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足があるということ 「ARROWHOTEL」「金魚」についての覚え書き 杉澤 加奈子 ふだんみなさんは忘れているかもしれませんが、私たち(たち、と言っておき ましょう)には足があります。靴を履くときやラッシュ時の電車で足を踏まれた とき、それからすばらしくきれいな足の人を見つけて自分のと何となく見比べて しまうとき、ふいに「足の存在」を思い出すことがあります。それ以外は主に「 上半身人間」として生きていくことがままあるのでした。 ところで魚という生物には痛覚がないと申します。だから魚肉に包丁を入れる ときや、はらわたを取ったりするときに、ごめんね、と思ったり、さぞ痛かろう と魚の身の上を思いやったりしなくてもよいのです。そんな魚には足がなく、移 動するときは(だいたいにおいて水の中ですから)あつらえられた各種ひれを動 かしてつきすすみます。なかなか便利なものです。 ところで私は車の運転がまったく得意ではありません。メルロポンティや市川 浩さんが説いている本によると車の運転には「身体性の拡大」が無意識のうちに なされているのです。だから狭い道を通るときは、車幅と自分の身体の意識がぴ ったり一致していて、通るのは車なのに思わず自分が身を縮めたりするのだそう です。しかし私は車と私のからだの意識がまったく一致していませんので、おそ ろしく狭い道を自分のからだの感覚だけで進み通そうとして助手席の教官に何度 もブレーキを踏まれました。私によると、私の運転する車はちょうど私のからだ の幅くらいの、ごくしょぼくれた乗り物です。 さて、北爪満喜さんの詩「ARROWHOTEL」と「金魚」はどちらも私が 非常に好きな詩です。二つの詩とも魚が出てくること(一方は金魚ですが)が共 通なのですが、もう一つ共通することは「見る」ものと「見られる」ものの視線 が交錯しているという点です。以下に非常に抽象的な覚え書きを綴りますが、あ まりお気になさいませんよう。 「ARROWHOTEL」の「私」は「スパンコールの魚」の衣装を着て、「見 せ物小屋」の舞台に立ちます。 胸をきつくしめつけたスパンコールを ぴったりと着て 酸素がたりなくなってくる軽さで舞台へすべりでた するり ふわり くるり ゆらゆら スパンコールの魚になり 背中をゆらし泳ぎだす 「私」は「見せ物」だから、「たくさんの目」を縫い付けて、ただ「見られる」 ための存在であるはずなのに、「見せ物小屋の深海を」「またたきながら渦巻い ていく」「私」を冷静に見据える、世界に溶け込んでいる存在の「私」がいます 。「私」は足を持つ人間として「階段」を上り下りし、また足を持たない魚の「 私」も「階段」を上り下りしています。この混沌と言いましょうか、すべて世界 中に行き渡っている「私」という存在を読者である方の「私」などは感じて、め まいを起こしたりします。そして北爪さんの世界に飲み込まれ渦を巻きながら落 下しているときに、ふと現実への橋渡しになっている場所がまたこの「階段」で ありましょう。読者である「私」も階段を上り下りし「見せ物小屋」に辿り着き 、気がつくとふたたび戻ってきているのは「階段」。筋肉をぎくぎく動かして上 へ下へと向かっていく足たちが見え隠れします。魚も足はありませんが、つるり ぬらりと段差を滑り降りていくのが見えますよ。 あかるい午後、「金魚」という詩の中の「私」が散歩に出かけるので、読者の 「私」もついて行ってみることにします。詩の中の「私」は「繁華街」へやって きます。 うつむいて歩くと肩や肘から みえないベールが破れだし うすく襞をよせながら 後ろへ引き延ばされていく ショーウインドウのガラスからふる 紅く滲むネオンに染まると かすかにぬるい風をはらみ うすい襞はゆらゆらと 夜のなかに浮きあがった 「金魚」 誰かがそう呼んだ 埃の匂いのたちこめる汚れた舗道の端にいた 誰 みえるの 私のベール 片足を後ろの壁につけ 背にしたガラスを見上げると 白い石膏で造られた若い聖者の像だった 何ということでしょう。「見るための」ショーウインドウに飾られた「若い聖者 の像」から「見られている」なんて。またもやめまいがします。どちらがふだん 見ているほうで見られているほうだったか、と考えをめぐらせます。この感覚の 心地よさに頭をぼんやりさせながら思うには、北爪さんの詩の中には無数の「私 」の意識があって、世界に行き届いていて密着してもいて、それら全部の「私」 がこちらをいっせいに見ているのだと。ちょっとびくびくしました。「見られて いる」もののなかに「見ている」私も混じっていると知りながら、「見せ物小屋 」にやってきたり、ショーウインドウを見上げたりしているのです。あちこちに ちらばった「私」の意識があたりいちめんにちらばっているのです。世界そのも のに「私」の皮膚感覚が行き届いているのです。そう考えると、読者である「私 」なども北爪さんの詩の世界の一装置であるかのように思えてきます。それら無 数の「私」たちは、「金魚」の「私」のようにかすかに分裂して襞をこしらえ、 とりまく世界の中を逆に取り込んで生きているのでした。もちろん読んでいる側 の「私」は一緒にのこのこ迷い込んでいるわけですから、あるときは水で充満し た世界が押し寄せてきて溺死させられ、あるときは布の形に薄く伸ばされた世界 に巻き取られ、それでもうっとりしながら一緒に沈んだり浮上したりするのでし た。 薄暗い夜のぬるい手触りや、よく晴れた日の疑い深さを忘れているような日々 に、ときおり思い出したように北爪さんの詩を読み直すことがあります。「私」 の皮膚になるために。「私」と世界を思い出すために、ふたたび階段を上ってい くのです。
メール抄【北爪さんの詩で気になっているのは、「触覚」で、それは言わば世界への「触覚」とでも言うべきものです。単純に 皮膚感覚の問題も絡んでいると思います。(略)自分がふだん世界を「見ている」感じと、誰かに「見られている」感じと、 「見られている」自分を「見ている」そのあわいみたいな感覚がおもしろいですね。】