今月へ

2005年2月分

[服のなかは花がいっぱい]


2月26日
 知らない女の人のコートに目が吸いよせられた。重そうなカバンの置いてある
椅子に掛けられたコートの裏地には花がたくさん咲いていた。それだけなのに、
いろいろなことが押し寄せてくる。

 知りあってから大分へ転勤になった石本知子さんから、葉書サイズの紙に手書きされた詩、
10枚の作品『148×100に澄む』が送られてきた。これは昨年ギャラリーに展示した
作品ということだ。石本さんは手書きの詩をときどき展示して発表しているようだ。
石本さん。とてもきれいです。ざらりとした厚みのあるアイボリーの紙の上に紺の手書き
の言葉が大切に選ばれ、丁寧に心を込めて書かれていて、いいな、と思いました。
ちいさな言葉たちだけど、胸の底から掬いあげた感じがします。
 言葉だけになりますが、いいなと思った一枚を紹介させてくださいね。


鏡を渡る  石本知子  2005.2.8.


   夢の森の
   鏡を渡る

  プレパラートの
  まじりけのない
 いのち きみどり色
  カレードスコープ 
   のぞきこんで
  つやつやの 赤色

 最初の クリスマス
  ツリーのてっぺんに
 手づくり星 金色

    鏡は
   私が見た色
  すべてをたたえて
  ずっとここにいた 

私は 生まれていたんだ

 向こうの岸に着いたら

  きれいな言葉を

 思い出しに 行こう



 夢のなかで、森にいて、そこに鏡があった。あるいは
鏡のように何かが映るところがあった。それに見入って
きれいな色や思い出を見出すところが、澄んでいる感じ
がしてよかったです。そして鏡が映すのをみて、私がずっと
生きてきたあいだのことを鏡が反射するように映し返して
答えてくれるのを知り「鏡は 私が見た色 すべて
をたたえて ずっとここにいた」と受け止め、発見する
ところがよかったです。そして「私は 生まれていたんだ」
口にしたくなる。生まれていたなんて、あたりまえのこと
だけれど、はっきりこう思い直す、ということは特別なこ
と。この言葉を書いたことで、支えられるものがきっとある、
というふうに思いました。石本さん、これからも、詩であるか
どうかなど考え込まずに、言葉を書いてください。


[みずいろの反射]

2月24日
 椿の花はもはや5分咲き。鳥たちがおいしいおいしいと言うようにはなびらを引き
抜いて食べている。食べられるまえに撮っておこう。高い枝を背伸びして撮る。

 中村葉子さんの詩集『泣くと本当に涙がでる』ポプラ社を読む。
体が送る日々が中村さんに言葉を書かせた。ラインを引くようなくっきりした言葉は
日々の実感やとつとつと考えたこと。それが、ときにつよいおかしみになってゆくと
きもあるけれど、詩を書く中村さんは自分でそれに気がついている。書くことは外へ
繋がろうとする意志だから、体が、外へゆこうと、引きこもりだった中村さんに言葉
を書かせたのかも知れない。

 ひとでなし 抄   中村葉子

ふと
後ろを振り返ると
そこにはなにもありませんでした
私は正面を見据えて生きることにしました
私は毎週スニーカーを履いて
中野駅ガード下に立ち
自作の詩を
道行く人に配っていました
そんなある日
「人が怖いのです」
という人にであったのです

その人は
「人が怖い」と言うとすぐに
いなくなってしまいました
私は泣きました
(人の私を泣いたのです)
そして
夜の舗道には小さな唇が落ちていました

人が怖いその人は
人の私も
人の自分も怖くなったので
唇だけになったのです

(略)

  「ドアというドアは全て閉め切って
  ずっとへやに閉じこもっていたんです
  私はそこで人のいない世界を夢見ました
  人のいない世界というものは
  どこまで行ってもむらさきがかった金色なのです
  しかし人のいない世界を夢見たはずなのに
  遠く人のいない世界を夢見る自分だけは
  どうしても
  けすことができなかった…………………」

