今月へ 2006年 3月分 [しんとしていた] 3月31日 少し風がつめたいなかを歩いていて、やけに自分のなかがしんとしていた。 特別なことは無いけれど、私のなかになにも声がしなかった。いくつかの用事 を済ませると、もう何もないのだった。何もなく、がらんとしてしまった。 何もなくて、誰もいないような、内側。そしてここは明るい昼なのに、どこで もないような。おぼつかなさ。ではそうでないときは、何があるのだろう。 また下を向いて歩いていると、ぱっちりとした青い花の顔にであった。 [祭/リオのカーニバル] 3月30日 きょうは夕食を作り、テレビを見るとリオのカーニバルの特集があった。 音楽や歌はテーマ毎に毎年作るのだった。衣装や山車だけでなく、演劇の ような演出もあった。ポルトガルによってアフリカから奴隷としてブラジル に連れてこられてからの苦難の中をどのようにして現在に至ったか、という 歴史を描いた山車が多かった。アフリカでの豊かな文化は根こそぎにされ、人として の誇りも奪われたけれど、太鼓のリズムで踊るときだけが人間らしさを取り戻せた。 そのことから自分たちの誇りを支え続けていまに至っているのだった。きらびやか な中にドクロや悪魔が見える。 [背中に乗せたい] 3月29日 いちども、猫を背中に乗せたことがない。背中に乗せたい、そう思ったのは、 樋口えみこさんが猫を背中に乗せる話をしたから。背中にのせてその姿を鏡に映して 見るのだというところで、かんぜんにまいってしまった。うらやましい。 樋口さんは、共感する力のある人で、おしゃべりではなく、話すことができる。 前から詩を読むだけでなく詩人と会って話して、それを「キテ。」という詩誌にまと めている。鈴木志郎康さんが読詩アクションを始められ啓発されたが、思えば何年も 前から樋口さんは、そうしたことをちゃんと実践できていたのだった。 詩の投稿サイト「ぺんてか」 に詩を投稿す人が絶えないのも、ひろく詩を読み、詩のコミュニケーションをきばら ずにできる人だからだろう。こうした場の貴重さをあらためて思った。その場を開く ことで、それを実績にしてゆくことで自己実現に走らない。詩人として運営している ところを尊敬している。樋口さんが、そこから掴みとっているものは何だろう。樋口 さんが出される予定の次の詩集を読んでみたい。 [誰かの声が聞こえますか?] 3月28日 昔あなたの住んでいた庭の写真から 誰かの声が聞こえますか? 人の声は聞こえません。 花は声をもちませんが、花の声が聞こえます。 どうしてですか? 母が種を播いた花だからです。 母は種を播いたまま10年もこの庭を訪れることができなくなっています。 声がなんと言っているのかわかりますか? あなたはわたしを包むような足の響きが足音がありますから あなたはママですね。ママですね。 虫が葉を食い荒らします。 真夏の熱が茎を倒します。 霜がやっと伸びた根をずたずたに引き裂きます。 私は毎年毎年 誰にも水をもらうことができなかったのに咲いた花の前に うっかり近寄ってしまっていた。 [雲の山頂/黄色い花] 3月27日 きょうは母の介護保険認定審査があった。年に一度ケアマネージャーが審査を 行う。手はどのくらい上がりますか。着替えにどのくらい時間がかかりますか。 手の爪は切れますか。足の爪はどうですか。足は歩くときどのくらい上がります か。と細かくチェックしてゆく。でも、実際よりも軽い判定がでてくるような気 がする。特別な人に対して多くの老人は、ふだんよりも気が張って、できないこ ともできると言ってしまいがちだし、きばって普段よりも元気にふるまってしまう。 だから審査の時はできるだけ立ち会うようにしている。そうでないと30分以上 かかる着替えも、10分ほどでできるランクにチェックが入ってしまう。