今月へ

2005年7月分


[スパイスにつつまれて]

7月31日
 ひさしぶりで、「おかえり」の皆さんと会った。いろいろなことに話が
伸びてゆくのが面白い。そこはカレー屋さんだったので、スパイスの匂い
に包まれていたから、すこし皆興奮ぎみで、話題と気分がするする離陸
するらしく、思わず高い声の笑い声の噴水が何度もあがる。私は聞こえた
り聞こえなくなったり、波のある耳になっていて、ときどき欠けていた。
でもカレーはしっかり食べた。
 


[水の塔]

7月30日
 公園の大樹。幹が何本も別れて立ち上がっている。幹の間にリスのように入って
座ると、ひんやり涼しい。空へ向かう幹の中にはたくさんの水が蓄えられている。
幹は、水の塔なのだ。


[蒸発しそう]

7月28日
 吸い込まれるように、緑が伸び上がる。こんなときは何かが蒸発する。
暑さのなかで、忘れてしまう。強い陽差しに参りながらも、からっと忘れて、
どこか軽い。



[大きな波のように舞っている]

7月27日
 大きくアーチを描いて路面すれすれから空高く舞い上がっる蝶。
 蝶には道があってそれは蝶道と呼ぶらしい。どんな軌跡なのだろう。想像すると
楽しい。


若い写真家、三宅章代さんによる、写真と言葉の展示があります。
「写真と言葉をめぐる」というトークイベントに私も参加させて
てただくことになりました。

★三宅章代−海をみにゆく★
8月1日(月)−8月10日(水)
GALLERY IMAGO  03-3827-0881 文京区千駄木3-48-2-101

8月6日(土) 16:30-18:00
トークイベント 写真と言葉をめぐる 
三宅章代(写真家)北爪満喜(詩人)大嶋浩(写真批評)

三宅章代さんのサイトそのとか
                   写真の上をクリックすると次ぎ次ぎと写真が現れます。
          左と右、クリックするとそれぞれ別の写真が現れます。


[転がる前]

7月26日
 みなさん。地震のことで、ご心配、ありがとうございました。
 きょうは、台風が、どうやら縦断を逸れたようです。いろいろなことがありますね。
 
 このところ、私ではなく、メモリーズの言葉や写真が、いろいろ交流しているの
を知らせていただき、こつこつ続けてきてよかった、と思います。気ままな更新で
すが、これからもよろしくお願いします。


[昼はバンを撮っていた]

7月24日
 きのうの地震は怖かった。私は地下鉄丸の内線の改札をでて銀座のビルの地下2階の
通路を歩いていた。ひゅーんという高い音がして、左右につよく揺れはじめ、地震だと
気付いた。そうなると、ひゅーんという音がますます何の音だろうと怖くなり、揺れる
なか、地上への階段をみつけ上りつづけた。身をすくませるよりも、地上へ出たいこと
のほうが強く、ひるんではいられなかった。まばらにいた人も同じように階段を上って
いた。地上へ出たら変わったところもないようなので少しほっとして携帯で家へ連絡し
ようとした。でも全く通じなかった。携帯が変なのかなとおもったけれど、すぐにパンク
しているのだと気付いた。こんなとき役に立たない携帯なんて。しかたないのでしばらく
歩いて、お店にはいった。少し時間がたって携帯が繋がり、震度4だと家族から聴き、
だいじょうぶそうなので地下鉄で帰ろうとしたら、動いてなくて、通路に人が座って
いて異様な感じにまた不安になってしまった。カフェはどこもいっぱい。駅からすこし
離れたカフェへいってようやくすこし開いていて入れた。時間を潰し、運良く銀座線が
動いたと家の人から携帯に連絡が入ったので、駅までゆき、渋谷まで乗る。すし詰めだっ
たけれど文句はいえない。でもそこからがまた難儀。家へ連絡すると、渋谷からの線は
まだ動いてないという。しかたないので長蛇のバス待ちの列にならぶ。
タクシーのりばは人が溢れて黒山になっていたから、無理だとわかった。ようやくバス
にのるとここもすし詰め。でも渋谷が始発なので乗れたのだ。途中のバス亭の人たちは
載せてもらえなかった。気の毒だった。私はたまたま家の人のサポートがあったから
時間をかけながらもわりとうまく帰れたのだと思う。やはり情報があることが最も大切
だと痛感する。携帯できるような小さいラジオが欲しいと思った。



