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無花果(イスタンブール)      毛利珠江  手書きの略図を握りしめ、マクロという名前のスーパーマーケットに急ぎ足で行っ た。きらしていた牛乳をふたパック買う。大きな回転ドアーから外に出ると、まだら だった霧は一段と濃くなっている。ニシペティエ通りの坂道のずっとむこうは低い雲 にのまれてしまい、あたりは日暮れのように暗い。その坂道を今度は上ってゆかなく てはならない。はりつめた目に乾いた光がころがり込む。しずくを拡大したような裸 電球をいくつも軒下にぶら下げた果物屋。顔をそむけ大またで行き過ぎて、歩道に斜 めに置かれた木箱に横目が奪われた。箱いっぱいの緑の実。無花果だ。腰をかがめて 見ると、短い蔕を上に揃えられた果実に葉脈状の筋が血管のように縦にはしっている。 薄い皮は霧の粒子に濡れて汗ばみうっ血してみえる。落としたら青い血が飛び散るか もしれない。蔕をつまんだ指が震えた。ふくらみに視線をすべらせ下を覗くと、いま にも裂けそうな果頂部から紅赤色の果肉が透けていた。なかは熟れている。数え切れ ない花を閉じ込めた果物のみのりのかたちだ。産毛のような青白い真綿のようなもの が密生して果頂部を守っている。ひきつれた十字はみずから開こうとする傷口なのだ ろうか。眉と眉のつながった少年が肌理まで汚れた手でわたしに紙袋を手渡してくる から、思わず受け取ってしまった。果肉の見えないものだけ選ぶ。袋を胸に抱え持つ と無花果は尖った氷の結晶のように冷たかった。一瞬、身構えて冷たさを嫌悪した。 逃れるように早足で歩きはじめると、牛乳が骨盤にぶつかり音をたてた。揺れてここ ろのなかで無花果がぱっくり割れた。鮮やかな色の果肉、甘い汁がからだをめぐりさ くさくの記憶の断片をべたつかせる。ちいさな種子が闇で爆ぜ焼けた殻が涙腺をぷち ぷち刺激する。押し寄せてくるものから自分を守るためわざと遠くに目を投げてかわ し、涙を踏みとどまった。家に帰りたい。視線の先を遮る乳白色の幕。行き止まりを 告げられるみたいだ。からだをうすくして幕間をすりぬけてゆく。すれ違う人もいな い。勾配のきつい場所ではためらうことなく息を荒げた。突然、束ねられた色とりど りの花が膝の高さに現れた。「ああっ」と声をあげてしまった。ジプシーが花を売っ ていた角だ。錆びた粉ミルクの空き缶が霧に隠れてしまっている。門番のようにじっ と座っていた花売りの父と娘も霧にぼんやり沈んでいる。二人は親子にちがいない。 (ワタシタチも湯気のたつお風呂に肩までつかっていた。それは一度きりのことだっ たのか、情景を記憶することができるようになったはじまりの日だったのかわからな い。ワタシは首までお湯につかったまま数をかぞえることをためされ、いわれた位ま でよどみなく言えると立つことができた。チチのふともものあいだで膝を曲げていた のか、ふとももにすわっていたのかは思いだせない。ワタシのからだが温まるとチチ の手は水鉄砲になってはじけた。半べそのワタシの顔をびしょぬれにした。小さな手 ぬぐいで風船をつくった。ぶくぶく沈むだけなのに笑った。消えると新しい風船が湯 気のたちのぼるお湯の表面からふわりとうまれる。ワタシが作りかたをせがんだか、 チチが教えてくれようとしたのか、ワタシの両手に手ぬぐいがのせられた。もたつく 両手から手ぬぐいが底にむかってゆうらり沈んでゆく。チチは何か言いながら顔を洗 うような仕草で顔を覆い、ワタシは落ちてゆく手ぬぐいをはやくひろわなければとつ よく思い短い手をおそるおそる動かしのばした。お湯に片方のほっぺと髪と耳がふれ た。あわてて手ぬぐいをつかもうとして、チチのやわらかいものにさわった。) チチ。チチのカオ。父の顔がよみがえらない。濃密に霧と混じりあう花の香りが息苦 しい。胸が締め付けられる。急いで。踏み出して前に行こうとする。まとわりつく重 たい霧。わたしはすでに空に向かって進んでいるのだろうか。きつく紐を結んだ短 ブーツが霧にひろがってゆくようだ。ゆっくり角を曲がってきた車のライトがブーツ を照らし幼い娘のスカーフにあたる。少女の被った花柄模様のスカーフの毛羽立ちの 先端で水滴が輝く。彼女の頭上に朝の花園が浮かびあがる。長いまつ毛の少女が目を 閉じた。無花果を胸に抱えなおすと指先に温かさが伝わった。家に辿り着くと、玄関 先で管理人がお腹の膨れた野良猫にちぎったパンを投げていた。まだ夕刻ではないの         だから、こんにちは「メルハバ」。 果頂部から透明な汁が滲み出て無花果はべたついていた。袋から取り出し撫でるよう に洗って拭いて、重ねたペーパータオルの間に商品のように並べた。その皿をキッチ ンの片隅に置いた。夕食後食べようと思っていて忘れてしまった。その夜はすべてが 深い霧の底だった。眠りを湛えた薄い膜がどこからともなく破れ、そこからわたしの 手がひらひらのびて乳白色の霧の粒子をかきわけ何かをさがしだそうとした。そこに は無花果のやわらかな手に添う重みが残っているだけで、何にも触れるものはなかっ た。やがて胸のうえで手は縮みわたしは何を求めていたのかもわからなくなった。 眠りからそれてしまってひとりでに目がさめた。そのまま起きて、手に水を溜めて顔 を洗った。リビングのカーテンを開け、ボスポラス海峡の向こう岸の明かりをみよう としたが真っ暗だった。霧が海峡を埋めじっと動かないのだ。あかりをつけると海に 面した大きな窓ガラスのむこうに同じ部屋がありパジャマ姿のもうひとりのわたしが いた。窓のカーテンをすべて開け、もうひとりのわたしの動く姿を三階の窓から窓へ 追った。海べりまでの急な傾斜には森と民家が点在していた。わたしはそこに浮かん で動いた。食卓に頬杖ついてわたしたちはただみつめ合った。電話のベルが鳴って、 リビングに音があふれた。ふたりで電話に出た。「アロー」。日本からの電話は父の 死を伝えるものだった。時計を見た。午前四時。涙はやっぱり流れなかった。どこか で風が吹き抜けた。キッチンでお湯を沸かした。薬缶から音をたてて湯気が出続け た。湯気のむこうに無花果があった。ペーパータオルをめくるとすべての無花果に びっしり銀色の黴が生えていた。それはまるでふわふわの触手をもつ銀色の樹海だっ た。わたしたちは口をすぼめて樹海に風を送った。木々を綿毛のようにしならせ風が 渡ってゆく。遠くへ。しばらくみとれていたが、皿を返して一気に捨てた。父の肺の なかで無花果のように腐っていったもの。そう思ったら泣いてしまった。父のために 泣くことはないと思っていたのに、ごみ箱のペダルをふんだまま声にだして泣いた。 涙が無花果に落ちた。泣き顔のわたしたちがガラス越しに目があったとき、霧の裂け 間から朝陽があふれ向こう側でひとりのわたしが小さな光の尾をひいて消えた。
毛利珠江詩集 『ああべあなある』1992年 書肆山田刊