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黒い薔薇                  水越聡美  車両の一番隅に座っていた  冷たい金属に肩を擦れ合わせ 膝を小さく閉じて  金曜日から土曜日へ   午前零時が近づき 蛇行し速度をあげる電車唸りながら   目の前の吊り革に腕がびっしりと下げられ  (鉤につり下げられた死んだ獣のように)  頭の上で 口が幾つも開くのが見える  目を閉じる  口から続く闇が 見えないように  闇が閉じられた目の奥から広がっていく  こわくて目を開ける  誰かの膝が折り曲げた膝の骨に押しつけられ ああゆっくりと てにあぶらあせがにじみはじめる  座るわたしを取り囲む酒臭いこの群れが  人間でも生き物でもないような気がして  息が閉じられてしまう  立ち上がりああ窓を破りたい  ひだりへみぎへと酔いながらスピードを増して  蛇行すすむ電車に腰掛けるわたしの目の高さすれすれに結婚指輪をした指が垂れ下がる  垂れる指がわたしを指さしさされたわたしはひだりに座る男 惨殺された死体のよ  う  に   首が  闇をひだりにみぎに揺れエンドレスで走り続ける   泥酔した隣の男の首が死体のように規則正しく揺れ  向かいに吊り革を持って立つ男の  地面を指す垂れ下がる薬指がカーブを曲がった拍子に正しくわたしを指さす  わたしを またわたしを  こわい  こわいからわたしを指すのをやめて ひょこんひょこんと上がるこの指  叫んでしまいそ  うになるから   指を持っていた本で思い切りぶつ 押し返す 暗い彼方へと              「ごめんなさい」  悲鳴のかわりに  わたしはごめんなさいと言っていた  「あっどうも」  聞き慣れた日本語がかえってきて  指輪を嵌めた手は人だった ひとなのだ いまからわたしと同じように家へ帰ろうとす る 口のある顔がもう遠すぎて見ることができない  い  え  いえいいえいいええええええええええええ    (わたしはいえにかえれない)  (わたしは何処へ連れて行かれるのか)                    わたしたちは何処へ              わたしの目の前にあるのはしろいタイル血が酸化した  わたしはひだりに座る男だったおとこの腹は割かれてしろいタイルに血のように黒いわ たし薔薇のような  流れる わたしの血はからだを引き裂くメスを汚すだろう メスは メスがわたしの臓 物をつまみだし長さを計量する毛深く丸い芋虫の形をした指に特大の結婚指輪がひかり メスは血で錆び ひかり   トロッコで積んで捨てにゆく音がする  からだを わたしが割かれているこの部屋の地下  囚人服を脱がされたからだの収蔵庫     既に乾いた薔薇                          わたし が割かれたしろいタイルのベッドには乾いた薔薇が一本捧げられ 花びらが埃にまみれ地 下室からトロッコの線路を踏んで出てくるおまえたちの顔はタイルのように白くひらひら 平らになっている(わたしはここにいる ずっとここに おまえが電車に乗っている い まも)風媒花が電車の風に揺れるように 何もない骨すら亡くなってしまった はずなの   ARBEIT           MACHT       FREI  からだをひねって土曜零時のくらい窓の外を見る               変わらず結婚指輪を嵌めた薬指がわたしを指さすから  わたっているのはタマガワ とおりすぎたのはカマタ   何百回となく通りすぎた道(のはず)と言い聞かせ               「次の停車まで五分だから」 幾度時計を見ても秒針が動かないから  闇の中を電車は猛スピードで揺れながら走り続ける  ゆっくりと滲み出すあぶらあせで冷たく掌がぬれるというのに   一分は六十秒凍りつく60×5の数 数え終えないうちにわたしは また白いタイルの上で割かれてしまうから  土手に立つ無人の高層ビルに点く蒼い蛍光灯の数を息とともに数えよう   ひとつ  わたしはこの列車でどこへ連れていかれるのか ふたつ わたしは いえへ いいえ 疾走するこの電車は止まらないだろう いいいいいい  みっつ は決してたどりつかない   わたっているのは いったい 何処の橋なの   次の駅は本当にカワサキですか  叫びそうになる それとももう叫んでしまったのか  よっつ  誰か答  いつつ  えて  むっつ  ああ 花が  呼吸を止めて振り返る  電車に靡いて闇に遠ざかる 花  巨大な  黒い  血の色の薔薇
 ドイツのベルリンと横浜を往復する生活をここ何年か続けています。 「パニック障害」という言葉を教えてもらいましたが、昨年秋から日本でわたしは電車に 乗ると、時折恐怖で脂汗が流れるようになりました。  幾つか条件があるらしいのがわかってきました。  夜の、満員の、快速電車(東海道線が特に危険)/自分も周囲も酒気が入っている  夜の中を疾走するスピードと、酔いと、見知らぬ人々にぴったりと囲まれ自分の空間の 最低ラインを浸食されている感覚が、ふと波が重なるように一体化して増幅しはじめた時 に始まるのだということがわかってきました。  ベルリンは目に見える空間にも、抽象的な意味での歴史にも闇の多い街です。  冷戦時代の核シェルターが街の地下にそのまま何キロも残り、野の花が咲き乱れる強制 収容所跡の小さな建物の床下には、真っ暗な死体置場が広がっている。  ベルリンに身体を置いて闇を呼吸しているうちに、さまざまな闇がわたしの一部分にな りました。  明るい東京の夜の中出発した電車は、猛スピードで疾走しそのまま知らない人と知らな い闇へ運ばれていくようです。   パニック障害は闇と向かえという身体の声なのかもしれない。その時間はおそろしいけ れど、闇を忘れきっていた反動なのだと思って、受け入れています。今は。                                   水越聡美