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彼女たちのなかの『少年』の存在    作田教子・本間淳子・北爪満喜     トランスジェンダーの視座によって自らを表象する詩人たち 小島きみ子 (1)少女時代を少年のように過ごした人のなかの『ぼく』  (2)感覚の先で蘇るかたち               (3)「わたし」を脱ぐ兄の変容を生きる                                     エウメニデスの同人である作田教子さんがこの八月に第2詩集 『境界からの光、声、そして文字へ』を発行した。変形B版の布 張、厚手のビニールカバーのついた美しい本だ。表紙の頭部レント ゲン写真は彼女の長男で大学生のI君のものだ。冬、交通事故に巻 き込まれたときに病院で撮影されたものに彼女がアクリル絵具でバ ラを描いた。この長男の存在は、このあとで私が述べることに微妙 に関わってくる。  この場所で私が注目したいのは、大人の女性が「ぼく」という人 称で自己の内面を語る意識の流れである。このことは今回、作田教 子詩集を読みながら、本間淳子さんの『アーバン・アンモナイト』 のなかの「ぼく」、北爪満喜さんの『暁:少女』のなかの「わたし を脱ぐ兄」の存在に気づかされ、トランスジェンダー (trans‐gender) *の視座による詩的言語の創造を考えるきっか けとなった。それは読者のひとりである私の読み解き方であって、 彼女たちは読まれることによって未知の自分に出会うことになるの かもしれない。  言語は「もの(物)と意味」の関係を巡って時間を移動している が、言葉を用いる者の用い方によって、芸術言語である詩の言葉も 現在の文化を批評して未来の思考である言葉に出会う始まりの場所 へ導く力となり得ると思う。その意味で、彼女たちの詩の言葉が女 性性を超えて「新しい自己に出会う」その瞬間の冷たい孤独の場所 へ私とともに出会ってもらえたらと思う。その場所は、言語の一般 的なものの意味や価値が、女性性にとって他者である男性によって 語られた視座ではなく、女性であることの身体の固有性である母性 を肯定し、自らの表象の言語を創造するために新たな内面の意識が 「詩を書くこと」によって構築される作業現場へ降りていくという ことになる。  意識が無意識から分離され、その意識がものごとを区別すること は周知のことであるが、女性の心理的発達のなかで男性的な力「ア ニムス」*が言葉を表現するうえにおいても心的な機能を演じてい る。アニムスと母性は個人の心理的発達のなかで対立するが、確立 した自我が「言語表現」という仲介を得て他者との相互的な関係を 結ぶとき、全人格的な女性性を獲得して自らの表象の言語を創造し ていくのではないか。この側面に気付き、女を巡るさまざまな「言 説」(ディスクール)を疑い、新しい自己に出会うことによって創 造された文字言語が発している(声)の美しさと、感受性を『詩』 として受け取りたいと思う。 (1)少女時代を少年のように過ごした人のなかの『ぼく』  作田教子の作品群はごく最近に書かれたものから五年くらい前の ものまで含まれているが、私が知っていた作田教子ではない作田教 子がこの「本」の中に存在している。それは「わたしでないもの と、ともにあることによって、わたしでありうる」*という境界に 「わたし」をおくことによってのみ成り立つ作品世界だ。「現在」 の時間のなかで私は「わたし」という内側の別のもう一人の他者の 人格へ、さらに私とは異なる存在の他者の内側の同一性に「わた し」を接続させていく。そうした作品世界における自己の意識のあ りようを巻頭と巻末において「本」の表紙のようにしてある。巻頭 の作品「ひとつの本のように」では、「開かれたとき/ことばにな る/ひとつの本のように/読み解かれたい」そして巻末の「傷文 字」では、「わたしを投げ出すわたしをも/読み解く覚悟がある/ /身体に刻み付ける/溶けることのない/傷文字/抱いてゆく/覚 悟をする」と。  