今月へ

[詩 蜂蜜を持って 青空の下]

6月29日

詩  


蜂蜜を持って 青空の下



右の肩にかけたバッグの内の
ふくろの闇の中

ガラスの瓶にうっとりと金色の蜂蜜が眠っている

メモ帳とポーチと携帯電話の間に
ごろっと瓶は
甘い香りを閉じこめた金色の蜜を横たわらせ
乗り物に乗って運ばれてゆく

ふはーとファスナーを開けば
取り出せるけれど
蜂蜜の瓶にも 金色の蓋にも今は触れない
子ぐまに届けるような気持ちで
運んでゆく 
大ぐまになって  (割れないように (割れないように

すると肩にかけたバッグの内にたいせつなものが集まってくる
バッグの内の闇の中に 記憶が 野原になって広がる
バッグの内は遙かな野原 

言葉以前の地面の底から
いろいろな花が咲きますねぇ
一つ一つ違った花が 出来事の種から咲きだしている
感情によっても花の色がそれぞれみな変わるから
白とか 赤とか ピンクとか
オレンジとか 黄色とか 紫とか
言い当てられない色彩の微妙な灯りで咲いている

灯る花に吸い込まれると
どの花の奥にもそれぞれに 
子ぐまや大ぐまや子ぐまがいて
大ぐまだった私がそこでは子ぐまに入れ変わっている花もある


苦い 辛い 甘い すっぱい さまざまな花が咲いてゆく
私たちには野原が開く

そこでミツバチを飼ったなら
ミツバチが細かな羽音を響かせ8の字ダンスで知らせ合い
さまざまな花から集める蜜は
きっと豊かな味がする

歩きながら空をみると
晴れているから 空には風が水色になって流れている







[エミリー・ウングワレー展へ]

6月26日
 夕暮れの少し手前、空は風の通りぬけた跡をつけて、雲を浮かばせている。

  プチトマトの茎が折れたことを書いたら、小島きみ子さんがメールをくれた。
「プチトマト・・だいじょうぶですよ。
茎が折れても横から出てきた芽が伸びて花が咲き実になります。」と。
なにかとてもほっとしました。




エミリー・ウングワレー展
 アボリジニの老女、エミリー・ウングワレーは、80歳になってはじめて
キャンバスに絵を描き、8年間で4000点も描き、今はもう亡くなられている。
 エミリーはアボリジニの儀式としてボディペインティングを描いてきた人。
アボリジニの人々は生まれた土地と身体とがドリーミングという物語によって、
密接に結びついている。そんな土地を白人に奪われ、白人の牧場で労働させられて
いた。また押しつけの白人文化によりさまざまな苦難にあっていた。
 そのエミリーが、歴史の流れのなかで、再びアボリジニに土地所有が認められ
故郷、アルハルクラの土地と密接に暮らせるようになったのが1990年代。そしてボランティアによる
教育プロジェクトの一環として、ろうけつ染めなどで描くことを始めていた。
アクリル絵の具と絵筆を初めて手にしたエミリーは80歳。
 エミリーはすべて点描で一つ一つ色を打っていて、その色のハーモニーは驚異的
に美しい。ドリーミングが土地と自分との結び付きをもった物語なので、
エミリーが膨大な点で描く抽象的な色彩の世界は、すべてのもの、を描くことに
繋がっていて、点描の果てしない美しい色彩は、失われていた故郷アルハルクラを
現すものだった。自然と一体感のある点描は天才的な色彩のハーモニーによって
広々と開かれている。現代美術の技法を知っているかのような完璧な点描が
落ち着く先は美術の創造ではなくて、ただひとつ故郷アルハルクラを現すこと。
すべての植物、種、岩、川を讃えることを目指していて、そのことが、
やはり、しっかり伝わってくるから、心を動かされることが、美術の発見とは
異なる印象になる。エミリーは現代の人なので制作の記録が録画されていて
彼女は、アルハルクラの赤土の地面の上に数メートルもある画布を広げて、
ぺたんと座って、空の下で描いているのだった。


[プチトマト]

6月21日
 ホームセンターで植木鉢の苗を買って育てていたプチトマトが
茎ばかりひゅるひゅるのびてしまった。ようやく3個赤く実ったの
で収穫しました。でもそのとき、ポキと茎が折れてしまったのです。
もうあきらめなくては。青い実が可愛そうです。

 きょう歴程夏のセミナーのことが決まりました。
8月29日(金)30日(土)31日(日)
2泊3日
参加費3万2千円  ・・・例年 (今年は未定です・詳しくは「歴程web」へ)
 (1泊のみ・1万8千円)
会場 福島県湯本温泉古滝屋・草野心平記念文学館
(どなたでもご参加いただけます。)
<詩の未来>をテーマに、歴程同人の講演などがあります。