[着地それとも浮上]

7月21日
 きょうも暑かった。
 久しぶりにDVDを借りてみた。仕事でなく見るのはぼんやり見られるから楽だ。
 『スイング・ガールズ』話がいろいろ枝道にいって、なかなかスイングまでいか
ない。でも地味ながらおもしろかった。アルバイトの松茸狩りの山で、イノシシにおい
かけられるガールズのストップモーションでつぎつぎ危ういシーンがスライドショー
されるところ、笑ってしまった。それと町の音がなんでもジャズのリズムに聞こえだす
ところもよかった。
『ブラス!』は音楽を演奏することの誇りのようなところを映していたのを思い出
した。こちらは、初めて音楽が好きになるところだ。楽器は高くて手に入れるまで
大変なのだと思った。
『スーパーサイズ・ミー』も借りたかったけれど皆借りられてしまっていた。



 詩の言葉について考えていた。三井葉子さんの句集「桃」には、俳句は世界で一番短い詩、
ということが書いてあった。きょうちょうど届いた鈴木どるかすさん詩集は一行詩。
一行だけの詩を集めた詩集だった。詩のことばの長さ、行開けか散文か、などにとら
われるのはもはや、やめよう。

そして鈴木志郎康さんのブログにはこんなことが書かれていた。(すみません引用します)

  「生涯学習講座で話したところから思い付いた「詩についてのメモ」を取る。
  各人の脳髄に生起する言語の固有なクオリアということを考えると、クオリア
  はいかなる記号でも表現ができないのだから、その言葉の意味の伝達不可能生を
  前にして、たじろいだところから、共有できる言葉の形態のみに頼った表現が
  生まれてくる。そういう詩の作品が確かにある。しかし、人にとって、その伝達
  不可能な固有の意味を堅持するところに、言葉を用具としては使わない「詩を書く」
  ということの意義があるのではないか。読み解けない言葉をそのまま受け止める
  という態度が、広く人のつながりを広めて行くのではないか、ということ。」

このクオリアは質という意味だと思う。出典はたぶん、
前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』筑摩書房。
「「私は生きているんだ!」という質感」の章で、
「クオリア」とは何か?という小見出しがある。
夕日をみて感動するとか、恋人とこのままいたい、とか、潮の香りとか
<私>自身の質感。「五感から入ってきた情報と、自己意識のように心の内部
から湧き出てきた情報を、ありありと感じる質感がクオリアだ。」
ニューラルネットワークが何らかの計算によって「私」のなかにクオリアを
作り出していると。「クオリアはそもそも言葉でさえ言いつくせない。」




[ふわり]

7月16日
 まるで梅雨が明けたように暑くて、反射熱に汗だくになって歩いていると、
目の端をふわりゆらゆら、過ぎてゆくものがあった。コンクリートの建物とアスファルト
と金属の車ばかりに囲まれていると、その浮遊感に吸い込まれる。くらり、としてしまう。




[哀しいことがたくさん]

7月12日

詩   哀しいことがたくさん
 

白い糸で編まれたレースになってしまった。ワタシのベッドは薄いレースになって
しまって、横たわった体は、今にも夢の中へ落ちてしまいそう。目から涙が流れるけれど
涙はレースを透って、するすると落ちてしまって、体温で暖まったマットに浸みることができない。
涙がレースを透って雨のように降り注ぐ。夢のなかへ。夢のなかの街路で
空を見上げるわたしは、ああまたきょうも雨、と思うのだろうか、それとも、するするしている
雫に驚き、天気雨になりそう、と思うのだろうか。
何か伝えなくてはいけない哀しいことがたくさんあったような気がするのに、
なんにも絡みつくことができない。哀しみを通り抜けてしまう。
この涙は、ワタシの目から溢れているのに、ワタシのどこかの窪んだ水瓶のようになったところへ
落ちて溜まった水が、ワタシのひび割れたところから漏って、
ワタシも知らないうちに雫になているのだろうか。
白い糸が透けている。ここがベットだとしたら、もうどこにも体を丸め、
小兎のように安らげるところはない。レースを見渡すと、果てがみえない。
部屋を透り抜けて、どこまでも続いている。だれも落ちることはできないような白いレースは
はかないか強靱なのか、いったいどちらなのか。そんなことに気を取られると涙が止まっていた。
今晩ベッドに横たわっている人たちは皆だれも一枚の白いレースの上に離ればなれに横たわって
いる。そう考えると、丸い形のオレンジやリンゴがあたりいちめんころころしているようで
可笑しくて笑ってしまった。頬がまだ濡れたまま、目覚めて起きあがると、
白いレースは消えてしまって
ワタシはまたベッドの下のスリッパをはくことができた。