詩集の終わり近くにある『窓』は、「ぼく」という人称が出てく る作品なのだが、これを読んだとき、(彼女は新しくなるんだ)と 思った。雛の巣立ちを、「ぼく」に促すように。彼女は、「ぼく」 という人称を使って、長男の内面の意識変革を語っているのだが、 「ぼく」はまた彼女の自己の一部分でもある。この詩の部分を引こ う。「探し続けていたものは/ぼくの窓に通じていたから/きみへ も/世界へも/どこにでも/窓は入り口だった/口笛を吹こう/迷 彩服を脱ぎ捨てて/世界からぼくが見えるように/一九九九年四月 のカレンダーの/ぼくが見えるように/」  以前から「ぼく」という人称の作品をいくつか書いてきている が、その度に彼女は新しくなった。実生活上の長男が成長の段階を 越えていくのと時を同じくして彼女は自己のなかの異性の性を更新 してきた。かつて彼女が自分の性とは異なる性をその胎内で包囲し ていた記憶を意識としてずっと感じ続けている故だからだと、私は 思っている。『熱性放電』という古い作品に「男であるおまえが私 の内に存在し/同じ水のなかで呼吸をくりかえす/ありえない性の 眠りの中で」という部分があり、性の固有性に着眼していながら、 母性の愛という枠にとどまった言葉ではなく、生命への畏怖と愛が 率直に語られていた。自己の一部分であった「ぼく」の存在の不思 議を。人における妊娠時の性は「妊娠性」といわれ、食べ物の嗜好 が変わったり性格も変化することから、第三の性とも言われてい る。そうしたデリケートな性を詩人の感受性で言葉にした印象深い 作品が『熱性放電』だった。さらには、彼女がその幼年時代を、 「女の子」としての制限を与えられず自由に少年のように過ごした 意識を長男のうえに重ねて来た作品が『窓』であるかもしれない。 そしてここにいる「ぼく」は今回の詩集中の『(声)』のなかの 「誰かの少年時代の(声)を知ってる/まだ声変わりする前の/透 明な少年の(声)を聴いている」という場面へも接続している。そ の彼は今、少年を脱いで青年になっていく。  詩という言語表現を使って「もの(物)と意味」を巡る関係のあ りようを「本」として差し出した、『境界』とは作品世界の作田自 身の身体だと言ってもよく、読者は文字言語を読みながら、作田の 意識の流れを「見せられて」もいる。文字になったものと、ならな かったものを同時に見ることが、作田を認識することになるのだ が、「わたし」であることの文字、「わたし」でないことの文字、 これらはまだ「問われているかたち」のままの部分もあって、読者 である私たちのなかの作田との同一性の時間へと接続し、増殖して ゆく。男性であるあなたのなかへも作田は入っていく。自己のなか の「わたし」のように。これは、臨床心理学でいうところの「ジョ ハリの4つの心の窓」*のなかの「開放されている領域」に近い。 自分の考え、感情、欲求などの情報が率直に自己開示されており 「本」の文字が読み解かれたとき、読者と作田は相互に自己開示的 になる。相互的なコミュニケーションが生まれ、今まで気づかな かった文字を(自分らしい言葉で)発見することになる。彼女の言 葉が(自分の声)になり、ひろがっていく。 参考図書 笠原美智子「写真におけるジェンダー問題」(「女性教養」98年 7月号) 波田あい子「少女漫画の世界の謎が解ける時」(「女性教養」98 年11月号) *トランスジェンダー(trans-gender)「性を越えた」という意味 から男性・女性という性別の固定概念を超越したフェミニンとマス キュリンの両方の要素が感じられるモード。コム・デ・ギャルソン (川久保玲)が95' 春夏パリ・コレクションで提案した。(ファッ ション・ジャーナリスト・愛甲照子)今回、この稿では「トランス ジェンダー」の語は女性である固有の身体(母性)を肯定し、その 人格を自己放棄せず、既存の男と女の性の概念を越えていく思考と 言葉の方向へ向かっていく視線として用いた。