2003年10月へ
平凡な男
嵯峨恵子
その男をそこで見たのは偶然だった。よく行く映画館の前に男が突
然現れた時、他人の空似ではないかとさえ思えた。それほど、男と
男が出てきた映画とは結びつきがなかった。
ゾルゲ事件は第二次世界大戦終焉前の日本政府を震撼させたスパイ
事件である。リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀美が行った行為を日本は
スパイとしたが、彼らの真の目的は何だったのか。理想主義に社会
主義を見いだした男の理想世界への展望、アジアとの公平な関係を
模索するうちに見いだされた戦争回避への願い。彼らを描く映画は
回答を示さなかった。
男が人事から営業に移動してきた時から評判は悪かった。人事では
人減らしが手柄で実績があった。案の定、営業部長になった男は決
算近くになると女性社員を派遣社員に代えるなどの姑息な手段で業
績を書き換えて、実績を伸ばしていった。ふてぶてしい顔つきで歩
き回り、部下を呼びつけてはお客の前でも怒鳴りつける姿がよく見
られた。
ゾルゲは酒好き、女好き、スピード好きであったという。多くの人
を引きつける力があったのだろう。そうでなければ、命懸けの仕事
を手伝う仲間がいるはずもない。尾崎も新聞記者、内閣嘱託のエリ
ートであったが、兄嫁であった女性と結婚し、自立した女性ジャー
ナリストとも恋愛関係にあったとされるから、情熱的な生き方を選
ぶ人だったのだろう。二人は人間的に魅力のある人たちだったと言
えよう。
男の実績が上がるたび、病人が出た。ある年の連休明けに若い社員
が首を吊って死んだ。社員は妻と幼い息子を残して死んでしまった
ため、会社と揉めたらしかった。香典返しが会社に届くまでに随分
と時間がかかった。パワ・ハラ、メンタル・ケアなどまだない頃の
話である。男は営業部長から重役に昇進した。その数年で部下にい
た四人の社員が亡くなった。そのうち三人は自殺である。
映画の中でゾルゲが泣き崩れるシーンがある。ソ連に残した奥さん
が流産した知らせを受けてだった。ゾルゲは命懸けで日本軍の進行
情報をソ連に知らせたが、なかなか信用されなかった。逮捕された
時もスターリンは「そんな人物は知らない」と突っぱね、二重スパ
イと疑われていたらしい。逮捕後、奥さんは連行され、生き残った
ゾルゲの仲間たちも戦後、本国でどんな目にあったか。
男は映画館の前に立っていた。いくつかの荷持ちを所在なさげに持
ち、はげた頭をうつむいている。煙草をくわえ、映画のチラシを仕
方なく眺めるしかない。ゴルフ用の編み込みのシャツから腹を突き
出した男はどこにでもいる平凡な男。やがて、出てきた小柄な妻ら
しき中年の女と男は連れ立って、同じ階にあるデパートの方へと去
っていった。
映画の初めの方で尾崎は特高に拷問される。拷問シーンは見せない
が、ワイシャツをはぎ取られるところがある。その俳優の引き締ま
った上半身。どんなアクション・シーンもこなすために日頃、どれ
ほど鍛えているのかが一目でわかる。とても、インテリの体とは見
えない。重い映画では、眉目秀麗なアイドル出身の男優とハンサム
なゾルゲ役、美しい女優たちが彩りである。
それが目当ての妻の好みに付き合わされて、見たくもない映画を男
は見たのかもしれない。認められることなく、信念を貫き通して死
んだ男たちの物語とこの男に共通点があるとは思えない。映画は映
画のまま、男は私の視線に気づくことなく、休日を通過しただけだ。
物語がいつか終わるように、男の会社物語もここ数年で幕を下ろす。
役員まで出世した会社人生なら、思い残すこともないはず。役職や
肩書、会社という枠を外された後、男の周囲は欠落する。裸にされ
てこの世に置き去りにされて、男はどんな顔で歩き出すのだろう。
怒鳴りつける相手もなく、利益を認めてもらう相手もない空白地帯
を。
*『スパイ・ゾルゲ』監督:篠田正浩/脚本:篠田正浩、ロバート・
マンディ/音楽:池辺晋一郎/出演:イアン・グレン、本木雅
弘、椎名桔平、上川隆也、葉月里緒菜、小雪、夏川結衣他。