今月へ

[春の花たち]

4月24日
 長年の友達が誘ってくれて、はじめてディズニーランドへゆきました。
この年になってディズニーランドデビュー(笑)なんです。
ディズニーシーへいったのですが、平日だったので待ち時間もなく、いろ
いろ乗れて、ショーもいくつか見たり、夜は花火も。彼女曰く。こんな
に空いているのは初めて!子供を連れてきてたときは2時間も待ったり
したこともある、と。大変だったのですね。きっと彼女は幼い子供たち
が乗り物に乗ってはしゃいでいた姿が見えていたと思います。子育ての
楽しき思い出が、園内の花よりも豊かに咲いていたのだと思うとなごみ
ます。

 私は、何十年も忘れていた遊園地の乗り物に乗る楽しさを思いだしました。
私は幼い頃はルナパークで遊んだのでした。ルナパークは萩原朔太郎が書い
ているほど昔からあって、いまも前橋に健在の懐かしい遊園地です。

 そして何より楽しかったのは、朝から晩まで友達と歩き回って花を見たり
しゃべったりして、時間を過ごせたことでした。


[同人誌を読む]


4月20日
 日々も季節も勢いよく折りたたまれていってしまう。
先日、魚住陽子さんと新宿のエプソン・エプサイトで待ち合わせをして
原稿の詩と写真についてのエッセイと写真をみていただいた。あらかじめ
お送りしておいた原稿を三度読んできたとおっしゃった感想は目からウロコ
が落ちるような、私の文章の癖を照らし出してくれるものだった。また
興味をもたれた私の写真に対してはすぐさま言葉が現れた。反射するように
俳句が魚住さんが話ている途中にするっと現れる。写真が見る人の中で別の言葉の
詩となってゆくのを目撃できたのでした。

詩誌『アフンルパル』通信7号。文月悠光さんの連載の詩に引かれ、関口凉子さんの
翻訳をするときについてのエッセイでは詩と共感するところを発見できた。

詩誌『ムーンドロップ』では佐川ちか特集が大変おもしろかった。佐川ちかの作品が
多く掲載されているので、エッセイも分かりやすく、国重游さんと近代ナリコさんの
ものが大変参考になった。

詩誌『鶺鴒通信』は財部鳥子さんの詩や張玲蘭さんのエッセイが読めた。



[視線を感じ]

4月8日
 きょうは小説家の魚住陽子さんが出している個人誌『花眼』の
原稿を書いていた。詩ではなく、詩と写真についてのエッセイを
書いてほしいと魚住さんから頼まれたのだけれど、これは自分でも
言葉化できない部分が多いのでどう書いたらよいか二ヶ月くらい
考えを巡らせていて、今週になってようやく形になってきたのだった。

 それでも行き詰まって、外へでかけた。
 いつものように路で立ち止まって、植物を撮っていたら、何か
視線を感じ、あれっと思ったか思わなかったかふと目をあげたら
猫がじっとこちらを覗いていた! 菱形の透明なガラスから顔だけ
みえてて可笑しかった。きみはその菱形をいつも窓にしているのだね。



通路の展示を西元直子さんと画家の赤塚祐二さん夫妻が訪れてく
ださった。西元さん。しずかな肯定的空間、と見てくださった
とき通路を荷台などが通らなかったでしょうか。隣の喫茶店が
巨大なブルーのポリバケツを出したりしなかったでしょうか。
通路なのだからしかたないけれど、気になってしまいます。


[路で]

4月4日
 3月30日からサーバーの故障で4日間、メールも出来ず、
ホームページも開けなかった。はじめはサーバーの故障という
ことも分からなくて、焦りに焦ってしまった。ネット環境が
うまくいかなくなると、こんなに焦るものなのだと思い、
この環境と切っても切れなくなっているのだと痛感!

 知らない路地へ、ひゅっと入ってみたら、元気な水仙たちが
光へ顔を向けていた。向日性と書こうとしたら、好日性と現れ
てくる。好きなものへ向けたいのが顔だよね、と言われた気が
する。

 通路の展示へ小説家で詩人の中村葉子さんが夫妻で寄ってく
ださったとメールをいただく。丁寧な感想をありがとうございました。
細いところではなく、いつか広いところで展示したいです!
 また直方平ひろとさんからも感想をいただき、はっとさせられ
ました。直方平さんは、「「脱皮」ってなんだか写真のことみたいで
面白かったです。」と言っていてくれて「内容も写真のことを書いて
いるように思いました。」とありました。彼の視線は
「詩作の行為と写真の行為」との「コラボレーション」に向かっていて
「写っている被写体と言葉で表しているモノとの関係ではなくて、それぞれの行為の関係。」
が作品に現れてうまくいっていると感じたというものでした。
私は、はっとしました。行為してゆくこと、作品を通して行為してゆくことは、
詩でも写真でも、脱皮ということを孕んでいるのだと気付きました。
もちろん猫が「顔が脱げそうなおおあくび」(川口晴美さんのテラスでの言葉)をしな
から生きてゆくことも、人が日々生きてゆくことも生き物として日々作りだしてゆく
行為なのだけれど、作品として、そのことを詩と写真を通して形にしていたのだ
ということだったのでした。自分の撮る写真がどういうものなのか、改めて考えて
いたのでとてもヒントになりました。