古滝屋は、廃坑になった炭坑の町を救うためにフラダンス
を決意した妻や娘達が常磐ハワイアンセンターを開く軌跡を描いた映画
『フラガール』のロケに使われました。温泉があります。

モノクロ写真は歴程同人の粟津則雄さん。8歳。
ふと鞄から出して見せてくれました。





[空の行き交い]

6月20日
 
 激しく感情を動かされる仕事をする前に、無意識のうちに心身が準備して
「無心」になっていた、ということを住吉美紀さんがブログに書いていて
興味深かった。
 
Emotional involvement(感情的関与)の前の
emotional void(感情の真空状態)。

 やってくるものに揺さぶられる前、心が空白を作って、入る余地を作って
いる。その真空状態の「空」ということがとても興味深かった。

意味合いは同じではないけれど、小島きみ子さんがエッセイ集『光の帯』で、
仏教の思想から「空」といことについて語っていたことを思いだした。

「空(くう)ということと「○(ゼロ)」というこは違うのです。」 
「「それだけで、いつでも、なんのおかげもこうむらないで〈ある〉」ような「もの」
はない。さうしたことについて目覚めて自覚することが「空(くう)」です」



[紫陽花]

6月19日
 蒸し暑い一日。紫陽花の紫から青、水色を含んだ色彩の涼しさに惹かれます。
 
 鈴木志郎康さんが話してくださった木村和代さんが私のスライドショウ『3月の呼吸』
の音を作ってくださる! 志郎康さんからmixiで連絡をもらって、信じられないような
嬉しい気持ちになる。
木村さんは私のホームページの「写真」を見て、さっそくきのう「宇宙の雨」
というサウンドを作りメールで送ってくださった。でも私はウインドゥズを使っていて、
aiffの再生できるソフトで再生したのだけれどファイルが開けられなかったのでした。
また送ってくださる。というのでどきどきしながら待っているところです。



きょうは小島きみ子さんの詩集『((天使の羽はこぼれてくる))』と同時に出された
エッセイ集『光の帯』を読み、哲学や思想の知識が、詩の言葉を書くこと読むこと
について、自分の中でどう関わっているのか考察する軌跡が鮮明に書かれて
いて、鋭い思考に感銘を受ける。




[昼顔]

6月18日
 14日に開通した副都心線に初めて乗り、渋谷から池袋へゆきました。
渋谷の半蔵門線のホームからエスカレーターが降りているので乗り換えが
スムーズでした。やはり速いです。タクシー会社へ義母の忘れ物を受け取り
に行ったのです。池袋西循環バスに乗って、初めての街を走りました。
 タクシー会社の駐車場の金網には昼顔がのどかにくるくる巻き付いて
陽差しを受けているのでした。

 きょうは小島きみ子さんの詩集『((天使の羽はこぼれてくる))』を
読みました。豊かな自然と溶け合う叙情や哲学的な思索も引用も言葉
を宿す作者の身体を通って、すこしも借り物でなく、生き生きとして
います。注釈までも、詩を別の旋律で書いたもののようです。

 



[六本木、渋谷]

6月14日
 先日、森美術館では「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」をみました。
彫刻、絵画、映像、写真などさまざまなジャンルに与えられる現代美術の重要
な賞のひとつと言われているターナー賞。ショッキングなのは、
ヤング・ブリティッシュ・アーティストを代表するデミアン・ハーストの「死」
をテーマにした作品。「母と子、分離されて」はホルスタインと思われる母牛と
子牛がそれぞれ真っ二つに切られて、ホルマリン漬けになっているもの。遺体
なのです。切断された半身の間を通り抜けながら、内部を見ることができるので
鑑賞者のほとんどの人が、間を通ってしげしげと見ていたけれど、私はダメだった。
外からそっと眺めて過ぎただけ。私にとって牛と子牛は作品ではなく遺体だった。
映像作品でおもしろかったのは、ベルリンのガラス張りの美術館で一晩中、クマの
着ぐるみを着た人がたった一人で過ごす。というもの。歩いたり、腰掛けたり、
うつむいていたり、寝ころんだり。それが外からまる見えなので、ときどき通行人
が面白そうに覗いてゆく。ベルリンは「クマちゃん」だから、クマはベルリンの
象徴。ガラス張りの美術館の見通せる室内は衆人環視のなかにいるという意味になり、
戦争後も密告に怯えていたベルリンの歴史を、衆人環視のなかのクマで比喩として
見せているということも言える。なにげないクマのしぐさに意味はなく可愛くも
あるからずっとみてしまうけれど、そうしたことを考え合わせると窓の外の夜の
街が、視線の闇のようで、見られ続ける苦しさが浮きあがってくるのでした。 