[密集]

7月9日

詩   密集


いま落ちている雫のことを話すのはなんて測り知れないのだろうと、自転車を止めて
道路に張り出している信用金庫の軒先に雨宿りし、おもいっきりスカートを両手で
絞りながら、暗い雷雲に覆われ、多量の雨水を落とす空を見上げる、過去の少女が
現れた。
その手から絞られる雨水は、透明だったのに、いま誤って紺色に染まり
上の方からこの夜の窓の白いカーテンに染みこんでゆく。
カーテンが紺色の斑になって染まってゆく。どんどん染まる。
紺色の制服のボックススカートの襞なんかすっかり雨で伸び、のっぺりと足にまといつかれたまま
稲光に怯え、自転車を漕ぎながら、稲妻が来たあと、遠い地響きのような雷鳴が聞こえるまで
何秒あるか真剣に数えた。1、2、3、4、5、6、7。ビシッ、ガッ、ガラガラガラ。
7秒あるならまだ大丈夫。自分に言い聞かせた。でも、びっしょり濡れ重くなった制服
のスカートの裾がまといついて漕ぎづらく、死にたくない、怖い、もっと早く、と力の限り自転車の
ペダルを漕ぎ続けた。汗も雨も一緒に流して逃げていった。隠れられる所を求めて。
何も遮るもののない北関東の平野を低く横に走る稲妻が、目の奥を鋭く裂いてゆき、
髪から冷たい雨が流れて、目の上は水が覆ってしまって前がとても見づらかった。
緊迫して、自分だけがいて、助かりたい、それだけになって走った。ハンドルを固く握りしめ。
それなのにようやく辿り着き、雨宿りできた瞬間から、
引き裂いてゆく稲妻の閃光の瞬間に見とれてしまった。
たらたらとだらしなくスカートの裾からは滴が垂れていて
熱を奪われた唇は冷たく色が変わっていて、
まっ白になった心のなかを、
稲妻の鋭い閃光が行く。
体の内から、走り出す、閃光が、私の肌を裂き、
紺色の制服を引き裂いてゆき、
引き裂きたい気持ちは走りだし、捕まえ、しとめ、噛みつきたい、
獣の心の密集する、ぎらつく瞳の密集する、体の奥の洞窟から、
悲鳴のような憧れが、稲妻になってぎざぎざと煌めきながら走りだす。
空を渡ってゆく光の牙 あれは私だというように
みとれている過去の少女が
いま 夜の部屋の紺色に染まってしまったカーテンを掴んで
ザッと引き開けそうだ

                  (7/10)



[デパートの中]

7月8日
 このところジグソーバズルを始めた母のためにパズルを買いに行く。先日渡したもの
は一日で出来上がってしまった。というのもホームでできた友達がジグソーパズルの先輩
として母の部屋を訪れては教えながら、半分以上は手伝ってしまったからだという。有り難い
ような、つらいような。私は知らなかったけれどパズルは出来上がると糊で台紙に貼り額に
いれるらしい。一度作ったらまたばらばらにして使えるのかと思っていたので驚いた。と
いうことで、至急、また母のために買いにゆくことに。今度は額まで買う。安くはないけ
れど、子供のように楽しそうにするのだから安いものだ。デパートにゆくとお中元のコーナー
で番号札を上げてお客さんを誘導しているパソコンでの承り所が賑やかだった。