コム・デ・ギャルソ ン(川久保玲)のモードのおきての限界に挑戦する新鮮な創造は、 言語を裂く詩の表現行為に似ている。アポリネールが「新しいレア リスム」について、詩は「冒険」と同義であり、美は「新しさ」と 同義なのだ。と言っているように。 吉田加南子「詩のトポス」・林と思想とのあいだ  (思潮社・9 3年) Erich Neumann(1905〜1960) 「アモールとプシ ケー」(AMOR AND PSYCHE)河合隼雄監訳(紀伊國屋書店.「解題ー 女性の自己実現の問題ー」河合隼雄)「アニムス」分析心理学で女 性の自我が確立されようとするとき、その心の中に存在する男性的 な傾向性が「アニムス」。男性のなかでの女性像は、「アニマ」 *「ジョハリの4つの心の窓」アメリカの臨床心理学者ジョーゼフ ・ラフトとハリーインガム(よってジョ・ハリの窓)の二人が提示 したモデル。人が対人関係に入るとき自分及び他人にわかっている わかっていないという四つの領域があるとする。 (2)感覚の先で蘇るかたち  今回、作田さんの詩集評を執筆していただいた本間淳子さんの 『アーバン・アンモナイト』を初めて読んだときは、『絶滅寸前種 リストのさいごの余白にぼくはじぶんの名前を書いた』という長文 のタイトルの詩のなかの「ぼく」の言葉の息の流れ具合にひどく惹 かれた。再読してみて、今度はほぼ現実の「わたし」に重なる作品 に親しみを感じた。そして、「作品世界における自己のありよう」 としてどちらを開拓していくことが本間さんにとって魅力的な仕事 なのだろう、という素朴な感情が沸き起こった。そんな感情のあと に、この九月に創刊した彼女の個人誌『マックスとライオン』が届 いた。プロローグにポール・オースターの「幽霊たち」を引いて、 身内の死に触発された自己の内面に眠っていた「タナトス」の概念 を巡る詩情を「死は時間の移動」と(新しい自分に出会った)本間 さんがいる。「死」への接近が意識や認識へ高まるまえのエモー ション([emotion ]情動)で語られる詩情に生き物の本能のよう なものが感じられた。クチナシに転化される(情動)の詩情は、タ ナトス(死の原理)とエロス(生の原理)の結びつくところに言葉 の「存在と非存在」が存在していることを明らかにしていく作業の ようにも思われた。  『アーバン・アンモナイト』における「ぼく」の存在だが、人称 だけでみていけば大人の女性としての「わたし」「あたし」、小年 の「ぼく」と三種類の人格が彼女のなかの自己の意識の流れを語っ ているので、作品を引用してみる。「わたしがあなたを好きだった 頃には/しばしばわたしは我を忘れた/けれどじぶんが誰なのかを /いつでもちやんと知っていた」(『CRADLE』のなかの「わ たし」)。「ひきだしは/せいとんしないでね/ぼくのちいさなカ オスがいつか/星を生むかもしれないから」(『絶滅寸前種リスト のさいごの余白にぼくは自分の名前を書いた』のなかの「ぼ く」)。「すこしずつ/あたしのコトバが/ものたちと合致しはじ める/ひなたに開かれた 白い/ページの上で」(『新学期』のな かの「あたし」)。人称を使い分けてはいるが、本間さんの自然な 意識としてはジェンダー・フリーの視点にあると思う。不思議な言 葉の奥行きがあるのは引用した詩句にみられる「ぼく」だろう。や はり時間のとらえかたに関係してくるのだが、現実の場所から、現 在の「ぼく」の視点で過去推量の文意で語らせているところだ。現 在が過去となっていく未来。過去が現在を越えて未来に突き出る。 「ぼく」は意識だけで、現実には無い肉体なのは当然なのだが少年 の性と思考の意識に言語の肉体を与えているのが、彼女の詩のフォ ルムである。なぜ、大人の女性が「少女のわたし」でなく「ぼく」 で息をするのか。「ぼく」の言語は冷たくて甘いお菓子のような舌 ざわりがする。現実には存在しない肉体の言語の息づかいが、作品 のなかの「ぼく」の魅力だ。甘く透き通った息の不透明な肉体は、 言葉をつかまえようとする読者の意識をゆさぶる。少年の言葉の息 が幽かであるのに読者の胸を突き刺すのはなぜか。