きょうは渋谷で白鳥信也さんとともに、鈴木志郎康さんにお目にかかりました。
白鳥さんと、志郎康さんの来るのを待っていると、偶然にもイギリスにいるはずの水越さんが
通りかかったのを私が見つけて、声をかけ、4人で喫茶店にゆき話をしました。
『もーあしび』の引き寄せでしょうか。気付けばみな『もーあしび』に今回書いている
のでした。
私は11分ほどの短編映像詩『3月の呼吸』をSDカードにいれたものを
カメラの液晶画面のスライドショーで志郎康さんに見ていただき、貴重なアドバイスをいただ
きました。実は短編映像詩『3月の呼吸』をYou Tubeに載せたいと思い、いろいろ準備
を初めているところなのです。
(先日、四方田犬彦さんのご紹介でニューヨークで活躍されている翻訳家の佐藤紘彰さんに
お目にかかったのですが、翻訳をお願いしたところ、こころ良くご承知くださいました。
さっそく作品をニューヨークにお送りしますと、本当にすぐに取り組んでくださって
メールでやりとりしながら英訳が完成しました。佐藤さんのような素晴らしい翻訳家に
ご協力いただけとても感謝しております。
これからできれば、どなたかに音楽を作っていただこうと思っているところです。)


この日、白鳥さんは志郎康さん映像作品を借りたりして、作品についての
興味深いお話を聞かせていただきました。特に驚いたのは「日没の印象」です。
フィルムにしてはいけないこと、つまり穴をフイルムに開けて、作品にまと
めたということでした。もう一つの作品の見方が現れて、表現というものの
価値を意識させられました。

また白鳥さんの詩集『ウォーター、ウォーカー』が音楽と朗読のCDになって
七月堂さんから響音遊技第1弾「微水」として発売されました。
音楽は岡島俊治、朗読は女性の声です。とてもさわやかです。音楽と声から
物語空間がひらける雰囲気に浸され、潤います。
思い浮かんだのは、過去に筒井康隆が言葉と音楽でふしぎな世界を作って
いた感じです。あのときは言葉は環境的なものだったと思います。
詩の言葉が音楽とともに不思議な時間と空間をたちあげるのはこちらの方
が本格的だと思います。


[黄色の花々/小島きみ子詩集『((天使の羽はこぼれてくる))』]

6月12日
花屋さんのウィンドウには黄色い花々が集められて明るくなっている。

きのう小島きみ子さんから新詩集『((天使の羽はこぼれてくる))』と
同時発行のエッセイ集『Essay・光の帯』が届きました。(エウメニデス社刊)

新詩集『((天使の羽はこぼれてくる))』では、私は表紙の写真で協力しました。
白の地にモノクロですっきりした装幀でした。

冒頭の詩((そよぐ草の畸形な声の眼よ))は次ぎのように始まり、誘い入れられます。
言葉をめぐる書物や思索から、揺り起こされる躍動がイメージをフレーズを織っていて、
誰も書いたことのない詩になっていると思います。

 ああ、これは何もかもが夢
 夢を見ていると知りながら
 声がするほうへ行こうとしている
 それは意味の記号の連鎖で結ばれる
 恐らくは誰のものでもない架空の幼年時代の夢……。

  ((恐らくは誰のものでもない
    ((架空の幼年時代の夢……






[踊りながら描いていた]



6月10日
 これは6月1日に『国宝薬師寺展』を見に上野公園を歩いて
いたときに出会ったパフォーマンス。少年が首から重そうな
CDプレイヤーを下げて、音楽を流し、たぶんアンプで増幅された
大きな音に包まれて、踊りながら、というか激しく走りながら、
絵筆を持ち、たてかけたキャンバスに絵を描いていた。ときどき
大声をあげ気合いを入れながら、画布に絵筆を振っている。人々
が集まって彼を見ている。たぶんめちゃくちゃな色彩の絵だろうと
思って、遠くにいた私が近寄ってみると、それは彼方、夕焼けへ
と伸びた一本の白い道を人が一人歩いている絵だった。輪郭のみで
描かれている人の中にはカタカナと漢字で、「ソノ光ノムコウへ」
と言葉が縦書きされていた。そして左上には大きく「GO!」と。
観客を必要としていて、絵の過程に持っている気分を外に出し共有
してもらうことを選んでいる。パフォーマンスはときどき場所を
変えて行っているらしく、この絵が書き終わった後、かたづけ
ながら、次ぎはどこどこでやります、と告げていた。じっと彼の
ことを見ていた首からタオルをさげたおじさん達も、絵の整いと
パフォーマンスのがむしゃらさの落差が面白かったのじゃないか
と思う。そこでの「ソノ光ノムコウへ」という文字は、意外と
踊りよりも音よりも、もしかしたら絵よりも強く刻まれる要素
だったかもしれない。




