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2005年 10月分

[美ら海水族館の巨大な水槽にはクジラやマンタが泳ぐ]




 飛行船のようなクジラやマンタやエイが滑るように回遊する。
まるで海の中に立っているような感じで見入ってしまう。ガラスに当てた掌の
すぐそこをかすめてゆく巨大なマンタのマントのような背中に乗りたくなって
しまう。おかしかったのは、銀色に輝くカツオの群が、いっせいに口を開けた
まま泳いでいる姿。餌を食べているところなのだろうけれど無数の口があんぐり
と開いたまま回遊していて、どうしても可笑しくなる。ここは修学旅行の生徒
達がつぎつぎ集団で来るので、歓声や携帯で写真を撮る列が耐えない。とても
賑やかだ。



[名護市の朝]

 朝、ホテルから歩いてこんなにきれいな海を散歩できた。
 というと、素敵なのだけれど、ころびました。おでこにコブ。向こうの石のところで
海草に足を滑らせました。薬局で冷えぴたを買おうと思ってタクシーに乗ったら、と
ても親切な運転手さんに病院へ連れてゆかれました。オキナワの病院というものに、
初めてかかりました。大丈夫でしょう。と先生に優しく言ってもらうとほっとしました。
結局コブを消毒しただけでした。湿布を貼ってはいけない、ということです。雑菌が増
えて入っていまうことがあるということです。

[ネオパークオキナワ・鳥たちの間を歩く]

 近過ぎて、嘴の鋭さにたじろぎました。鮮やかなオレンジ色の鳥が華やかに
その辺を歩いていました。不思議なところに迷い込んでしまったようでくらくら。
そんななか、檻のなかで隠れるようにしていたヤンバルクイナが、いたいけで
可愛いらしかった。

[斎場御獄]

10月30日
 斎場御獄は観光客の私でも何か神聖なものを感じる。
那覇は30度の暑さだった。それでもこの神聖な祈りの、このスポットだけは
ひんやりと涼しかった。しばらく岩に手を当ててみる。岩はほのかに優しく手を
支え、暖かく心を落ち着かせる。この三角のドームを潜って左を向くと、木々の
間から久高島が見える。ひろやかな平たい神の島。それがこちらを向いている。
その光景を目にしたら、神がこちらへ訪れるということが、風の流れのように自然
に納得できた。しばらく高貴な「のろ」の祈り場に身を置くことができ、素晴らし
体験をさせてもらった。



[welcome!]

10月24日
 たくさんの「ようこそ!」が並んでいる渋谷駅。きょうは久しぶりに
バスに乗って渋谷までゆく。地下を通って行くのとぜんぜん違うと思った。
地上の道路で明るい街をみながら渋谷へ近づいてゆくと、繋がっているの
だということを強く実感する。どこか緊張がほぐれる。時間もかかるけれど
抽象的な地下の移動とは違った良さがあると思った。

ギャラリー・ル・デコの鈴木志郎康写真展「MY多摩美上野毛」を見に行く。
同時に石井茂写真展「Light Space」が開催されている。ギャラリーへ着くと
作品を展示している様子なので、おやっと思ったが、鈴木志郎康さんがどうぞ
入ってと言ってくださった。
 魚眼レンズの中には多摩美で鈴木志郎康さんが教えている生徒が笑っている。
何かしているところだったり、通りかかったところだったりする。みな動いている。
キャンバスで学んだり、創りだしている顔がみな明るい。これは写真を撮った
鈴木先生と生徒との関係が明るいのだと思った。魚眼レンズの写真で変形して
いる映像のなかで、生きてる人が印象を飛び出させてくる。あの強い感じが、
生徒との、創作に拘わるかけがえのない個の関係を撮るのにぴったりなのだと、
思えてきた。そして、キャンパスの木の裸の枝が、校舎の壁に繊細な影を落として
いる一枚がとても良かった。
 石井茂さんの写真では、水の感じがどこか記憶を刺激する。いつか見たことが
あるような感覚がざわざわする。手や足や体の一部が、どこか生活している体の
懐かしさのようなものを感じさせる。特に4枚一組の日本の母子像と、足首から下
のものや膝から下の足しかない欠けて失われた像の歩いているトルコの彫像がとて
も面白かった。
 
 読みたいと思っていた鈴木志郎康さんの「詩の実質」が「るしおる」に載って
いると伺い、きょう注文した。


[足元にいた]

10月20日
 久しぶりに晴れた。歩いていてふと足元をみると、雨のとき道まで
降りていたのか、カタツムリが道路の縁の石に貼り付いていた。乾いて
しまうとあまり動けないのだろうか。犬などに見つからないといいなと
思う。カタツムリはやはりどこか懐かしい。

