[Focus]

監督:井坂聡
脚本:新和男
出演:浅野忠信 白井晃 海野けい子

 登場人物は三名+一人。主演は浅野忠信(金村)、そのサイドを白井晃(岩井)と海野けい子(容子)が固める。少ないながらも見知った顔。そしてセリフだけが聞こえる、正真正銘のカメラマン。

 無線(盗聴)マニアの金村を取材するディレクター岩井とADの女の子、カメラマンという構成で物語は語られていく。画面はすべてカメラアングル。徹底してカメラアングル。観客は、自分が観ているのが一般化された客観的な視点ではなく、「テレビカメラ」という超主観的な枠の中身だ、ということに一番最初に気がつくだろう。そしてその枠の中身は、ディレクター岩井の手によって構成されていく、ちっとも客観的ではない世界。テレビが持つ「やらせ」の構造を丸裸にして写してみせる。金村青年は「無線」というメディアを手中にしているし、テレビクルーは「テレビ」という(あるいは「カメラ」という)メディアを弄んでいる。メディアは武器である、が、決して究極的な武器ではない。暴力の閃きで力関係は容易に逆転し、カメラもそれに隷属する。

 無茶苦茶抽象的に聞こえると思うが、それは、ストーリーを一片たりと(観るより)先に教えたくはないからだ。なぜなら、この映画はオススメだから。
 正直、全員が「面白い」という映画ではないと思う。キツネにつままれたように思う人もいるだろうし、「これが映画なもんか!」と怒る人もいると思う。だが、映画が、映像が、その表現者が扱う手法としては画期的であり、かつ、レトロなものだろう。言葉でこの映像を伝えることは簡単だ。が、しかし、それでは映像が伝えられるものを伝えることはできない、この映画がまさにその代表例。言葉でかかれた脚本がそれ以上のことを表現する。それこそが監督の、演出家の、役者の、そしてなにより脚本家の目指すべきものなのだろう。

 浅野も、白井も、海野も、それぞれの役がらのステレオタイプを演じているようにみえる。しかし、ステレオタイプ役にありがちな不自然さが感じられない。「自然体を演じる」ことの何と凄まじいことか!「なるほど、コイツはこーゆー奴なんだな」と思わせる範囲内で役がらをまとめるのは、おそらく役者としての技量が試されるところだろう。見事である。
 そしてカメラマン。目前で事件が進んで行く中、カメラは決して物語に介入しない。観ればわかるが、カメラマンが介入するチャンスは何度もあった。が、カメラマンはそれをしない。「映画を撮る必要が有るから」などと野暮なことは言うまい。彼はジャーナリストの鑑を見事に演じたのであり、徹底したジャーナリズムが持つ非人間性を表現してみせたのだ。もちろんそれは、全編に通じるテーマの一翼を担う。
 もう一度書く。この映画はオススメだ。だが、決して万人受けするものではないことをお断りしておく。それを承知で、ぜひ、観に行ってもらいたい。
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