[つやつやした赤い実]
蛇苺                       ゆすら梅
 
6月8日
 駒沢公園は大きな木々が多く花は意外と少ないのです。きょうは散歩の人や
走る人がたくさんいて、しきりに犬と話している人もいたり、アクロバットな
自転車を操る子供達もにぎやかでした。私は昨夜あまり眠れなくてぼんやりした
頭で歩いていたのだけれど、ちらりと見えた赤い実に一瞬目を覚まさせられて、
足元や枝先の実の赤にはっと少しだけ元気を取り戻したのでした。
 蛇苺やゆすら梅は私に時間を遡らせます。子供の頃、赤い実を摘んだのを
思い出すとき、私はここから少し離れてゆきます。一瞬でも離れられることは
日々に風を通し、生きてゆくことを守ることかもしれません。

きょうは酷いニュースがありました。公園を歩いていた時は知らなかったのでした。
今朝、夫を散歩に連れ出して本当によかった。夫はきょう秋葉原へ行こうかと思って
いたようなのでした。事件の起こったソフマップのビルの前がテレビに映ってぞっと
しました。今日は義母の友達二人が遊びに来るので、朝から掃除をしたり部屋の準備を
手伝ったりしていたのですが、見えてから挨拶をしたりお茶をだしたりして、私の用事
が一応済んだところで歩きに行きたくなったのでした。


水溜まりのなかに木が茂り、ふいに通り過ぎる人影が路面から現れ、
くらっとしてしまいます。6月は水溜まりも紫陽花も良く出会いますね。




[薔薇空間]



6月5日
 用事で渋谷に来たので、宮廷画家ルドゥーテの展覧会『薔薇空間』を
みに、東急文化村までゆきました。
 ルドゥーテのバラは植物学に基づいて描かれたバラで、しかも微細な
陰影でバラの花びらの個性のだけでなく、透き通るような薄さや、微妙な
色彩の変化を捉えていて、まるで肖像画のように表情があり、一つ一つ
の絵のバラに対面するような気持ちになります。会場の数カ所にバラの香
りが流れだすボックスがあり、立ち止まって香りの違いを楽しむこともで
きるのでした。ああ知っているとか、この感じねとか、一つ一つにバラらしい
華やかさや、甘さや、幻想性や、爽やかさがまじっていて、香りに包まれて
いると、懐かしい昔どこかで出会ったバラの記憶がゆらゆら現れてきました。
バラ園や、学校の庭や、公園や、花屋さんや、棘が痛かったことなどなど。
 それはルドゥーテの生きているようなバラの絵をみたから敏感になって
感じることかもしれません。開場の半ばにはバラのテラスのような白い格子
の衝立があり、その透ける格子のアーチの窓にはないはずの陽差しがさして
いて、風が通り抜けるようでした。展示の終わり近くにはルドゥーテでない
画家のバラの絵もあり、素晴らしかったのですが、やはりルドゥーテのバラ
のしなやかな息づきではなく、これじゃない、という不満な感情が表れて
しまうほど、ルドゥーテのバラを見ていたときのこの目はおそらく幸福だった
のだと思います。
 見終わってから、会場の隣にあるドゥ・マゴでコラボレーションケーキが
あるというので興味津々で頼みました。かわいらしいバラのムースでした。
半券があると割引になります。




[不思議な緑の光]

6月2日
 昨日は大変暑い陽差しでした。東京国立博物館で開かれている『国宝薬師寺展』へ
行きました。
 日光菩薩立像と月光菩薩立像を間近に見ることができました。本来光背が
あって背後の姿は見られないのですが、展示ではぐるっと回ってみることができ、表情
の変化や、優美な立ち姿の輪郭を感じとれました。ある老人が月光菩薩立像の正面の足元で
長い時間、手を合わせて祈っていました。杖が中程から三脚に開き折りたたまれていて
椅子が開き掛けられるようになっていたのです。
 よく拝観にこぎつけなさったと感心します。だってこの日は2時間待ちだったのですから。
どうして並んだのかというと、二回目なのです。前に来たとき60分待ちですと説明されて
あきらめてしまったのです。さすがに三度くるのは嫌だから、がんばってしまったのです。
こんなことなら、60分待ちのときに並べばよかったです。
 炎天下の中で、長蛇の列を作って、少しづつ進んでゆきました。日傘が貸し出されたり
、列の半ばにはテントの給水所!までありました。マラソンじゃないんだし、と思いまし
たが、多くの方が利用して喉の渇きを癒して、とてもよい配慮だったようです。でも
やはり、誰か倒れた方がいたらしく、職員が何人か集まっていました。前日との気温差
のこともあるし、お気の毒でした。

 帰りの上野公園の池の周りを歩いてきたのですが、蓮の葉の写真をとったら緑の光が
映っていました。何でしょう。水の中に沈んだ緑の物の色が透けて見えるのでしょうか。
拡大してみたのですが、葉の上にかかっているようにも見えて、はっきりしませんでした。