 ゴダールの新作の映画「アワーミュージック」はやはり素晴らしい。
映像が多層なイメージを含み、瑞々しく、ドキュメンタリーにちかく、そこには文学も、
批評も、希望も、苦悩も同時に映されている。複雑なのに透明で、現実の複雑さと
現実に混在する非現実への跳躍もすっと入って、時間とはこのようなものだという
質感がリアルなのだった。
戦争の映像を集めた地獄編、サラエボの街で撮られたものでサラエボで講演をする
ゴダールと学生たちの煉獄篇、平和のために殉教した女子学生オルガがゆく森の水辺
の天国。三つの部分からなる。膨大な引用と映像からやってくるものはとても
受け止め切れない。でも、体験するように言葉や水辺が残る。

「人間たちは、お互いを夢中で殺し合う。生存者がいるだけでも驚きだ」
「顔が『汝、殺すなかれ』の表象なら、石は何を表すのか」
「イメージは喜びだが、かたわらには無がある。無がなければ
イメージの力は表現されない」


[とても雲がきもちよく見えた]

10月13日
 秋の雲というのがとういうものかなんてわからないけれど、とても雲が気持ち
よく見えた。私よりも雲のほうが気持ちよさそうに。

 光を浴びて居眠りできたら気持ちいいだろう。辻和人さんの新詩集『息の真似事』には、
「光合成」という詩があって、
そこでは、公園のベンチでおじいさんが

 さんさんと降り注ぐ陽光をあびて
 軽く開けた口から気持ちよさそうに涎を流し、昼寝を楽しんでいる
 おじいさん、「いいことしてますね」
 植物か葉を広げて養分をつくるように
 おじいさんもベンチで体を広げて「楽しい時間」をムクムク作り出しているぞ
 生きるために必要不可欠な、放心状態

になっている。
たぶん、そうなのだ。生きるために切実なことは、気付かれないけれど、こうした暖かな
放心。そんな些細な、でもすへての整いがないと手にいれることのできないひととき。
物ではなく、現場でもなく、あらゆることが出逢い、そこに整い、詩に
書きたくなるような特別の状態がうまれる。この詩ではおじいさんは

 頑張って無意識を維持している
 あ、そよ風が吹いて、白髪をゆらしたよ
 あ、ハエが飛んできて、額に止まったよ
 頑張れ、おじいさん
 意識に負けるな
 意識に負けるな

なのだ。ここでの意識は日常の中で働かせる意識。我に返れば失われてしまう。
あらゆることの出逢い。
辻さんの詩集にはそのことが様々に変奏されている。詩「生前」はすべての出逢いから、
部屋の汚れた鏡に映る「それはぼくの生前の姿の一つであり」歯を磨き終われば整いは
破れ、くっきりと焦点のあてられた一瞬の真実はさらさら消える。詩「きれい」は雨の日のすべて
の出逢いが泥んこになる親子に集まり、そこで反射する「ぼくの体は、/子孫を遺さない、
きれいな体」という詩の言葉。ここでは、整いが、詩の言葉として特別なものになっている。
その他の意味はない。

すべての整いがないと手にいれることのできない、あること、が「息の真似事」
そんなふうに読んだ。


[わからない、進もう]


10月10日


詩  わからない、進もう


いままでに一番おいしかったものはなんですか?
考えたことのない問いに
しんとしずんでゆくワタシを、小舟のような葉が受け止める。
小舟のように思えたものはどこかの店のカウンターに置かれている緑色の葉で、
なにか重い荷を乗せている。
あっこれ葉蘭だ、葉蘭にのった食べ物がすっと現れた。
おいしいというならこれだ、
と、
おすしと言っていまうけれど、重いというのが、気になって、
力が抜けなくなってしまった。
気になって、なんだかすっきりしない。

踏みしめていると足が痺れて、歩きだしたくなっていた。
乾いた街路を歩いてゆく。

ワタシは歩いていたはずなのに、いつしか眠っているのだった。
眠りのなかで、昼のあいだ、消えていた店の小舟が現れ、
苦しそうに首を尖らせ、どこかへ漕ぎ出したいと震える

やっぱり、小舟も進みたい?
動かない店のテーブルから、進みたい、と尖り続ける小舟だけをくり抜いて
海の音が聞こえてくる、かすかな記憶へそっと放した。
すると向かえに来た波が、きらきらと微かに光をこぼし、
緑の舟をのせながら、どこかへ向かっているのだった。
思わぬ速さの潮の流れに流されてゆくと、
ずいぶん流された遠いところへ打ち上げられて、朝だった。
砂浜に打ち上げられていた。

