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日本産業衛生学会産業医部会会報 平成7年10月号

都市ガス産業医の阪神大震災報告
〜都市ガス復旧活動の側面から〜
産業医  山浦隆宏

 平成七年一月一七日 午前五時四六分に兵庫県淡路島の北淡町を震源とする直下型の地震は、一瞬のうちに神戸の街を廃墟とし、五千数百名の尊い人命を奪う大惨事となった。衷心より犠牲者のご冥福をお祈り申し上げます。
 道路・鉄道などのインフラや電気・水道・ガスなどのライフラインもかなりの被害を受け、現代都市生活が基盤としているものの安定性がどの程度ものかをまざまざと見せつけてくれた。
 都市ガスの被害は甚大なもので、現段階での被害総額試算は約千九百億円となっている。都市ガス業界では、日本ガス協会が窓口となり、大震災の翌々日の十九日には、約二千人の応援隊を阪神地区に送り込んで、災害復旧に全力を挙げて取り組み始めた。九州支部からは、福岡市に本社を置く都市ガス会社とその協力工事会社の社員を中心とする約三百名が、工事用車両と共にフェリーで十八日夜に北九州市の小倉港を出発し、翌十九日には大阪入りをしている。
 平成七年二月四日〜六日の二泊三日で、九州からの災害復旧応援隊の健康チェックをしてきたので、現地見聞も含めてここに報告する。
 都市ガス復旧の特徴は次のところにある。
 都市ガスは、化学成分的に、一酸化炭素を含む中毒性ガスとそれを含まない窒息性ガスとに大別される。例えば福岡市では、石油から製造する従来の都市ガスは中毒性ガスで、現在変更が進行中である天然ガスは窒息性ガスである。窒息性ガスでは、原則としてガス自殺を図ることがかなり難しくなるという特徴がある。阪神地区では天然ガスを使用している。但し、中毒性ガスであれ窒息性ガスであれ、爆発燃焼性という物理的性状に大差はない。
 その様な性質の都市ガスの供給が停止した時に何が起きるか?
 ガス器具を使用中であれば、ガス栓が開いたままになっている。供給停止中にガス器具を使用しようとした人が、火が点かないので、ガス栓を開いたままにしているかもしれない。一度供給を停止した都市ガスを不用意に供給再開すると、開いたままのガス栓に先程の性状のガスを大量に送り込むことになり、二次災害を大量に発生させることになる。
 ガス栓が開いているか閉じているかは、都市ガス供給者側からは判らない。そこで、消費者の家庭を一軒一軒訪ねて、ガス器具の使用状況を確認してからでないと、都市ガスの供給再開はできないのである。今回の様な大地震の場合には、更に地中に埋設したガス管自体にも多大の損傷を受け、一体どこからガスが漏れ出ているか掘ってみなければ判らない、という事態に至っている。安全に目をつぶった仮復旧というものができないのが都市ガス復旧の最大の特徴であり、その結果、連日の報道にあるように、都市ガスの復旧だけが遅々として進まないように見えるのである。大阪ガス鰍フ社員と全国から応援者、合わせて約八千名が必死になって取り組んで、あの結果なのである。
 「電気は来た、水も出るようになった、ガスはまだなのか?」「ガスが使えないから、料理が出来ない、風呂を沸かせない、暖を取れない。」「機械は動くようになったが、ガスが使えないので生産が再開できない。」等々、復旧が長引けば長引くほど非難の矛先が都市ガスに向けられてくる。”安全・安定供給を第一義に掲げて努力を積み重ねて築いてきた都市ガスに対する信頼性にヒビが入ったらどうしよう。”との焦りが、当事者の大阪ガス鰍フ社員にも、又、全国から救援に駆けつけているガスマンの脳裏にも常にある。”復旧が一日遅れれば遅れるだけ都市ガス事業全体に及ぶダメージが大きくなってしまう。自分達の動きが全国都市ガス事業、ひいては日本のエネルギー政策自体にも影響を与えてしまう。”という自負心で疲れた頭と体に叱咤激励を浴びせながら、災害復旧活動に当たっている。