取ったとき、母や
祖母がしていたのを思いだす。そして祖母の手の傷も思いだす。器械に咬まれて
引きつっていた手の皮膚。そんな祖母の目が私が中学三年頃から見えなくなって
しまったのを思いだす。見えないまま、ご飯を食べていたのを思いだす。
私がおかずをご飯のお茶碗のうえにのせてあげて、祖母がそれを食べていたの
を思いだす。好きなものを好きなだけのせてあげられなかったかも知れない、
と思うと、急に胸がつまってしまった。


[空を見る]

2月23日
 撮っていたら高く舞い上がった鳥。下は環状7号線の舗道。車が激しく
行き交っている。一羽の鳥で、空が深く思えた。
 家ではシロとクロがごろんと横になる食卓のテーブルふきんの床の場所とりで
短い交戦をした。いつもはシロが勝つが、きょうは執着をみせたクロが粘り勝ち。
片手を挙げて相手の頭をちょっと叩き、にらみ合う。そのとき姿勢が低くなっ
た方が負けなのだ。勝ったクロは、おもむろに仰向けになって寝転び、目を細めた。
シロはしかたなく尾をさげて部屋の端にあるソファーの背に飛び乗り、知らん顔。
猫は都合が悪いときときどき知らん顔をする。えっ、何かあった?というような、
ふりをする。ふりができるなんて、なかなかやるじゃないか、と思う。

[空を見る]

2月22日
 なにげなく空を見る。暖かな一日。
  きょうは、他の詩人の二つの詩のために写真を選んだ。詩をよみながら、
言葉そのものや詩の感想などから、イメージをみつける小さなコラボレー
ション。打たれて来たテニスのボールを打ち返すようなすっきりした返事。
そういう気もする。詩のことばを読んだ人が、意味を固めるまえに写真を
見て、わずかでも宙吊りになれればいいと望みがわいてきた。

 きょう読んだ言葉

「日常語は小説語とべつだけど、もっとさかのぼってみると日常語を
つくりだしたのは文学なのですよ」保坂和志
「意味のない文学的修辞を小説は使うべきではない。なぜなら、それは
一見、文学の味方に見えて、実は敵だからです。」高橋源一郎


[人間の言葉の通らないものと]


2月18日
 同じ時間、同じ場所。くるりと方向を変えてみれば、作り出される光の現象が
同じ梅の香りを嗅いでいたときの光景だとは思えない。でも、光景のはしっこに
四角いカメラの影とそれを持つ私の手があって、しまった、太陽にとられてしま
ったと思う。誰もいないところで、人間の言葉の通らないものと、自分ても解ら
ないやりかたで、少し立ち話をしている日々を、証拠として押さえられた感じが
する。

 きょうはチキンカレーをつくった。フライパンでチキンのもも肉をじゅと焼く。
焼き色がつくまでの間に、ずつと前、金子千佳さんが詩誌のエッセイでチキンカレー
の作り方を披露していて、そのときの文章から立ち昇った虚構のチキンの香りと
いまフライパンで焼けているチキンの香りが混じった。焼けてから鍋で煮ていた
野菜のなかへ入れる、私はそうとう来ているのかも、と思った。ビョーキだけど
楽しい。このごろは小林のりおさんのデジタルキッチンの映像が、朝、パンの袋
を開くときにスライドして混じりこむこともある。こっちの方もビョーキになり
つつあるのかも知れない。
 みずたさやこさんの詩学の新人の写真が向日葵のようで、こんど夏に向日葵を
見たらみずたさんの笑顔が混じりこむのかも知れない。詩学663号のみずた
さんの「てづくりの玉」はといも面白い。風景を丸めて球体状にしたら透明な
色いが見えてきて、愛しいような気持ちとともに哀しさ込みあげてきて、どこか
へ投げようとする。けれどここと思った砂漠へ向かってゆくと、違うと思えてくるし
、海へ向かうと、向かう途中で秋になって、気持ちがうすれ・・と変わってゆく。
この詩は変わってゆくことに敏感に向き合っていて、目的を達成することが壊れ
つづける。詩集『箱と箱』の次ぎにきた新鮮な詩だった。