そし てその書類がすべてなのだ。判断をするのは老人本人を見ない人が書類だけで下す。 判定が実状とあまりにずれて介護にさしさわりがあるときは、普段世話をしている ケアマネージャーの人が役所に申し立てをして、審査のやり直しを請求するという ケースもあると聞いている。 入社の面接だって本人と会うのに、生きるための支えのところで、書類だけで 判断というのは荒っぽいと思う。この日はいつも私の方が緊張してしまう。 [湯島・旧岩崎邸] 3月26日 きょうは湯島の詩学社へゆく日だった。 体調が良かったので、少し早く出て詩学社の近くの旧岩崎邸へ行ってみた。 明治の木造洋風建築は最近一般公開されるようになった。入館料は500円。 写真を撮ってもいいですよとのこと。窓、ドア、柱ばかり撮ってしまった。 うす暗い室内は、格調高く広いけれど、それでも落ち着いていて、個人宅 という雰囲気は少し残っていた。白金の庭園美術館の邸宅は大理石の床や柱 だった。そことなんとなく比べていた。やはり木の床や柱は柔らかい。この 建物は驚くことに日本家屋と接続している。廊下を渡るとそのまま畳のある 日本家屋。とても不思議だった。和洋折衷というけれど、どう考えても接続 としか思えない。そのくらい本格的な、広い畳や襖の日本家屋だった。襖絵 もあったし、広い濡れ縁に囲まれていたし、自然石のお庭には石灯籠があった。 明治の上流階級の人は公私が文化によって引き裂かれていたのだろうと想像 してしまった。 [30歩ののち] 3月24日 どうしてなのか振り返った。振り返ってみようと思ったわけでは ないのに。宙を吊られているのは、さっきの白いキューブ。あれが ほんとうにさっきまで地面にあったものと同じものだろうか。何か 全く別もののように見える。宙にあるものは、どきどきする。これから どうなるのかわからないところや、すこしも留まっていないところ などが。 [木曜日の夜・現代詩の会] [ホトケノザとしだれ桜] 3月24日 地面に近づいて、ホトケノザに挨拶するよな気分で撮っていると、ビジネスマンが 我関せずと、急ぎ足で目的地まで公園をショートカットしてゆく。それはそうだ。 そういう時間だし、私も病院の予約にまにあわせて急いで家を出てきた。でも、これ だけは止められない。これを見込んで、早めに家を出てきたりしている。それから、 手の届きそうなしだれ桜に吸いよせられてゆく私に背後から、いいわねぇ、しだれざ くらは、きのう新宿御苑へいったけれどこれほど咲いてなかったわよ、と声をかけて きたのは見知らぬ年輩の女性。やっぱり用事の途中らしききちんとした身なりで、お もむろにバッグから携帯を取り出して写し始める。しばらく二人だったが、気づくと もうひとり携帯で撮っている人がいた。鳥でなくても花には引き寄せられるというこ と。とくにいま頃は、そんな時期かもしれない。 「リンダリンダリンダ」を借りて見た。高校生の心の揺れが、ゆっくり描かれて いて、バンドの仲間になったり外れたりすることが、ぎりぎりの心の対応のなかで起こると ころがはらはらした。ぺ・ドゥナが留学生のソンちゃん役でコミカルさを発揮。 ソンちゃんは言葉がよくわからないから、みんなと少しズレていて、そこがマイナスでなく 開放感としてあってユーモアを生んでいるのだった。そしてみんなの関係はナチュラルで 透明なのだった。そこにユーモアが入るから彼女たちのひりひりした真剣な気持ちが生きて 切なかった。 やっぱりぺ・ドゥナはいい。高校生最後の文化祭でブルー・ハーツの「リンダリンダ」 を完璧な日本語で熱唱したところも凄くよかった。 