休日無しで、早朝から深夜まで災害復旧に当たっている。宿舎は一人当たり一畳半のスペースで雑魚寝。他人の鼾も気にかける余裕すらなく、眠り込んでしまう。プライバシーもへったくれもない、暖かい布団で眠れるだけでも幸せだ、と自らを慰めながらの救援活動である。現地では川西病とお互いで揶揄する病気が流行っているという。救援隊の基地が設置されている土地にちなんだ命名で、疲労の極致から自分の発言したことの六割程度を忘れてしまって、言った言わぬの論争にまで発展してしまう病気のことだそうだ。
 以上のような情報が産業医の耳に届いてきていた。復旧が何時までかかるのかが見えてこない段階では救援隊第一陣の交代のタイミングも見えてこない、という中で、過労が非常に心配になってきていた。救援隊が阪神に出発して二週間半経った二月四日、空路より大阪入りした。伊丹空港への日航の臨時便は、満席だったが、フライトは予定通りであった。伊丹空港も軽度の被害を受けていたようで、通路のタイルにヒビがいり、屋上の送迎デッキへの階段は封鎖されていた。九州隊の宿舎は宝塚市の近くであり、タクシーでそこへと向かう。宝塚市へと近づくにつれ、水色の屋根が目立ってきた。地震の揺れで屋根瓦が落ち、水色の防水シートで応急的に覆った屋根のことである。渋滞もさほどではなく、随分と市民生活は平常に戻りつつあるようだった。
 救援隊は、工事部隊・技術部隊・総務部隊の三隊構成である。宿舎に戻るのは、夜間工事やガス漏れ事故などがないときは、工事部隊が十九時前後、総務部隊が二二時半前後、技術部隊は二三時半前後である。出発は朝の七時半頃という毎日を過ごしていた。部隊が宿舎に戻り出発するまでの時間帯に健康相談・ヘルスチェックを実施した。事前情報からの予想に反して、集団の健康状態は比較的良好であった。風邪をひいている者は多数いたが、市販の売薬程度で事足りていた。使命感という精神的ファクターの身体に及ぼす影響を垣間みる思いがした。実に頼もしい集団である。しかしながら、限界に近づきつつあるのは明瞭であった。丁度私の滞在中に、復旧作業はもっと本格化・長期化するとの見通しが立ち、現在派遣中の者は全員近々交代し、第二陣以降は二週間前後で交代するというローテイションがルール化されたので、産業医としてはほっと胸を撫で下ろした。
 二月五日、神戸三宮へと向かう。阪急電車で、宝塚から西宮まで徐行運転箇所も多々あり約一時間。西宮から三宮までは、代替バスで約一時間半かかった。被災の中心部は、倒れているという表現よりも砕け散っているというものが相応しい。テレビの画面を通して観ていたときは、倒れた建物はかわいそう、残った建物は幸運だったね、などと漠然と思っていたが、現地を観て、そういう考えが変わってしまった。外見上は少しヒビが入った程度で殆ど無傷に見える建物に入ってみると、支柱である鉄筋コンクリートがあちこちで砕けているのである。これでは安心して快適に利用できる建物とは言い難い。しかし、外見上は無傷なので取り壊されずに残されるであろう。まさか台風で倒れはしないだろうが、雨漏りが続き、内部から腐食し、異臭を放つ建物として、末永く大震災の傷跡を残すのではなかろうか?地上部分の破壊は見て確認できるが、地中部分の確認は難しい。地中部分もどうも砕けているとのことである。大雨の度に地崩れ・建物の傾斜などが大地が再度固まるまで続くだろうと噂されていた。その現実を見た今、倒れて一から築き直す方が、補助制度などもあり良いのかもしれない、と考えるようになった。
 被災の中心部では既に住民の立ち直りが始まっていた。被害が軽微だった店は営業を再開しており、コンビニや喫茶店・レストランなども開いていた。今回の被害の傷跡は、数カ月単位でどうこうなるものではなさそうである。年単位で復旧していく被災地をどのように支援していくか、パッションではなくシステムとして考えるべき問題だと感じた。