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風の記憶                  新井 啓子 ドアのすきまから柑橘の香りがした 坂の上にあるホテルの窓からは  縦に六分の一 切りたてのレモンの形をして 白いビルが建っているのが見える 短い不在のあと 重くなった鞄から ひかりがみるまにあふれてくるので からだごと 床にほおりだされてみる フラッシュバック しらしらと降ってくるひかり  しらしらと重なっていく 港では 白い船体の影が際だっている そのむこうにバラ園があったはず こちらには交差点があったはず 女子学生たちが さえずりながら 坂を下りていったっけ 川に向かって下っていく急斜面を かろうじて支え 巡らしている記憶 折り畳まれ 畳み込まれ 坂の上に墓地がある 少し開いた門の奥には緑の迷路が続いていて    マーガレット     ジョージ    ローズマリー      薫      房江 墓碑に刻まれた名前を ひとりひとり 口の中でころがしながら下りていくと うつむいた百合の花が 風に震えるのにであう 赤茶けた煉瓦の橋を駆け抜けるベレー帽はだれ うすぼけた記憶の庭々に花を飾るのはだれ 坂の上の時間は巻き上げることができない あふれるままに あふれさせている ふるふると降ってくるひかり ふるふると重なっていく 部屋から出ようとして振り返ると 窓辺のテーブルに 陽が差していた ガラス花瓶の中に落ちる花びらの ひとひらひとひらをひからびさせながら 過ぎていくものを見た  坂下にはバスが待っている  そのオレンジ色の箱に向かって走れば 髪留めごと跳ね上がる 息 羽音高く舞い上がる 海鳥たち 毛先がちくちくと頬を刺して 白い波  沖へと伸びる橋脚の そのむこうへ   どこまでも走っていけそうだ 埠頭の方から風も呼んでいる  遠い桟橋で 思い出したように 橋脚のねじの一つ一つがざわめき出す ちぎれそうで持ちこたえている 気持ちとからだ ひらり よじられながら風に乗る この風の向こうではもうすぐ  無数の扉がいっせいに開くだろう 酸味高い香りをただ追って その風の門めがけて駆けていこう 果ては見えない 併走してしきれない ちりちりと降ってくる 重なっていく 葉ずれの記憶そのままに
新井啓子さんの詩集 1990年『水椀』(みずまり) 1999年『水曜日』(みずようび)