ふと
後ろを振り返ると
そこには
中野駅北口の
改札が明るすぎました
私は何もなかったことにしようと思いました
  

 実際にあったことなのだろう。そこをべースにして歪みを確認しているから、
幻をもひきつれて、詩を生きることになっている。読んでいて、とても、ひりひりする。
言葉との距離もあり、きわどいバランスでバランスがとれないことを書くセンスがいい。
中村さんの詩の言葉は自分をほうりだすような真っ直ぐさに満ちている。私達は日々、
ほうりださないような身構えに苦心していたりするから、中村さんの言葉は不意打ちのよに
やってきて、あっと思わせられる。中村さんの詩集ぜんたいから、詩はいろいろな姿で生き
られるのだから未来がある、と私は思えた。



 ・2月28日からはガーディアン・ガーデンで元木みゆきさんの
「学籍番号011145」がはじまる。見にゆきたい。まったくびっくりの自由さを
デジタル写真で伝えてくれるだろう。


[おはよう と また来るね]


2月22日
 きょうは母のとこへゆく。買って送ったブラウスのサイズが合わなかったのだ。
母から電話をもらって自分の失敗に気付く。もっとよく確認すれば良かった。晴れ
ていて風もなかったので車椅子を押して買い物に連れ出す。このところ新しく開店
する店がみな広い間口で車椅子が入りやすいので助かっている。きょうは開店した
ばかりのドラッグストアーへいってみた。親切に欲しいものを棚から持ってきてく
れたり、どれにしようか迷う母につき合っていろいろ品物を出してきてくれたり、
あまり移動しなくてもよかった。棚と棚の間をゆくのは通れるかどうかが問題で
なかなか気を使う。それからスーパーへもゆき、みかんとドロップを買う。スー
パーはもう移動ルートが決まっている。通れる幅で欲しい物があるところを順番に
まわるから慣れたものなのだ。いろいろ買って帰るとき、路地の豆屋さんで雛あられ
が白、黄、ピンク、緑などのふわっとした色がきれいに袋に入っていたので、一袋
買って母にあげる。雛祭りの季節だから部屋に飾ったら可愛い。実はそういった
ことは私は思い浮かばないのだけど、ホームの玄関ホールに、ジャーンという感じ
で大きな雛壇が飾られていて、知らされたのだった。
 
 ひさしぶりに出た遠目景の新作『幻影博覧会1』(幻冬舎コミックス)を読む。
探偵物語なのだけど、探偵事務所にはふしぎな少女の助手がいて、その感じがいい。
少女の表情の繊細なところが描かれている絵は雰囲気があって気に入っている。
そして少女の用心棒のような大きな犬がいて、その犬との信頼感が動物を飼っている
ときの自然さででていて、私は好き。
 

[すくい取れるような光]

2月18日
 枝枝の間をあふれている光は両手を差し入れて結んだら、掌にすくい取れるように
うるっとしていた。乾いた空気の中で喉が痛む。そしてもっと乾いてひりひりしている
ところがあるけれど、それがどこなのか言い当てられない。夢のかでちぐはぐなのが
誇張されるのか、液体のようなバスで山道を登って走っていた。はらはらするほどの崖
の淵をうまく滑りながら上るバス。空をみると水色で桜の花が満開。風景は春だし旅行
なのだからとても楽しいことなのだ。でも楽しさがうわの空で気持ちは困難な山道をゆく
ために楽しめるどころではなかった。そういえば、楽しさがうわの空っていうことその
もののようなイメージなのが可笑しい。そしてバスは個体になったり、液体になったり、
気体になったりするものらしい。いまのところまだ気体のバスはみたことがないけれど。
いえ気体だからみていてもみえないのかも知れない。夢の中でも。


[2月なのに梅の香り]


