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2013年8月分


[通路の詩と写真展 第11回]

8月11日
記録更新の暑さ。寝苦しです。ポカリスエットを飲んで
熱中症にならないように気をつけてます。

先日、銀座三丁目の詩と写真を搬入しました。

第11回の作品は、詩「with book  2011年7月」と組写真7枚です。

銀座4丁目交差点から徒歩5分ほどです。ぜひお寄りください。
通路なので朝9時から夜12時まで入れます。



[駐車場でねころんでいた]

.......

8月7日

数年前に撮ったミケ。この夏はぐったりして長い時間、台所の餌をやるマットの上で眠っていた。
野良なので、食べにくるけれど、ドアが開いてないと心配でいられない猫だった。
なのに、この夏はドアを締めても横たわったまま、何時間もいることが多かった。
一日だけ、泊まって行ったこともある。そんなことはこれまでなかった。16年間なかった。
そして、痩せて疲れているミケは、はじめていやがらずに体を撫でさせてくれた。
8月1日に来て、ゆっくりしているミケを、珍しく動画で撮った。会えなくなってしまうこともあるかも
知れないとふと思って、ふだんは動画を撮らないけれど、この日は撮ったのだった。
両前足を立ててしっかり起きたミケだけれど、もう頭がちゃっとまっすぐ上がってなかった。
ちょっとうつむくような傾げた頭でいた。じっと私とカメラの方を見て撮らせてくれた。
8月1日から、ミケはやってきてない。もう6日間もたった。数日前から空き地や、公園で
ミケ、と呼んで探している。けれどどこにいるのかまったくわからない。出てこない。この暑い日々の
6日間は不穏だ。やって来ない。もしかしたら、8月1日はミケはお別れのつもりだったのだろうか。
そうであってほしくない。猫は、姿を隠すのを知っている。 




[映画『フェリックスとローラ』――虚構について]
                             
