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 森の香り
                   北爪満喜

皿をすべて洗いおわって ひとりでぼんやり椅子にかけると                        

ほのかな菫の香りに気付いた
目を閉じ
香りを辿っていると
菫の香りはかさついた部屋の壁をひたひたと 
よりそうようにゆらしてゆく

菫の香りはわたしのもとへ森の中からとどけられた と 
むなもとでことばが結ばれて
結び目を引くと 胸底の 泥の溜まりの栓が抜け
水が流れてだしてゆく

森の方へ流れてゆく
黒いゆたかな森の方へ 流れて
木の根をうるおしてゆく 濡れてゆくその地面のあたりを
木の根の上を 
すばやい何か
茶色のリスだ 
走っていった

ゆたかな黒い森
の方へ
惹かれてゆくのは
部屋が前ほどわたしの想いをよくは響かせなくなったから
仰向けになって床にのび
頭の上に手を投げ出したとき
ひらいた二枚の掌の 軽さが とてもはかなくて
むかし読んだ厚い本の重みまで思いだしていた
あのなかに森が広がっていた
森が と
結びはじめると
ほの暗い泉も結ばれて
 ほの暗い泉を抱えた森の
    菫の香りの運ばれる
   霧のただようなかで 
    わたしは 
    はりつめた一匹のリスだった
     一匹だけの リス だった
      日の落ちかけて闇の迫る谷でも 
     明け方の岩場の上でも
    崖に取り残された木の梢でも
   いつも匂いを追っていた
  いたかもしれないリスの匂いを
 微かでも胸をかきむしられる匂いを追ってゆきながら
 枝から枝へ走ってゆくとき
  明るい木洩れ日が毛並みをぬらし
   飛び移るとき きらっとした
        
          ほの暗い泉のまわりの草地で
    のどが乾いたら泉でのんで
   木の実を拾ってきてから食べた

部屋がよく響いていたころは
部屋を後にしてからも森は茂ったままだった
わたしはリスのままだったのに

わたしは足へ靴をはき 街のなかへまよいでる
森をさがしにまよいでる

高いビルは反射がきついし
ステンレスはすべるから 
肩までの髪
後ろに結んで
きゅっと爪先をしめた

けものみちをゆくように舗道を細く歩いてゆこう

広い道路にそった長い舗道を歩いていると
泣き叫ぶ女の子がやってきた
どんどん距離が近づいて もうすぐ鉢合せしてしまう
厚い靴底のブーツを履いて
肩を母親に支えられ 
泣きながらこちらへ近づいてくる                                                       
ねじ切れそうに 声を張り上げ 
生木を裂いてゆく声が
〈鋭い牙にかみ砕かれて自由になりたい けどなれない〉
すれちがうとき耳のなかへはいってわたしを
貫いた

いっしゅんのうちに貫く声に
ねじ切れそうになってるほんとの自分を深く照らされて
安心に ぐったりしてしまう
靴が ぐらりと脱げそうになる 

ゆらぐからだで歩くわたしの
晒される瞳
ナマの瞳に
赤く光るものが映った
森へ渡るシグナルだ
道路がおおきく波打った

灰色の固い路面へごつごつはみ出した木の根や石を踏み
けものみちを森へむかう
木々に隠された森の草地へ
銀色の幹をすり抜けるとき
真っ直ぐ突き出た枝に当たって 
毛並みが擦れ抜け落ちた
傷んでもいい、痛くても

足裏で森の印しを探り
ここまで歩いてこれたけど
幾つもの崖がぴかぴかと反射しながら切り立っている
まっすぐな谷だ 隠れられない
いやな臭いで走る巨大な虫達で
どこも恐ろしい
赤く光る石だけみつめて
知らない動物がひしめく道を走って逃げたい

匂いは 匂いは
でもたいせつな匂いが かぎわけられない

きょろきょろすると
(ショーウインドゥ)と浮かぶ怖い氷の上に
立っている自分の顔が映った
菫 菫の香りに濡れた リスだった、
リスだった、リスだった、
瞳で、
渡ってゆけるさ、 坂を
隠れられるさ、 穴をみつけて

うつむいてそれからふりあおぐ
震えを抑えたリスの
鼻先に
しっとりと土の匂いが きた
行こう