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   断片、「言いまちがい」、「言いそこない」
         小笠原鳥類

 伊藤聚『公会堂の階段に坐って』(書肆山田、1997)。1999年に亡くなったこの作者の、
生前最後の詩集である。
 最後から2番目に置かれた作品が「言いまちがい」(124〜135ページ)であり、最後に
置かれた作品が「言いそこない」(136〜145ページ)であることに注目できる(→補足1)。
言いまちがいも、言いそこないも、言葉が通常の状態から少しずれることによって、新鮮な
ものが発生する状況である。〈発話者〉や〈作者〉から少しずれた場所で言葉が実現されて
しまい、誰も知らなかった新鮮な言葉が現れてくる可能性がここで追求されている、という
ことが、題名によって示される。だが、ここで、題名は、単にその外部にあるものを示すだ
けのものではない。
 2つの題名の、類似と同時に存在する違いも、やはり新鮮なものを発生させるだろう。「言
いまちがい」や「言いそこない」といった語も、〈詩論〉として安全な場所に存在している
のではなく、ずれによって新鮮な語が発生する、危険な場所としての〈詩〉の一部にほかな
らないのである。すると、作品を安全な場所で操縦しようとする〈作者=詩論者〉あるいは
〈詩論〉が、言葉との危険な戦いをする〈作者=詩人〉あるいは〈詩〉と同一化する。その
時、読者がしなければならないのは、作品を安全な場所で安全に読む行為ではなさそうだ。
 この2つの作品に共通するのは、2行から10行の、詩の断片のようなものを並べて(1つ1つ
の断片は、区切りであることが明確な記号によって区切られている)、1つの作品が作られて
いる、ということだ。「言いまちがい」は20個の断片、「言いそこない」は21個の断片から
成る。さて、断片を並べることによって成立する1つの作品は、この詩集の後半に複数存在し
ている。後半、ということは重要である。この書物を最初から最後まで読むこと(は、実際
には実行はされないかもしれないが、しかし、書物に存在している最初から最後のページに
至る〈順番〉を完全に忘れ去りつつ書物を読むことは不可能だ)は、作品の解体、そして、
新しい作品形態の登場、を目撃することでもある(明確に区分された断片を並べたのではな
い、いわゆる普通の行分けの作品のいくつかについては、「鐘楼」創刊号の「最近の詩書・
詩誌から」で読みを試みた)。
 さて、「言いまちがい」と「言いそこない」から、まず最初の断片(それぞれ124〜125ペ
ージと136ページ)を引用する。

        #
 そのままショーケースの上から跳び
 ベッドへ着地(煙草の火が消えたくらいか――マイナス)
 夕陽に叢生していたけだものの毛が
 噴き、灰と散った
 石の敷布の上でまるはだかを整え
 四角い視野をしばらくぶりに磨き
 とり戻したものは相当量と見通したところ
 後脚が首にひっかかったらそれはそういうことにして
 脇腹あたりに埋めた思いは、まだあるのかないのか