「ひきだしは/ せいとんしないでね」というそのフレイズだけで、現実に少年の母 である私などは自分に向けられた言葉のように狼狽してしまう。私 たち大人は幼い者、弱い者の幽かな声を、大人の価値感への批判と して自分のなかにもあることを知っていながら知らないふりをし、 聞こえないふりをして日常をやりすごしていないだろうか。私たち は自分のなかに存在する良心とでも呼ぶべき幽かな言葉の息をうま く殺すことで、日常を多数の大人の常識に溶け込んで生きのびてき ていないか。そうした問いがおこるのは、ここに現在でありながら 未来の言葉と映像が読者の脳のなかに浮かびあがり、他者でありな がら自己の内省の声のように共感的に受け入れることができる「新 しい知のかたち」が詩として差し出されているからだろう。作品世 界における少年の思想に既存の知を越えた、新しい知を感じ取るこ とができるからだ。ここにも「わたしでありながらわたしでないも の」の「言葉の息」こそが芸術言語の肉体であろうとする、文字の 言葉の魅力がある。それはこの詩集の巻頭の作品『詩に』において 「感覚の先で行方不明になった/すべてのものたちが/わたしのか たちによみがえる」とあるように、この三種類の人称の息のすべて が彼女の(かたち)であり(詩の息)なのだ。 参考図書 中村雄二郎「言語表現とは何か」河出書房新社95年改訂版 *「ジェンダー・フリー」は日本語の造語。男女がジェンダー期待 によって生活や生き方を制約されたり自己実現を妨げられたりせ ず、人間として生き生き過ごせるようにシステムや意識・規範・関 係性を見直し改善することの観点。「女性の視点」の看板が「ジェ ンダーの視点」ではない。人権保障が中核である。「ジェンダー」 は「性差に関する知」であって性差(違い)ではない。(渡邉洋子 ・「ジェンダーの視点」からみた社会教育実践の現状と課題・よ り) (3)「わたし」を脱ぐ兄の変容を生きる  夏の終わりに北爪満喜さんの詩集を三冊読んだ。再読になるのだ けれど、『暁:少女』では「兄」と呼ばれる少年の存在を新しい意 味で気づかされた。詩に新しく出会うとことになったのだが、さま ざまな場所に存在する(わたしというものの意識のなかでおきる恐 怖)に出会った。意識のなかの「ミステリ」は詩の題材としておも しろい、と思った。現実には決して起こり得ない現象を意識の世界 では表象の言葉として受け止めることができるという文字による バーチャルリアリズムの世界がここにある。この場所では彼女が九 十七年に発行した『暁:少女』のなかの異性の存在のありようと、 彼女のなかの「少女」の存在を中心にふれていくことになる。二年 前『暁:少女』に出会ったときは作品のなかの幼い人のとぎ澄まさ れた感情と、大人の世界に住んでいる人への意識の違和感に共感し た。幼い者が身近な親しい人にさえ、その感情を理解されない寂し さに共感したのだと思う。『しろつめくさ』という作品が新鮮だっ た。作品における少女の情緒不安定の内容は私自身の幼い日の不安 と重なっていて感情を理解することができた。新鮮、と感じたのは この幼い記憶が色褪せていなかったからだ。洗練された言葉と臨場 感にあふれ、緻密な時間の動きはドラマチックなものを感じさせ た。  今回、詩集中もっとも印象深く読んだのは『マリン・スノウ』 だった。作品のなかの少女と、大人の読者が、現在の記憶のなかに 存在する幼年時代の自分の記憶を重ねて読んでいく時に生じる感情 や時代の感覚による意識のずれをバーチヤルゲームの主人公のよう にペイジの上を進む共感と違和感。本のペイジはマシンのペイジの ように意識を飛ばすことができる。言語もまた飛び越える。満喜 ちゃんという女の子の「わたし」の上に、この私を重ねていくとき に起こる意識のやりとりは、劇中の主人公への感情移入に似てい る。背筋が凍えるような恐怖と激しい孤独。この恐怖は自分の存在 の是非を問う、父と母の出会いにまで遡ってしまう。北爪さんの作 品には幼い日の家庭における父と母がよくでてくる。