 地下鉄に乗っているとき、ロンドンのテロのことを考えたりして不安になった。
それから、新聞で憲法の記事を読んでいると、映画「ベテアの贈り物」を見て知った
24条の女性の人権が、ベテア・シロタの世界の憲法のリサーチによって、贈り物の
ように日本人に贈られた素晴らしいものだったのだが、その24条がまた良くない方
へ向かって書き換えされそうな提案があることを扱った記事だった。雇用機会均等法が
できたのもそれほど前ではないのに。日本国憲法の草案が60年前に創られていたとき
女性が住むところを自分で決めたり、財産権をもったり、相続したり、自分の意志で
結婚したり離婚したりできる、ということへ激しく会議で日本人は抵抗したそうだが、
その激しさは天皇について決めるときと同じほど激しかった、というエピソードを老年
のベテア・シロタさんが語っていた。


[望むものは]

7月6日
 詩のタイトルのような言葉が七夕の短冊に書かれていた。
でも黄色い空や緑の空ではないところが、やはり望みと繋がりあう言葉だと思う。
このところ晴れて爽やかな青空を見てないから。

 来月の8月1日からじまる三宅章代さんの写真展は楽しみです。
三宅さんは写真と言葉の展示をします。三宅さんは20代。言葉も写真も
いいです。詩を書く人にはぜひ見てほしいのでまた詳しく決まったらお知らせ
します。
 
 それから、今はじまっているコイズミアヤ展「充満と空虚」よいです。
 箱の作家の新作。銀座のギャラリー椿にて
7月4日〜7月16日までやってます。
箱のなかなのに無限の空間を開き、それでいて歩けるような階段もあり、回廊
もあり、永遠があり、充満があり、空虚でもある。一言ではいえないのでまた
後で書きます。


[変色のとき]

7月3日


詩   変色のとき


 ワゴンセールで手にしたハンカチのラベルの上に薄いシールが貼られていて
中国製と書いてあった。何かを隠すシールに書かれた生産地名が中国なら、シール
の下からどんな生産地がでてくるのか。そのために買うのはおかしいとわかって
いながらレジへいって代金を払ってしまったのは、もう剥がさなくてはいけない
肌色のテープが左の足のくるぶしに巻いてあるからかも知れない。
 サンダルをはくと左の足首ばかりいつもかくっとずり落ちて、痛めてしまう。
そんなくるぶしにはいらない力が入っているのかも知れない。無意識に何かを
耐えようとして不自然な力が身体のどこかに加わっている人の話を本で読み知ってから、
何か落ち着かなくなってしまった。痛みを取りたくてインドメタシン入りのテープをくるぶしに
巻いたのに、いつしか、耐えているかも知れない苦しみが溢れ出さないないように
するテープへと気持ちがズレてしまっていた。ぐるっと巻いた感じが、樹木の幹に注連縄を
一周させた安心感も漂わせ、外せなくなっていた。
このままでは肌がかぶれてしまうから、外してしまわなくては。剥がしてしまわなくては。
買ってしまったハンカチに貼ってある、ラベルの上の薄いシールの角に爪を立て、
かりかりと掻き、少しめくれたところを指先に注意を集めて、きつくつまんで剥がしはじめる。
粘るシールの中国製、をそろそろと引っ張り剥がしてゆくと、めくれるシールのその下から、
現れるのは、何だろう。あれっ。あれっと肩の力が抜けた。日…本…製。
もっと怪しいあまり聞かない地名が出てくるのを待っていたのに。
それは国産ではないことを知らせるために正しい生産地を貼っていたシールだった。
おかしな意味を重ねていたのは、何か隠れているかしれないと考えてしまうワタシだった。
肩の力が抜けてしまうと、何かするりと重いものが滑り落ちたような気がして、
軽くなった肩をゆすって、笑ってしまった。笑っていると体がほんのり暖かくなり
テープの下のくるぶしの皮膚がかゆくなったきた。トイレへ入って剥がしてみると
現れた肌は赤く変わって、かぶれてしまっていたのだつた。
 余分な力が加わるのは、選んだサンダルが自分の足の形に合ってないからかも知れないと
赤く変色した肌がかゆくて、痒みが収まるまで掻いたあとで思い至った。当たり前のこと
すぎて呆然として立っていると、
肩を重くするような思い込みを背負うより、と、ひとりごとのようなものが、溢れ、
かゆいところに手を届かしたい、とおもわず口を動かしていた。