ファウスト「こんな映画を観た...」のメニューへ戻る
監督:ヤン・シュワンクマイエルさて、困った。何がどう困ったって、これほど言葉にするのが難しい映画を観たのは、「2001年宇宙の旅」を最近改めて観て以来なんじゃなかろうか。
渋谷はユーロスペース1というごくごく小さな劇場の単館上映に、「ヤン・シュワンクマイエル 妄想の限りなき増殖」とうタイトルでかかっていたのが、この「ファウスト」と「短編集」。総入れ替え制なんで両方観るのは倍料金な上、「ファウスト」を観た後に時間がつかえていたのと最終日に観に行ったのとで「短編集」は観れなかった。残念のような、ほっとしたような、複雑な心境。というのも「ファウスト」の感想の一つ。
「ファウスト」は、言うまでもなくゲーテの「ファウスト」なのだが、実際にはゲーテの戯曲だけが「ファウスト伝説」ではなく、当時ヨーロッパには様々な形の「ファウスト伝説」があったらしい。そしてこの映画は、あるいは現代の「ファウスト伝説」の一翼を担うのだろうか。舞台は現代、主人公はどこにでもいそうな男。モチーフはファウスト。しかし、それだけ。ストーリーを言葉にする事すら難しい。いや、そもそもストーリーなどというものがあるのかも妖しい。画面にあらわれた事象をそのまま言葉にする事は可能だが、そうしていってもそれは決してストーリーとはなり得まい。この映画のシーンとシーンは、連続性を持ちながらも関連性を持たない(ことが多い)。世界はさながらコントロールできない悪夢のように展開し、男も夢の主人公であるかのように衣装を纏い、悪魔を呼び出し、人形となり、演じ、犯す。論理も常識も存在しないかのように思わせ、しかしその隙間には現実世界の映像が滑り込む。その町並こそがシュールに感じる瞬間。「妄想の限りなき増殖」とはよく名づけたものだ。
ヤン・シュワンクマイエル、チェコ出身。“魔法使いの街”プラハの空気から生まれたのなら、この映画の「妄想」にも納得がいく。俳優が出てくるのは当然として、この映画の(というよりヤン・シュワンクマイエルの)特徴が「アニメーション」だ。もちろん、セル画アニメではない。粘土や人形の位置・形を1フレームごとに変えていく、あのアニメーション。(ポリンキーのCMでも想起すればわかりやすい。)特撮に慣れた目には、中途半端なSFX映像よりめずらしく映る。特に天使だ悪魔だと出てくるこの映画では、そのギクシャクとした不格好な動きとくぐもった効果音が、リアリティとしての「異質さ」をそれらに与えている。まさに悪夢の世界。
主人公自体が狂言回しみたいなものだが、しかし、「わき役」としての狂言回しが数人いる。同じ顔があちこちで見え、まるで計算された伏線があるのか、巨大な、しかし見落としたストーリーが存在するのかと「自分を」疑いたくなる。(まあ、んなもんねぇな。)伏線、というよりは火事場から飛ぶ火の粉のように、離れたシーンどうしが一瞬ぶつかって火花を散らす。イメージと交錯とモチーフの間にテーマを感じない訳ではない。が、それが本当に制作者の、ヤン・シュワンクマイエルの意図したものなのかどうか、自分にはいまいち、自信がない。あるいはそのあたりが、制作者の意図せざる目的なのかもしれないが。
ところで、至る所で「ファウスト」をモチーフにしたシーンが出てくるのだが、ワインのくだりなんかを観てるとニヤリとしてしまう。お遊びも、なかなか上手い。
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