今月へ

2002/3

[朗読と上映]


3月23日
昨日は自由が丘の大塚文庫で歴程春の朗読フエスティバルがあり、
20名ほどの同人が朗読しました。花のテーマで来客者にも10名
ほど朗読していただけました。ご来場ありがとうございました。


一人5分なので、短いかとも思いましたが5分をしっかり読むとまと
まっているし、聴いて見てのリズムもつぎつぎとスムーズで案外、
聞きやすいように私は感じましたが、いかがだったでしょう。
みなさんトークを入れたり、ROSSAの演奏を入れたりして工夫して
読まれていました。
私は詩集『暁:少女』から「ブラックティー」を朗読しました。

(ブラックティーという名前の少しくすんだ色彩の薔薇があるのですが、
その薔薇のイメージが少女の頃遊んだよしこちゃんと重なってうまれて
きた詩です。幼い頃、初めて友達になったよしこちゃんは、歩けないらしく
いつも乳母車に乗せられていたのでした。そしてまもなくよしこちゃんは
死んでしまいました。死んだということがよくわからない幼い頃誰もそうと
は私に教えてくれず、もうずっと遊びにこられないのだ、ということを
何度も聞かされたのを記憶しています。)



和室では床の間のスペースを使ってDVDの『3月の呼吸』を上映しまた。
スライドショーから動画化したものですが、スライドショーのときよりも
ずっとよかったと皆さんに喜んでいただけたのがしあわせでした。
三角みづ紀さんが当日持参した15分の映画もDVDだったのであわせて
上映することができました。でも音を流すセッティングを考えていなかっ
たので、急遽、取説を読んで、セッティングし直しました。
S映像ケーブルでプロジェクターとDVDプレイヤーを繋いでいたのですが
たまたまAVケーブルも持ってきていたので、AVケーブルの映像あての一つ
端子を除き残りの二つ端子をプロジェクター繋ぎました。
DVDをスタートさせると映像は出たものの音量がとても少ない。音量調節は
どうするのか調べるとリモコンでできると分かり、操作するとうまく
音がでて、無事上映することができました。ほっとしました。


坂輪綾子さんからクッキーの差し入れをいだだきまた。ありがとうございました。


[目などが優しい]


3月20日
きょうは小雨や曇り。でも昨日は晴れて、コートもいらない暖かさだった。
築地の魚河岸あたりを歩いていて、カモメにたくさんであうことができた。
河岸公園の柵にいたカモメは、ずいぶん近くにいっても飛び立って逃げたり
しなかったので、しばらく近くに座り込み、あちこちちょこちょこ首の向き
を変えるカモメをみていた。まっすぐこちらをみることもあって、なんだか
いるねと、カモメに確認されているよな気持ちになる。
ふと下を向いたカモメ。地面の何かが気になったのかな。
あとで、パソコンの画面で顔をアップにしてみると、目などが優しい表情に
なっている。無心の穏やかさ。人の私はそんなものを受け取れました。


向かいの岸は築地の魚河岸。かちどき橋の上もカモメたちで賑やか。


☆
歌人の佐藤弓生さんが通路の展示をみてくださった。佐藤さんは、次ぎの瞬間動き
だしそうな写真だと感想をくださった。また展示の写真も詩「脱皮」も動きということ
が読み取れる一方。『もーあしび』16号の「ヘアーサロンで」は何かが止まって
しまった、という印象があると指摘され、佐藤さんはなんて鋭いのだろうと思いました。
あの詩は、私の何かが悲しみによって止まっているときに書いた詩だからです。

☆
水嶋きょうこさんがブログで通路の展示の感想を書いてくださいました。

少し前、水嶋さんがブログで府中美術館の展示について書いていたのを読み
私は、はじめて府中美術館に行ってみようという気持ちになりました。
水嶋さんの言葉を辿っていると、そんな気持ちになるのでした。
で、行ってみたのでした。私が見たのは「光と光が出会うところ」展でした。
そこでは曽谷朝絵さんの絵「Washball」や「the door」と出会うことができました。
日常のなかで光と影をみつめ、何も出来事が起こっていないそのひとコマは
日常を過ごす私達に切り落とされがちな感覚をふわりと立ち上げてくれるものでした。


[幼い頃から見ていた椿]