 *
 眠る頭上を四脚が通過する
 そのたびにマンホールの鉄蓋ががたんとこたえる
 なににしても逃がしたのは失敗だった

 断片であることを示す記号が異なる、ということにまず注目した。「言いまちがい」では最
後まで、その上に7文字分の空白がある「#」が使用され、「言いそこない」では最後まで、
行の冒頭にある「*」が使用される。似た役割を持つものたちが、しかし異なる位置や形態を
所有する。同じ書物の中で同じ役割を持つ記号は統一したい、という願望あるいは圧力からの
ずれであるだろう。
 「言いまちがい」の最初の断片は、「そのまま」で始まる。作品の存在するはずの部分が欠
如(→補足2)して、その欠如を感じさせる部分から始まっている。言い換えれば、本来は作品
の冒頭になるはずがないと思われる部分から始まる。それも1つの「言いまちがい」である。ま
た、「言いそこない」の最初の断片には、「逃がしたのは失敗だった」とあるが、何を逃がし
たのか示される前にそのような言葉が現れてしまう、というのは意外であり、やはりここでも
、本来は作品の冒頭になるはずがない部分から作品が始まっている。それも1つの「言いそこな
い」である。
 ここで言えることは、これらは、最初から最後まで1本の流れとなっている作品であるだけで
はなく、複数の読みの流れが存在する作品である、ということである。断片を読む順番が何種類
も存在することになる。複数の流れが存在することにより、1本の線だけによっては示されない、
もっと広がりのある場所が提示される。もちろん、流れはどこまでも自由に解放されるのではな
く、未知のものを効果的に提示するための制限も、1つ1つの断片がある程度の長さや特異性を所
有していることによってなされていると言える。言いまちがいや言いそこないによって出現する
言葉は、本来は、言葉を1本の流れの中に押し込める目的のために拒絶されて変更されてしまうが、
ここでは、変更される前の、出現した言葉がそのまま書かれ、複数の流れが作品に定着されてい
るのだ。
 それから、「言いまちがい」の最初の断片では、何が「跳び」、「着地」し、「整え」、「磨
き」、「とり戻し」、「見通し」たのか。主語が省略され、そして、省略された主語によって示
され
るであろう登場しているものは、人間のようでもあり、動物のようでもあり(「けだものの毛」)
、機械のようでもある(「四角い視野」――カメラのような、何かに対して「それはそういうも
のであることにして」しまうものの視野。現れたもの、あるいは現れた言葉を、分析しわかりや
すくする以前に、まず記録してしまうものの視野、であるだろう)。この作品が書かれることに
よって初めて存在するものや出来事がここで出現している。
 また、「言いそこない」の最初では、主語や目的語の省略がある。そのため、逃げたものと逃
げられたものとの関係が曖昧である。これらの言葉が書かれることによって初めて存在する事態
がここで提示されている。
 さまざまなものが混ぜ合わせられて書かれ(複数の流れが同時に存在している)、これらの言
葉によって初めて存在する、ものや出来事が、これらの作品で提示されているのだ。そして、そ
のような提示されるものや出来事を体験すること、それが伊藤聚の作品を読むことであるとも言
える。
 それから、「言いまちがい」と「言いそこない」の、それぞれ2番目の断片を引用する(それぞ
れ125ページ、136ページ)。

        #
 毛布の皺が描く絵図は見にくく
 隣室の予報は鍋の油煙にけぶっていて
 ステンドグラスの割れ目には挟まった鳥がいて
 そのままで世界が水滴型にたれていくとき
 これでもよいからと固定した寝起きがぶつぶつ言いだす
 爪先と胸が視点で、あとどこかもうひとつ
 両手が握ったフォークの支えで浮くというのは
 誰かをつっついているということ
 夜明けに洗濯物をとりこむ
 畳まないまま再び眠る

 *
 あんたが屋根で喚いていたひとか
 山と積んだ賽の目切りの世界 それが
 車のうしろで零れはじめたとか

 叫び疲れてひくつく姿は擬餌みたいだ
 かなり遠くで逡巡していたものが引きかえして
 なんとか積荷を元通りにするかも知れないよ

 最初の断片と明確に連続することによって1つの既知の文脈が形成される、ということはない。
また、最初の断片が提示する、何が何をしているのか、という謎を解き、既知の文脈が形成して
いくものとして、その後の断片が機能する、というのでもないだろう。これらの作品が現れる前
には存在しなかった事態が次々に起こる。
 両方の作品に「世界」という語が登場する。ここで提示される世界は、それを体験した者によ
って秩序を与えられ1つの文脈に閉じ込められたものではなく、「そのままで」「水滴型にたれて
いく」ものであり、そして、それは「これでもよい」のであり、そのままで提示されていく。世
界の一部である「洗濯物」も、秩序が与えられるのではなく、「とりこ」んで、「畳まない」。
また、世界は、「賽の目切り」にされ、ばらばらになってしまっている。既知の世界が分解する
ことを受け入れることができず、「喚いてい」て「叫び疲れてひくつく」、という行為はここで
はなされない、ということが言われている。そして、世界の提示は、それについて〈言われてい
る〉だけでなく、〈実践されている〉。世界を描写することは、同時に、世界を形成していくこ
とに他ならない。
 さて、作品が断片の群れであることによって、さまざまな要素が断片として入ってくることが
できる。「言いまちがい」の9番目の断片(129ページ)。