[量子テレポーティション・
スーパーコンピュータなら千年かかる計算を量子コンピュータなら数秒]



テレポーティション。SFではよく聞いている瞬間移動だが、
それが量子の世界で情報の瞬間移動を可能にした科学者がいるのだった。
世界で初だという。
量子コンピュータができれば環境を詳細に予想できる、と「仕事の流儀」で語っていた。
科学者古澤明は、科学はスポーツだ、失敗を楽しめ、頭脳より根性、とも語る。
地球を守って欲しい。

[歩きながら出会う]

2月17日
 小島きみ子さんが、詩誌「エウメニデス」で力のこもった詩論を書いてくださった。
語る主体、という視点です。よかったら、読んでください。


[歩きながら出会う]


2月16日
 歩きながら、コートのポケットからデジタルカメラを出してぱっと撮る。
地下鉄を出て、体調が辛いからめんどうだと思ったら終わり。ひたすら私
は地面を見て歩いてしまう。それでなくても、私のささやかな日常は消え
去ってしまう。書くことも、同じ。ささやかな、アクション。でも大切な
アクション。ふんばって書かないと、撮らないと、微かなものは、消えて
しまうなぁ、と、つくづく思うこの頃。

河津聖恵さんの現代詩文庫183思潮社、が刊行された。私もとても嬉しい。
河津さんとは、折に触れてリアルタイムで詩を読んだり、批評し会ってきた。
これらの詩を、再びゆっくり読んで見よう。




[滲み]

2月11日
 きょうの午前の滲み。光のなかへ色彩がにじみ私の時間が出来上がる。
 
 2月8日東京新聞夕刊「詩の月評」で井坂洋子さんが『青い影 緑の光』を
批評してくださった。「書き手にとって、詩の形からどれだけ離れようと、
自分を活かそうという再生の意味がこめられていると思う。だからこそ核に
なっているポエジーが原質のままで、こちらは掴みやすい。」とあり、新たに
書くことと向き合っている、という批評から書かれた言葉に励まされた。



[気に掛かったこと]

2月6日

詩  気に掛かったこと


そのことは 何を意味するのですか

ふつう父親の夢をみるとき
家で話しているところ とか
何かしているところ とか
夢にみる人は生きているのが前提なのに

夢の中のオトウサンは死んでいた
死んでいるのに
オトウサンは昼寝から覚めたように畳から起きあがるので
オトウサン オトウサンは死んでいるのよ
と私は何度も話かけた

オトウサンは死んでいる
三回忌も夫と済ませた
菩提寺のひんやりしたお堂の読経の声がいまもかすかに
記憶のどこかで響いている
お堂の高窓の外は春で
竹がしずかにしずかに風に
さらさらと さやさやと 
揺れていた

オトウサン 死んでいるのよ
起きてはいけない
それでも起きるオトウサンへ
夢の中でせっとくする とても困っている私

夢にみるならオトウサンの
生きているオトウサンの
話していたり、物を運んでいたり、笑っていたりしたところだったはずが

死んでいるのに
元気に
横たわった姿から何度も起きあがってしまったオトウサン

そのことは 何か意味があるのですか
夢に 意味をもとめるのは無理なことですか

とても胸がくるしくなって
オトウサン
オトウサン
なにか言おうとしたら
ふと

死んでも元気っていいです

と ぽろりと口から こぼれしまった

ぽろりと
元気な ひとことが
まるで赤い実のように
ベランダの
ぷちトマトのように きらきら


なにか困ったことに囲まれたら
囲まれてしまったら
困っていなくてはならないというわけではないかもしれない


朝、夢からさめて
プランターに植えた木に水をあげていると
木の根も木の葉もプランターの大きさなどおかまいなしに
囲む容器のことなどおかまいなしに
どんどん伸びようとしてゆくのに気付いた






[奇妙な出逢い]

2月1日
 
 手術台の上でミシンとコウモリ傘が出会ったように
 テーブルの上でメトロの入り口とであった瞬間。

 遠くで白いリンゴが欠けている。
 そして、この通りに面するビルでは
 これから鳴ろうとする楽器がフロアーで照明に照らされながら、
 苦しい眠りを眠っている。