少女の日の記 憶にゆきつき、現在の大人の感受性でその時代を再び生きるのだ が、彼女は少女であろうとすること、少女にさせられていたことに 嫌悪していることが文字のうえからうっすらと読みとれる。ペイジ のうえで新しい自己を構成するために、過去の記憶を編集しなおし ているのではないか、という感慨にもとらわれた。カール・ユング は「人の自己改革は前半の人生ではなく、後半の人生における課題 なのだ」と指摘していることをもこの作品から考えさせられた。現 在の自己の意識のなかで欠落しているものがあるとすれば、人はそ れを時間を越えてやり遂げなければ現在の自己を更新していくこと ができない。現実の体験であり経験であるものをバーチャルリアリ ズムの作品世界のなかで象徴的な自己を生きることにより、やり遂 げたのだと思う。作品の二重構造としての意味がここにある。ここ で獲得したものはユングの心理学で言うところの「解放された無 垢」であるといえる。それは、「こどもっぽさ」ではなく「こども のような無垢」である。では、印象深い『マリン・スノウ』の全6 3行のうち40、41、42、45、46、47行を取り出してみ る。 「うれしい/嘔吐が 巻きあがる/あなたがわたしを脱いでゆく/ /ああこれ兄だ/兄の からだ/兄がわたしを/脱ぎ捨てた」とあ る。「あなたがわたしを脱いでゆく」(わたしを脱いだ兄)とは、 私を超越していく内的自己(インナー・セルフ)への探索へ向かっ ているのだと思う。普通の人は、「わたしを脱いでいくわたし」に よって自己を更新するのだが、「わたしを脱いだ兄」によって彼女 は更新されるのである。ここがおもしろいと思う。彼女はここで象 徴的な自己を生きるために象徴的な「少女を殺した」のだ。少年、 少女が思春期における自我の確立のさい象徴的な「父親殺し・母親 殺し」ののちに心理的な発達を遂げるように。ここにある二重の意 味を理解するために、青春の書と言われているヘルマン・ヘッセの 「デー・ミアン」の巻頭にも似たようなフレイズがある。「私は、 自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみよ うと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難だったか」(高橋 健二訳)と。ふだん意識される自己ではない、内的自己を生きるこ との困難さを言っている。  バーチャルゲームのソフトはその主人公が少年や少女であること が売れ行きを伸ばす条件でもあるという。「性」の未確定な主人公 ではそれに感情移入してゲームを進めやすいからだ。大人の男性や 女性が主人公であるものは物語が進展しないのだそうだ。私たち読 者は彼女の作品世界のなかで、少年や少女に軽々と変身しそのミス テリアスな現象を凍えながら体験し、彼女の言語を見ることができ る。「男」と「女」の境界は性欲の強さと筋肉の量だけで、意識の なかではその境界はたやすく越えられるという人もいるが、どうだ ろうか。それから〈性とからだとの関係〉は「ジェンダー」という 概念では捉えきれない時代が到来しているとする見方もあるが、T VによるCMなどはメディアへの批判的な読み取り能力が必要だと 思う。  北爪さんの作品世界に戻ると、外側に存在する単純な私ではな く、内的な自己としての「わたし」が生きている世界の言語であ り、それは「物語詩」を読むようにひきこまれていく。人は仮面を 脱ぎながら、新しい仮面を被って心理的な発達を遂げていくもの だ。意識のなかのさまざまな場所に存在するミステリの主人公は、 「わたしに似ただれか」であり、わたしのなかにいて、鏡には写ら ないその人こそが、わたしが出会いたい本当のわたしなのかもしれ ないのだ。 参考図書 作田教子「境界からの光、声、そして文字へ」(青猫座99年) 本間淳子「アーバン・アンモナイト」(思潮社99年) 北爪満喜「暁:少女」(書肆山田97年)
詩誌「エウメニデス」第15号より         airparkへ