        #
 散らばった破片は破片のスタイルしか持てない どこかと
 どこかで繋がるはずの曲面は 破砕前の壷にはなかったカ
 ーブであり ぴたりと一致するはずの相手もないのではな
 いのだろうけれど ねじれそのものを曝して ここでは破
 片でいようとする 接着剤の入り込む隙間をいくらでも見
 せつけながら

 「言いまちがい」によって「破砕」されてしまった文脈。それは修復されることも可能なのかも
しれないが、しかし、「破片」であることによって初めて提示されるものもある。それは、文脈の
、断面であり「ねじれ」であると言える。この作品は、そのような破片を破片であるままで提示し
た。そして、破片と破片との「ぴたりと一致する」接続だけでなく、「隙間」を「接着剤」で埋め
たような、普通でない接続による普通でない文脈の形成が「いくらでも」可能であるような状態に
なっている。……ということが、ここで言われている。
 この断片は、行分けで書かれないことによって、他の断片と区別されている。「破片」について
書かれた部分であり、それゆえに、「破片」の群れであるこの作品そのものについて語っている部
分として読むのが妥当であるが、しかし、この部分もこの作品を構成する断片の1つであり、「破片
」である。「破片」について語りつつ、「破片」の〈実践〉でもある部分。
 このような、作品全体の意図を明示する部分が作品の中に明確に独立して存在する、という事態
は、断片を並べていく書き方をすることによって初めて可能になった、ということが言える。作品
に関する断片的な思考(それもまた、「破片」の〈実践〉である)と、その実践としての断片とが
共存して並んでいる作品。作品を書く際に発生した言葉を全て並べた、と読むことができる。さま
ざまな言葉が発生し、その中から特定の文脈のものだけを選んで書く、ということをしない、とい
うことを徹底することによって、並べられた断片、という形態が選ばれるのだ。だから、〈この作
品はどのような作品なのか〉という思考の言葉も、作品から排除されない。作品に関わる〈理論〉
を作品に登場させることが、作品の〈実践〉性を弱めていない、という点に注目できる。作品の外
部と内部との境界線が動き、作品が広がると同時に、1つの作品である。
 作品に関して言及する断片は、「言いそこない」には、例えば次のようなものがある(15番目の
断片、142ページ)。

 *
 青空がアイスキューブ状に分離し まぶしい
 その一片を喉に流しこむことができそうだ
 凍った言葉がとけて流れだすかもしれない

 「青空」が多様に「分離」する。1つのものであると思われていたものが、さまざまに分離し、そ
の「一片」である断片と出会うことによって、自分の中で「凍っ」ていた、存在し得ることが知られ
ていなかった言葉が、提示されてくる「かもしれない」。そして、「言いそこない」という題名は、
「言いまちがい」と比較すると、言われなかった言葉をより重視したものである。「言いまちがい」
に登場する「破砕前の壷」は、言いまちがいの前に存在していた、ある1つの完結した文脈であるが
、「言いそこない」に登場する「凍った言葉」は、言いそこなわれた言葉、言われなかった言葉であ
る(最初の断片の「逃がしたのは失敗だった」が思い出せる)。言いまちがえることによって新しい
言語を作ることと、言いそこなわれた言葉を救出すること。それらは両方とも、断片を並べた作品に
よって、複数の文脈を提示することによって実現が目指されている。それまで存在しなかったものを
提示することが、実は、作者の中にあったものの提示と同じ手法で提示される、というより、作者の
中にある未知なものの提示として、両方の作品が機能している。この2つの作品ぁw)?,uェ並べられて提
示されることによって、詩の開始される場所
がどこであるか、ということについて、新鮮な〈解答=問い〉が提示されているのだ。作者も、そし
て読者も、未知なものを含むものであることが明らかになる。
 もちろん、言うまでもないことだが、これらの作品においては特に、言葉そして作品について言及
している部分は、それを読むと作品の他の部分への接近がより容易になる部分としても機能する(と
同時に、前述したように、作品の〈実践〉性を弱めてはいない)が、作品の中で特に重要である部分、
というわけではない。特に重要な部分を読み取ろうとすることは、この作品を1つの文脈に閉じ込めよ
うとすることであるが、しかし、異なる文脈を提示するために断片を並べて書かれた作品を読むため
にはそれだけでは十分ではあり得ない。これらの作品のあらゆる部分で次々に登場する未知の事態を
体験することが、この作品を読むことの中心であるだろう。例えば、「言いそこない」から適当に引
用すると(137〜138ページ)、