2月15日
 まだ2月なのに梅が咲いてしまっている。こんなふうに撮るようになって6年も
つづいている。2000年のCCDコラボレーションの写真展で詩を朗読していたのを
思い出す。壁、床、天井にもプリントしたデジタル写真であふれていた。高橋明洋さん
と蓑田貴子さんが詩を聴いている。それを小林のりおさんが撮っていらした。会場には
小林さんの奥さんと佐藤淳一さんと丸田直美さんがいらしたような気がする。ほんとう
に画期的な写真展だった。このあと小林さん高橋さん佐藤さん丸田さんみなさんが作品
を全て破いてタンカルのゴミ袋に詰めたのだった。幾つも幾つもタンカルのゴミ袋が並ん
だ。びりびりと写真を引きちぎってゆくみなさんの姿をよく覚えている。何なのか、全く
わからないままに、すごい、と思ってずっと会場が空になるまで私は見ていた。
何の気なしには破れるものではないのだ。すごいことだった。


[いつもクリスマス?]

2月9日
 東京都現代美術館で3月21日までひらかれている『愛と孤独、そいて笑い』展
は11人の現代美術の女性アーテイストの展覧会です。シビアな〈今〉を生きる
力にあふれた作品ばかりで、とてもよかったです。
 現在、私達はどこに置かれているのか、どんな風にこの複雑な今を生き抜いて
いるのか、という身近な問いについて向き合った興味深い作品ですが、けっして
堅苦しくなく、生き生きとしています。映像や絵画、言葉、オブジェなどにすく
い上げられた現代美術は身近だなときっと実感できると思います。愛と孤独、そ
いて笑い、というまったくタイトルらしくないタイトルなので見落としやすいけ
れど、画期的な展覧会なので、ぜひ見てください。



[何かをみつめて]



2月6日
 子供たちが遊んでいた。2月の陽差しと冷たい風のなかで。広場は人々のざわめきと
と足音がながれている。遊んでいる子供たちをとりかこむ空白のような隙間が、ひとり
ひとりを包んでいる。何かを見つめていて何かを感じ、そして動いてゆく。どこかへ
動き、時間をわたってゆく。そのときこの子供のときの記憶や好みはどうなってゆく
のだろうか。どこかへしまわれていくのかもしれない。化粧品のワゴンにシロクマの
縫いぐるみが包まれて大人を呼んでいる。化粧をする大人の、化粧という生々しさに蓋
をするように、シロクマの縫いぐるみがやわらかい靄を作る。楽しい靄のなかに子供の
ときの好みが溶けだしてくるのを誘っているみたいだ。シロクマの顔に刺激されるのは
子供のころの楽しさだけを集めた気分かもしれない。


[指先]

2月1日

指先

リンゴをみると 赤いつやつやの皮を一口囓りとり
白い噛み跡をつけたリンゴを ぽとっ と手からころげ落とし 
その床にばったり倒れてウサギは死んだふりをする
死んだふりをしながらウサギは
指先でリンゴの腹を押す
ごろごろ床をころがるリンゴは毒リンゴ
水色のクマの背中で止まる
当たり 
ボタンの目を開くとクマの口が
「毒リンゴのほうがすごいし
リンゴを渡す人なら
赤ずきんより黒ずきんを被っているほうがごろごろ床をころがるリンゴに
いかにも毒が効いてそうでいいね」
ゆったりとフェルトの口でいう
クマのいうこととウサギの気持ちがいっちすると
誰もいない家のなかはこんもりと森のなかになる

森には草の広場があるから
ウサギはおしばいがしたくて
クマは観客のふりをして
木の下に座っているのがうまい
綿がつまっていてもクマはどうどうとしてとてもいい
ウサギのほうがクマよりも大きいと椅子はいうけれど
ゆったりしたクマの話しかたにゆられていると
おおきな肩に載せてもらっているのがわかってウサギは思う
クマはやっぱりとても大きい

テーブルの上の白いビニール袋は
鍵屋という店の名前がゆれて
つぎのリンゴをだすために檻の鉄柵の鍵穴にウサギが鍵状の指をいれ
がちゃがちゃ開けようと苦闘している

誰もいない家は森のなかになり
指先は器用にねじれだす
              (2月9日)