ところで、平らな何もない田舎の緑の風景がなんとなくしっくりすると思ったり、 バスが川ぞいを走るときの川の感じが故郷に似ているなー、と 感じていたのだけれど、なんと全編高崎や前橋の群馬ロケだった! どうりでみたような感じがしたはずデス。 ロケの学校は旧前橋工業高校だった。 [どこまでもいこう] 3月21日 また春の花。椿が咲いた。ミツバチが蜜を求め、鳥たちが花を食べる。また 春に辿り付けた。いろいろな困難が些細なものから大きなものまで、つぎつぎ と打ち寄せてくるけれど、とにかくまた春へと出られた。気持ちの端に、鉛筆 書きのように、どこまでもいこう、と書いておこう。 [よるのひるね] 3月20日 阿佐ヶ谷の「よるのひるね」のタツノオトシゴはひょうひょうと愛らしく水槽 のなかで暮らしていた。 土曜日の朗読会は、雰囲気が良かった。主催のフットスタプンスの人達は プロレスネタで詩を書く決まりもあって、バラエティゆたか。技の名前が昔 と今とでは変わってしまい。昔は、四の字固め、とか技の名前からどんな技な のかイメージできたけれど、今は出来なくなった、という詩(小島浩二)さんの詩や、 会の終盤に即興で作った白鳥信也さんの詩が、てのりごきぶりまったり君の冒険と反乱 と終焉のスペクタクルが、疾走感ある読みで、笑いを取りつつ、盛り上がった。 私は、またやってしまった。三篇目の途中で読めなくなってしまった。体調がまだ 完全にもどってなくて、だめだった。運良く、何年ぶりかで佐藤香さんと会場 で会い、とっさに変わって「サザンカ・サザンカ」を読んでもらった。店主の 門田さんがパソコン画面に私の写真を映してくれて、それと会わせての朗読だった。 聞いてくださった方たちができていて、救われたけれど、それにしてもはやく元気に なりたい。帰りに佐藤さんと韓国映画はコメディの方がいいよね、とポン・ジュノ監督の 「吠える犬は噛まない」などの話で盛り上がった。 [ポエトリーリーデング] 3月18日 本日、「よるのひるね」pm4:00〜pm7:00まで。 「フットスタプンス団」主催、ポエトリーリーディング。 元気になってきたので私も参加します。また読みたい人も歓迎です。 よかったら来てください。ゆっくりお話しもしたいです。 入場料1000円。 もれなくフットスタプンス最新12号プレゼント。 [反射] 3月13日 とおり過ぎた視線が、窓のガラスの椿をみつけた。近すぎると、よくわからない ことがある。ガラスや鏡に映ったものではじめて、あれっと広がる発見もある。 土曜日は河津聖恵さんの現代詩文庫の出版のお祝いに、神楽坂へ行った。 何年ぶりかで河津さんに会えてとても懐かしかった。会はなぜかふらんす堂の山岡喜美子さん が主催したもので、山岡さんの発案で、ひとりひとり、5行詩を河津さんに贈るご挨拶をして 河津さんからも詩をいただくというもの。 私はこんな詩をお贈りした。河津さんと電話で話したときのことをよく覚えていてそこから 書いてみた。 電話の声がよみがえると あなたの顔が 深いアーチの 異国の駅舎になってゆく そこから星屑のような芥子のような言葉の種子が降ってくる ワタシは 夏の終わりから 身体が夢を見てしかたない 花が 咲き続けている のです お知らせ ●神奈川大学評論に私の詩集『青い影 緑の光』の書評があります。柴田千晶さんが書いてます。 ●3月18日 16:00より「よるのひるね」で「フットスタンプス」の白鳥信也さん主催の 朗読会があります。私もちょっと参加します。 [ティーアガルテンの夜まで流れて] 3月8日 ドイツの色が好き。と水門の写真家(佐藤淳一)は書いていた。ギャラリーの壁では、 水門というより、光の透過が鉄骨を透明にし、至福の思考構造のように鉄骨が重量を放擲し、光になっていた。 ドイツの光。青やグリーン。赤や橙。そして鉄。水はあまりにも後退していて、意識の地下水に潜って記憶に残らない。 