 *
 椅子が壁ぎわへ片づけられた
 コロシアムのレースから弾けてとびこんだものたちがカーブを切る
 ガラスに頬をはりつけて見とれてから
 誰でもいい サインしてもらおう

 *
 潮騒に放出して 眠りに添加して
 脚がやけにたくさんあるランナーがまだ余っている
 夜中 ドアの外側にたかるコオロギに渡したものかどうか

 *
 思い止まって今夜は メタリックの数字入りの背中で寝る
 (数表の上に寝そべるゼリーでいたい)のがばれてしまった

 どの断片でも、そこで初めて提示される出来事が提示される。そして、未知の生命体への変身が
示される。作品自体が未知の生命体、あるいは未知の事件として機能しようとしているのだ。通常
の言語を語ろうとして誤ることや失敗することによって、以上で見てきたような、もう1つの真実、
もう1つの成功、もう1つの言語を手に入れることがここで試みられている。

(補足1)伊藤聚の「言いまちがい」「言いそこない」については、すでに守中高明「口語/自由
/詩について」(『公会堂の階段に坐って』栞)、岩成達也「伊藤聚についての小さい覚書き」
New感情別冊『伊藤聚読本』、2000、102〜106ページ)などで言及されている。その他、『伊藤聚
読本』や、「るしおる」36号(書肆山田、1999)などに載ったさまざまな人によるいくつかの文章
を参考にした。

(補足2)伊藤聚の詩の特長の1つとして挙げられる〈欠如〉〈省略〉(それはもちろん、〈断片性〉
とも関わる)。それは、現われ出ようとしている、まだ固定していない(出現の衝撃を失っていな
い)言葉をそのまま定着しようとすることによって発生する。それは同時に、リズミカルで楽しく、
同時に何かが欠けた奇妙な雰囲気(寂しさ? 悲しみ?)を漂わせるものでもある。また、伊藤聚
の作品をリズミカルにしている要素として、〈親しみ〉を感じさせるような言い方(「つっついて
いる」「かも知れないよ」「サインしてもらおう」など)もあるだろうが、それが奇妙な雰囲気と
結びついて、未知と既知とが結びついた不気味さが発生する。どこかで体験したような、でも決し
て体験したことのないような、そのような事件として〈詩〉が現れる。……しかし、このように書
いて、伊藤聚の詩の魅力を全て語り尽くせたとは思えない。複雑な作品が持つ、残された/これか
ら発見されるだろう大量の問い(例えば、行分けの仕方や言葉の並べ方が感じさせる〈正確さ〉と
いうのがあると私は思うのだが、どうなのだろう)とともに、私は伊藤聚の詩を読み続けるだろう
し、書肆山田から刊行される予定の『伊藤聚詩集成』は極めて重要であるだろう。

〔詩誌「鐘楼」2号(2001年2月)に発表した「最近の詩書・詩誌から――『公会堂の階段に坐って』
」を改稿しました〕