3月9日
土曜日にお墓参りに行ってきました。晴れていましたが風が氷のように冷たく
て空でうなっていて、大変寒かったのでした。空気が澄み切っていたため
先日噴火した浅間山も雪をかぶった姿をくっきりと見せています。
よかった、きょうは煙がでてない、と思いました。噴火はやはり怖かった
です。窓硝子を振るわす爆破の衝撃風があり、火山灰が雨のように降って
きて、あたりが暗くなるのでした。高校生の頃ときどき噴火したのです。

なぜかこちらから線香と、お墓の掃除用の箒やたわしや軍手やちりとりを
持って電車にのりやってきてみると、だれもいない家には、椿が元気に咲い
ていました。家には何種類かの椿の木があったのですが、今はこの椿だけに
なっています。この椿は、私が幼い頃から見ていた椿です。他に白い斑入り
のや大輪の真っ赤な八重椿や、細い椿などがありました。思い出すだけでも
懐かしいです。椿がなぜ好きなのかといえば子どもの頃の環境なのかも知れ
ませんね。

お墓にゆくと、誰かが掃除してくれていたらしく、枯れた花もなく燃えさしの
線香もなくきれいになっていました。親戚のどなたかだと思います。なので
水をかけてたわしで墓石を磨いて、周りの生え始めたばかりの草をむしって
買った仏花と、さっき家で枝を折ってきた椿をお供えしました。

ところで留守の家の敷地に空き缶が数個投げ入れられて、土が掘って持ってゆかれた
跡があって、どこの誰か知らない人がかってに野菜を植えたのでしょう、野菜が
育っていて、ショックでした。


前回は煥乎堂書店で津村記久子の『ミュージック・ブレス・ユー』を
買ったのだけど、今回は立ち寄れなかったのでした。



[ひさしぶりの明るい椿]

3月5日
 先日の雪は夜にすこし屋根に積っていたけれど、道路には積もらなくてよかったです。
時計が止まってしまって修理にだしているあいだ、何も代えがないので千円の時計を
買ったのですが、買った次ぎの日に動かなくなってしまいました。しかたなく買った
お店まで持ってゆき、事情を話すとお金を返してくれました。でも、お金を返して
もらっても不自由は解決しないので、こんどは雑貨屋さんへ行って2千円の時計を買い
ました。・・時計、動いているかな、ときどき手首の時計を見て確かめています。
何か違うような気がします。
 このメイド・イン・チャイナの時計のために、たいへんな労働条件で働いている人の
ことが想像されてしまう。安くてありがたいけれど、もうこの想像は消すことができな
くなってます。


(中川千春さん、岩佐なをさん、通路の展示にお寄り下さってありがとうございました。
 岩佐さんには銅版画「エリンギ塔」をいただいてしまいました。カワイイです。)


[春へ/津村記久子の小説]

3月1日

寒そうに咲くサルビアの花。咲ききったあと軽くなって
色も抜けて、あたりを眺めている花房がいい。
赤い色のときは視線に差され見られる方だったけれど
いまはからからと明るくあたりを見回している。




食べてますねー。何鳥かはしらないけれど。おいしいのでしょうね。
椿は受難。みるのを楽しみにしている人間も哀しい。でも鳥は楽しい。
花びら一枚に一つづつ穴が開いている。これは虫の試食ですかね。

津村記久子の小説では名前がカタカナになっている。
例えば『カソウスキの行方』の「カソウスキの行方」では主人公の女性はイリエ。
「Everyday I Write A Book」ではハルオとサトミ。カタカナで名前を表記することは
女と男を均等に置いてスタートするため。それぞれ一人と一人としてニュートラル
に生きてゆくなかで関わっていることを描くために必要だからなのだ。
津村記久子の小説は恋愛小説ではない。女や男が出てきても恋愛じゃないもっとでこぼこ
した、または平坦なさまざまな日常を描いている。日々を支えているのは、そうしたさ
まざまな関係の方だから。ようやく日々のなかのこんなことがいいんだよね、という
世界を描ける作家が現れたのだと思う。
女性を○○恵とか、○○美とか、書くことは、女性性をまずイメージ化されてしまう。
女性性といえば身体性というように、男性によってさまざまな作品やマスメディアで
作られた形、萌え要素なども詰められた(?)ものになるので、そのおしきせの枠を外して、
いる。そしてほんとうは日々を支えている関係を、見落としがちだった関係を、掬いあげ
ていてほんとうに共感できる。