朝だった。
浜辺はいい匂い。
そうだここは独りの旅で歩いた北の砂浜だ。
漁師さんたちが七輪で二枚貝を焼いていて、あてどなく歩く独りのワタシを呼びとめて
食べさせてくれた砂浜。あのときの味は忘れられない。
熱い貝の身が柔らかく磯の香りで胸を包んで
おいしくて、とても暖かかった。見知らぬ漁師の笑顔がまじって、忘れられないおいしさだった。
思いだした。
軽くなる。

そう、思い出せば、軽くなる。
重く沈んだ想いでも、思い出して、文字に代え、
ワタシの外へ置いてしまえば、

だから、尖ってしまってもいい。
覆うものを切り裂いて、辿り着くために、尖っても、
痛くてもいい、割れて、進もう



[講義の風景]

上、はアハ・センテンスを作ってください、と言われて私が発表したもの。
いちど読んでも意味が解らないが、ヒントをきくと、あぁー!と思うもの。
茂木さんが発表をどんどんパソコンに打ってゆく。

茂木健一郎さんのクオリア日記の10月10日、アハ・センテンスのところで紹介して頂きました

下、手渡しした私の詩集『青い影 緑の光』を読む茂木健一郎さん


10月10日
 昨日、脳科学者茂木健一郎さんの講義があった。下北沢タウンホール。
「未来からの教室」表現リテラシー開発研究所主催。
答案を書いたり、手を挙げて指名されたり、立ってくださいと立たされたり、
久しぶりに授業の体験をして新鮮だった。
印象に残った言葉。
脳の方程式、の話では

→   →
行動  報酬       
  ←
  強化

強化学習は教師ナシ学習
そこでは、何をうれしいと思うか。
うれしさのどういう上流域を持てるか。
自分で作っていけるか。
つまりリワードするとき上流に分岐が支流のようにたくさんできるが
その豊かさが脳の文化となる、ということ。
つまり「うれしいことがあると脳が繋ぎ変わる」  これはすごい言葉だとおもった。
そして「正解はない」なのだった。
そういうことが創造性を築いてゆくこととなる。

ど忘れの効用では、この言葉。
「ペンローズ:創造することは思い出すことに似ている」
解らない、から解る状態へのジャンプが閃きということに繋がる。

[透き通る季節]

10月9日
 このごろ晴れた日には光の感じが澄んでいるように見える。夏とは光の感じが
違うなと思う。

 10月6日、毎日新聞の夕刊の「詩歌の現在」で酒井佐忠氏が私の詩集『青い影 緑の光』
を取り上げてくださったようです。私はまだ見ておりませんが、知らせていただきました。


 『青い影 緑の光』の感想を聞かせてくださった皆様、ほんとうにありがとうございます。
今度の試みについて、あたらしい気持ちになれた、「こういう詩、読んだことなかった!」
、イメージがステレオタイプでなくなりべつの読み方になった、というような感想を多く
いただきました。詩といえるものになるかどうかと怖い気持ちがあったけれど、「ことばにしか
できないこと、詩にしか語れないことが、ここに実現されている」というお手紙も頂き、深く
勇気づけられました。



[ガールズ]

10月5日
 この間多摩川の河原でみた夕日。何年か前までは花火大会を、あのホームの上から
見物できた。学校帰りの少女たちはとても仲良しだ。私がカメラで撮っていると、彼女
たちも携帯のカメラで川と一緒に記念撮影を始めた。互いにポーズを作って撮り合って
いるのがなんとも楽しそうで、わたしまでうれしくなった。
 今日は、雨降りだった。神戸屋で私は傘の柄を、柄のアーチより太い手摺りにかけていたら、
女の子の靴が触れて倒れてしまた。すると、仲間の男の子が傘を拾って、ちょうど掛かりや
すいところへかけ直してくれた。私か笑ってどうも、というジェスチャーをすると、いやそれほど、
というジェスチャーを返してくれた。傘を倒してしまった女の子も笑っていた。どこの国の
子達だろう、感じが良くて、それまで重かった気分が軽くなった。
 

[きっちり]

10月3日
 ここまでする必要があるのかなぁ。ブルーシート。
 すごく目立って、これなら絶対つまずかないと思う。

 ドトールに入っていたときだった。隣りの女の子が、赤い縮緬のポーチをだした。白い兎が
跳ねている柄の。あっと思った。私も今、同じポーチを持っている、と。京都のおみやげでもらった
ものだった。知らない人なのに、急に親しみが湧いてきて、話かけそうになった。でもやめた。