北爪満喜               
 
 パトリス・ルコントの新作『フェリックスとローラ』の予告編では、
目を濃いアイシャドゥーで覆い、その表情がとても哀しそうな顔の若い
女の人が、移動遊園地のバンパー・カーに乗り、次々と他のバンパー・カー
にぶつけられながら、ハンドルを握り続けていた。それがとても印象的
だった。彼女は衝突には無感覚なようすで、哀しい目をして心ここにあ
らずといった感じなのだ。その短いシーンから私は今回のルコントの映 
画に興味を掻き立てられたのだった。
 ルコントは『髪結いの亭主』(1990)や『仕立屋の恋』(1988)でそれぞれ
官能的な世界を開いた監督だった。『髪結いの亭主』では触れる愛、
『仕立屋の恋』では決して触れない愛。どちらの世界もともに主人公の
男の人生が、彼の頭の中に張り巡らした官能のイメージ、いわばエロテ
ィックな虚構が主役となっていた。私がルコントの映画を好きなのは、
イメージを持つ人がイメージを実現しようとするときに見せる情熱のせ
いかもしれない。不思議なエジプト踊りをするユーモラスな髪結いの亭
主も、几帳面に日々の日課を繰り返すストイックな仕立屋の男も、実に
真摯に滑稽なほど世間を逸脱してゆく情熱に従っているのだった。頭の
中につくられたイメージの方が主人で、それに服従するように生身の男
は現実の俗世間でそのエロティックな虚構を追い求める。そしていった
んは現実の日々のなかで求めていた世界を手に入れるのだが、その後失
ってしまう。頭の中の世界と日常とは違うのだから喪失は避けられない。
その喪失の残酷な切なさをルコントは痛いほど知っている。	
 今回の『フェリックスとローラ』も「虚構」ということに注目がゆく
映画になっていた。しかし2000年に創られたこの映画では先の二つと
「虚構」の意味あいが少し違う。「虚構」から主人公に「喪失」がもた
らされるのではなく、「虚構」の方を主人公が手放すのだった。その違
いを見てゆくために先の二つ映画について少し触れてみたい。
 『髪結いの亭主』では男は、少年の頃によく通った理髪店の女理容師
の醸すエロティックな雰囲気に憧れ、それが彼の感性を決定的に支配す
る。憧れはながく彼のなかに留まり、いつか髪結いの亭主になることが
男の一生の夢となっていった。大人になって、彼はひとりの女性を見い
だす。彼の頭の中に巣喰っていた官能的な世界を鏡に映しだしたらこう
なる、というような理想的な生活を、その女性を妻にし、理髪店の主人
として至福の日々を過ごす。彼に選ばれ妻になり、髪結いの仕事をする
女の人は、非現実なほどに愛されるが、その非現実な幸福感の不安から、
あろうことか、自ら身投げして死んでしまう。たしかに他者の虚構に根
ざした幸福感なのだから、彼女は安心できる実体をなにも手につかめな
かったとしても無理はない。
 また『仕立屋の恋』では、中年になっても独身で仕立屋をして暮らし
ている孤高な男の、決して触れないの愛の実現だった。彼は彼の住むア
パートの部屋の窓から、向かいのアパートの女性の生活を覗き見つづけ
る。見つめること。それだけでよかった。それが彼の愛の至福だった。
しかしある日、見つめるだけの対象のはずだった女の人に気づかれる。
女の人は彼に近づいてくる。そして彼は、やがてこっぴどいしっぺ返し
を受けることになる。仕立屋の男は、女と女の恋人に犯罪のぬれぎぬを
着せられて命を落とすのだ。女の人はそれで助かる。男は警察に追いつ
められてゆきビルの屋上から足を滑らせ転落してしまう。でも彼は女の
人にこんなことを言い残す。「君は信じないかもしれないが、僕は君を
恨んでないよ。ただ死ぬほどせつないだけだ。」
 この二つの映画では主人公たちが虚構の枠を持つ。そしてその成就の
至福と喪失の悲劇が映画を作っている。生身の人間が虚構の枠のなかで
生きるとなると、はみ出さざるを得ない。そのことが前提で輝きを放つ
映画だったともいえる。つまりこれらの映画ではルコントは失われる虚
構、その虚構の達成の輝きに焦点をあてていたのだった。
 ところが『フェリックスとローラ』の虚構は違っていた。虚構と人と
の関係が以前のように主従のようではなく相関的な出来事として扱われ
ているのだった。虚構の達成により悲劇が起こるという世界は捨てられ
ていた。そして虚構の枠は外そうと思えば外せる。人は一旦は虚構に助
けられても、囚われたままでなくなれる、手放す勇気を持つこともでき
る、という明るさを打ち出しているのだった。
 『フェリックスとローラ』では、まずはじめにローラが自分の虚構の
枠に入っている。移動遊園地でバンパー・カーに乗っているのは、とて
も哀しそうな顔のローラ。そのなんとも目につく彼女をずっと視線で追
