ゴジラ-GODZILLA-
主演:GODZILLA
監督:ローランド・エメリッヒ 配給:トライスターピクチャーズ
2時間19分 錦糸町本所映画(だったかな?)
全米公開前と違い、今やGODZILLAそのものの露出が非常に激しくなってしまっているので、興ざめと言えば興ざめなのである。つまりそれは、観に行く前から「あ、要するにこれはジュラッシックパークなのだな」っていう気持ちを押さえられないということであって、それはつまりそれ以上の評価を期待せずに観に行くという事なのであって、ということはよほどのことがない限りその期待を超えて評価が行われるということは少ないんじゃないか、という結論に達するのだ。
ストーリーそのものの露出も多いので今さらナニをネタ隠しだ、という気もしなくもない。よって、ストーリーそのものにも言及があるので注意されたい。実際のところ、日本のゴジラとの違いを挙げ連ねてもしかたないのである。日本のゴジラが徹頭徹尾「つくりもの」であるのと違い、GODZILLAはリアリティを多少なりとも追及している。そのコードネームの語源ですら、日本の「神話」である「ゴジラ」からきたもの、という設定なのだから、ある意味、ゴジラのパロディといっても過言ではない。GODZILLAはゴジラの復活ではない。少なくとも、作り手はそう考えているように思う。
同じ名前をつける以上、それがゴジラに対するオマージュであるには違いない。決定的な違いは、ゴジラが作り物以上の存在ではなく、その死すらが作り物であった(得体のしれない兵器で滅び、また復活して現れる)のと違い、GODZILLAにはもっともらしい「科学的」根拠、生物としてのリアリティが与えられている。故に火も吹かず、地を這い進み、餌を食んでミサイルに沈む。日本とアメリカで、「物語」というものに対する姿勢がどの様に異なるか、それを表わしている部分であるとも言えよう。
リアリティとフィクションのバランスは、ヘタにバランスが取れているとどっちつかずな印象を与えてしまうものだ。天秤そのものは極端に傾いていた方が物語としても面白さがでてくるのではないか。だが、片方の皿が空っぽでも、天秤はひっくり返ってしまってどうにもならない。ようはそれがストーリーテーリングにおけるバランス感覚なのだろうが、GODZILLAはバランスを「取りすぎてしまった」ように思う。元々極端なまでの空想の産物であったゴジラ、そこにリアリティを持ち込もうとして、まあまあ上手くバランスをとったものの、どっちつかずに終わってしまった。アメリカに巨大なものはいなかったのだろうか?全米公開時にはその「デカさ」を売り物にしたらしいが、我々はウルトラマンを知っているし、巨大ロボットは大抵ゴジラ並みの大きさがあった。(そういえばアメリカンヒーローってあんまり巨大化しないような・・)しかも彼らは空も飛んだ。それにひきかえ、摩天楼に囲まれたGODZILLAは、コンクリートジャングルに紛れ込んだ野性生物であって、致命的に凶悪な怪物には見えない。GODZILLAに与えられた生物的リアリティが、かえってその存在感を薄めさせてしまった。テーマ的には「自然の逆襲」なのだが、その象徴たるベビー・GODZILLA(あれはミニラって呼べないよなぁ(笑))たちはジュラ紀の夢の再現にしか見えず、決定的なインパクトに欠けてしまった。(第一、デカくない。)
この映画がアメリカでウケた、という事実には首をかしげるばかりだが、アメリカにも日本同様「ゴジラで育った」組がいて、少なくとも劇場に足を運ばせる程度にはそのような客層をヒットした、という事には違いなかろう。するとつまり、評価そのものは同じようなものなのかもしれない。[EOF]