でもそれがさわやかだった。 東京−ベルリン。そしてベルリン−東京。きょう読んでいる日本語の詩(河津聖恵)のなかに現れる異国の名前が ここと、あちらを行き来する。時間も空間もない往復は、名前を言葉にするたびに、わたしの中でも たちこめる靄をはらい、しだいに心にくっきりと、ひりひりと感覚を呼び覚ます。 1999年、春。「ティーアガルテン」。夜の森にたどり着く。 澄みきったフルートの音のように、ナイチンゲールの鳴き声が、闇のなかに奏でられ、 なにもみえない闇のなかに光源のない光が流れた。黒い樹木の梢の葉のざわめき。 なにが起きてもおかしくない森の危険をかえりみず、私達は聞き入っていた。 私はでも、そんな危険は知らなかった。その頃ベルリンに住んでいた女ともだちが、 あとで教えてくれたのだった。何か起きたら、どうやって、私のことを守れるだろうか、とずっと考え 身構えていたのだと。車のエンジンは止められていたから。彼女はどうするつもりだったのだろう。 ナイチンゲールに聴きいっていたわたしの隣りで、神経を張り詰めて立っていたという彼女のことを、 そのことを告げられた驚きを、懐かしく思い起こす。 [変化のとき] 3月6日 すこし見なかった木の枝は、長い花のようなものをつけていた。きょうは春一番が 吹いた。もう、ほんとうに春なのだ。 ■体調が少し戻ってきたので、小島きみ子さんが詩誌「エウメニデス」27号で書いて 下さった私の詩集『青い影 緑の光』の詩論「ワタシと写真・「語る主体」」を読みました。 「北爪満喜さんが表現行為していることは<物自体>への問いかけです。写真を撮る、 その映像へ無意識を転移させる。その場所で主体と客体は出会うのです。さらにその 無意識の場所こそが「いま・ここ」でそこへ「主体」を侵入させていくわけです。主 語は第一人称です。」詩論より さらに、ブログ「高原ホテル」2/17に詩論の補足がありました。 小島さんの許可を得て全文を引用します。 「北爪満喜・詩論追補」 詩論 主体と客体はどこで出会うか ○ はじめに エウメニデス27号の表紙は、北爪満喜さんが詩集「青い影 緑の光」で示したパフォー マティブな言語表現への共感を示したものです。撮影時期は晩秋の雪が降る前でした。表紙 の印刷をし終えて気がついたのは、青い人影の肩のあたりに緑の光が射していて、羽根のよう。 そのあたりにネジバナが咲きます。枯芝の上で、立ち入り禁止のクレモナロープが張られてい ます。青い影は、ネジバナの種子の上へ「身」を投げてそれと一体になろうとしています。そ して、緑の光は肩にやってきて、ネジバナの種子が埋められている場所を指し示しています。 「ことばは光とともにやってきた」。そこに居るとき、私はそのことをはっきりわかっていま せんでした。ですが、たしかにそこには、「眼」をとおして、カメラが捉えた、わたしの無意 識というものが映されていたわけです。そのときのわたしの無意識とはどのようなものであっ たか。「 失うことによってひとつになったもの。わたしは透明なのに、草のうえにそっと横た わることができる。そしてわたしの声を枯れた草に伝える。わたしの喉に草の声が伝わる。わた しの影は草のなかで、花の種子を見つける。種子のなかにわたしはわたしを忍ばせる。」の、よ うなもの。 ○ 真理を照射する言葉 無意識の底は「主体」的なものと「客体」的なものとが出会う場所で、「自己」と「他者」を 媒介するものとレヴィ=ストロースは考えていました。ラングとは、それぞれの文化に内在する 言語の体系であるけれど、この「無意識」を「ラング」とおきかえても良いです。 詩集が目指していることは「世界の認識に新たな何かを映像で発見するという・・」ことのよ うに受け止められます。