っていたのはバンパー・カーのオーナーを務めているフェリックス。フ
ェリックスはその場に不似合いなほど浮いているローラに激しく興味を
掻き立てられる。でも彼は無口だったから遊園地のカフェでローラが食
事をしているときにやっと声をかける。「君が気になって・・・」と。
するとローラはいきなり雇って欲しいとフェリックスにきりだす。頼み
はすぐに受け入れられローラはフェリックスのところで働きはじめる。
この二人のシーンにはときどきオーティス・レディングのヒット曲アイ
ヴ・ビーン・ラヴィング・ユー・トゥー・ロングが流れ、間違いなく
『フェリックスとローラ』は恋愛の映画なのだけれど、この無口な青年
と哀しそうなローラを描いてルコント監督が送り届けてきたものは、「
虚構」と「人生」についてだった。
 ローラの哀しみは本物だった。彼女の生活にはドラマティクな事はな
にもなかった。30歳になる彼女にはドラマテイックな人生などなにもなく、
にもかかわらず哀しみだけは激しく巣喰っていた。だから彼女は心の真
実としての哀しみのために、頭のなかで虚構の悲劇を作り上げていた。
まるで虚言癖の女のように、フェリックスに不幸な秘密を隠し持つ女の
ふりをしつづけ、嘘をつき、自分で創った悲劇のミステリアスな女を演
じ続けてゆくのだった。ローラは苦しそうにフェリックスに告げる。私
には娘がいる、と。もちろん娘はいない。さらに、別れた男にジャマさ
れて娘に合わせてもらえない、と。そしてときどきフェリックスの前か
ら不自然な失踪をして、フェリックスの愛を試した。ローラの作る嘘は
切実だった。この映画では、ローラは虚構に囚われているのではなく、
虚構の枠をヒツヨウとして求めている。虚構を自分のものとして、それ
によって助けられたいと望んでいるのだ。
 ローラの言葉と不可解な失踪によって、フェリックスは葛藤する。彼は
葛藤しながらもますますローラに惹きつけられてゆくが、二人の関係
はローラの不審な行動のためにひどく危ういものになってゆく。これで
は破綻への道しかないのではと思われた。ところが、二人の時間には、
ささやかながらある重要な要素が入っていたのだ。ある日ローラはフェ
リックスの車に乗せてもらって田舎道を走ってゆく。そして突然ここで
降ろして、と車を道端に止めさせて、どこへ行くのか秘密のまま車を降
りる。ローラは降りる前にフェリックスに「君を信じているよ、ローラ」
とむりやり言わせる。フェリックスは、黙って口にださなくても彼女を
信じていたが、強い催促にしかたなく早口で信じていると言ってやる。
するとローラは「ありがとう」といって、車を降り、走り去る車を見送
るのだ。その後のローラはどうしたのか。思わせぶりに車を降りても彼女
には実はなんのあてもない。田舎道で車を降り、そこから長い道のりを
歩いてフェリックスのいる街まで帰ってゆくだけなのだ。もしかしたら
途中でバスでも乗ったかもしれない。でもそうして独りで現実の田舎道
を歩きながらフェリックスのいる所まで本当の時間を繋ぎながら、彼女
は虚構から歩きはじめて、一歩一歩、ホントに生きて、歩きながら現実
へ、架け橋を掛けていったのだった。
 地上に繋がれている時間を体で歩いてゆくと、心は体の入れ物に入って、
ゆっくりと他者へと繋がれる。ローラは田舎道を歩いて帰るというなん
でもないことによって他者=フェリックスへ辿り着く。虚構と現実を埋め
たのは、頭の中とは違って手間のかかる生活の地平だった。そうした現実
の時間を蓄えていってローラは他者へ、といおうか、他者の心へ、辿り着く。
他者はその地平にこそ生きていたのだった。
 ローラはフェリックスの愛を試そうと、一時はフェリックスに殺人を強要
しフェリックスをローラの虚構の枠に入れようとた。けれどぎりぎりのところ
でローラは殺人を止めさせた。ローラは虚構の枠を捨てたのだった。頼って
きた悲劇を捨て、ローラはぱっとしない自分のあからさまな人生をフェリック
スに告白する。なんでもない時間の生活の地上を、何度も何度もたどってフェ
リックスへ辿り着いた実感が、ローラにとって自分を直視する力になっていっ
たのだ。たとえ人生のなかでヒツヨウとしてある種の虚構をもたなければなら
なかったとしても、それは変えられる。囚われたままではなくなれる。
 閉塞感が厳しくなりつつある今、ルコントの示した虚構との新たな向き合
い方が光りを投げかける。 (2002/8)





[足と足]

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8月1日

 ソファーにいると、近くにごろんと横になったクロ。
そっと足に足を重ねてきた。肉球に押され、足の甲が笑う。