この「認識」というものは、ひととおりではなく、具体的に指し示すこ とができません。「外側のカタチによって判断されているワタシと、ワタシ自身が認識している ワタシとの違いを表現すること」それが現代詩だといってもいいとさえ思います。詩集論のなか でも述べましたが、近代認識論哲学の完成者カントは「認識を認識として成立させるための根拠 を<物自体>」としている。カントにとって見ることが知ることだった。また、この<物自体>は 哲学の根源に関わる問いかけで「存在そのものの根拠をたずねる企て」でもあります。 北爪満喜さんが表現行為していることは<物自体>への問いかけです。写真を撮る、その映像 へ無意識を転移させる。その場所で主体と客体は出会うのです。さらにその無意識の場所こそが 「いま・ここ」でそこへ「主体」を侵入させていくわけです。主語は第一人称です。どういう心 理状態かというと「無意識的幻想が機能していて覚醒したままで夢を見させている」。そこは、 移」です。言葉を伝えるという行為を、写真をとおして、物自体に発話させようとする言語表現 の行為、が北爪満喜さんの今回の成果でした。まだ、裂かれて明るみに立ったばかりですが、こ れからを期待するとても魅力的な仕事で、この表現行為に共感するものです。 ○ オリジンから<物自体>へ 無意識の夢の中で客体が、「しろいビニールブクロ」の主体(物自体)へと転移していくあた りは、言葉を失います。ここには「発話する主体」があるからです。言葉による芸術行為とは、 「物自体」に語らしめることだからです。 女性詩とは、女性性を語ることだと女性自身が誤解してきたような作られた女性像があったよ うに思います。性を語ることはできても、発話する主体が無いというような言い方をされる、男 性性の詩人さえおられます。 始原の「物自体」という未知のものに接触することは、とても不安な体験で、その場所から (こと葉)を掬いとろうとしている北爪満喜さんの存在は、「女性性」なるものに刺激を与える でしょう。オリジンの現実まで意識を降ろして、発話する彼女の第一人称主語の「ワタシ」を見 つめていたいと思います。一日中の雨が降り止んで、サイネリアの花を買った金曜日に。 [髪を切ったの解る?] 3月2日 ひさしぶりに髪を切る。背中まで届いていたから、ずいぶん雰囲気変わりますよ。 と美容師さんに言われる。いいです。お願いします。と伝え、それから話が続かない。 私は、普通のおしゃべりというものがどうも苦手らしい。この人にどんな話題を振った らいいだろうと、考えてしまう。おしゃべりの好きな人なら、そんなこと考える前に 話しかけたているのだろう。前回来たときは、沖縄旅行の話をして、美容師さんが ダイビィングが好きだということを知ったり、強い陽差しで頭の皮が剥けるまで海で 遊んでしまうことも聞いた。と、いうように、いちいち覚えてしまう。気の抜ける おしゃべりができるのこそ美容院みたいなところなのだ。浮き世床、というのは 床屋さんのこと。昔からそうときまっているのに、私のこの気の張りようは何なの だろう。 で、家に帰って猫達に「髪を切ったの解る?」などと、いろいろおしゃべりをはじめ いる。誰かとのなにげない会話というのが、わたしには憧れでもある。美容院の近く のブック・オフで買った保坂和志の「カンバセーション・ピース」を読み始めてみて、 ゆるい小川のながれのようなつきることのないおしゃべりやまなざしの流れに幻惑さ れてしまう。この世には、まったく異なる言葉との時間を持てる可能性もあるのだ、と。 そうんなふうに言葉にながされていると、不意に、これは意識というものの姿ですよ、 という思索的な数行が現れてきて、はっとする。このゆるい流れは侮れない。 ・・・私のリズムではないのだけれど。