今月へ

[渋谷アップリンク・ファクトリーで]


8月30日
 アニメーション「3つの雲」監督辻直之を渋谷アップリンクXで見た。
 「呼吸する雲」「雲を見ていたら」「雲から」みな、よかったです。
  9月2日金曜日までやってます。
     (アップリンクは引っ越してます。東急bunkamuraの手前、奥です。)  

 木炭画で白い紙に描いてひとコマづつ撮り、描いたり消したりしながら、動く絵は
独特。素朴にこころへ触れる味わいのあるトーンになっている。黒い線を書いて消して
と繰り返すと、白い紙に痕がのこり、陰影になる。それは汚れではなく、時間の深み
や、動きの軌跡として暖かみさえ感じさせる。雲がゆわゆわとゆっくり変化してゆくとき
人の顔が現れる。家族だろうか、恋人だろうか。下の山並みを影が覆ったり引いたり。
広い風景のなかで、雲は誰かの記憶を反映させているのか。いえ、雲は上空にのぼって
たまった地上に生きる人々の息であって、人々の恋の記憶や、家族との記憶などを、ときどき
雲さえ知らないうちに、形にしてしまっているのかも知れない。
 
 アップリンクのギャラーというのがあって、展示されている原画とビデオに見入っていると、
そばに作者の辻直之さんがいた。話しかけてくれたので変容の面白さなどの感想をお伝えした。
カンヌ映画祭に2年連続招待されている。若いし、新作も期待できる。


[いわき]


8月27日
 台風を逃れられ、いわきへ行く。歴程夏のセミナー。
 いつもの湯本温泉の古滝屋で、初日の講演が終わり、夕食後、
差し入れの大量の花火をした。花火なんてとても久しぶり。興奮して
撮ったけれど、瞬間の発火はなかなかうまく撮れなかった。その後
夜の有志の朗読会に参加。読んだあと、進行役のヤリタミサコさんの
フォローと感想がなかなかよくて、夜遅くまで詩に浸かった。
私は二日目に草野心平記念館で話した。小鳥きみ子さんが今年は初参加して
くださった。そして20年ぶりに詩の講座で同期だった竹田朔歩さんと再会。
初参加してくださった。
 もうすぐふらんす堂から発刊になる詩集『青い影 緑の光』のカバー色校
を持参して買ってください、と宣伝すると何人かの方から予約をいただけた。
感謝。私も出来上がりが待ちどおしい。


 今年のテーマは、歴程70周年記念のため「伝統と未来」だったので歴程と
なんらかの関りのある切り口で話すことに留意した。感覚することに着いて
焦点をあてた私の話のあと、詩は感覚ではなく思考だと、朝倉勇さんが話され
たが、二つの趣旨は一見反対のようで、実はおなじことを言っている。なぜなら
詩は感覚したことを言葉に変えるからだ。
 感覚したことを言葉に変えるには思考がなくてはできないし、言葉にすること
でそこからまた思考を広げてゆくことができる。人はなにも感じなければ、
それについて考えるということもない。


言葉を追って (ありありとした質感・私と木と詩の言葉より)
                                                           北爪満喜

 7月に近くの駒沢公園を歩いたときのことです。この公園には大人二人が両手で
抱えてやっと届くほどの幹の太い木が点々と生えている場所があるのですが、その
なかの一つが、とても太い大樹の根本のほうから何本もの幹に枝分かれしていまし
た。その分かれ目がちょうど人の腰の高さあたりから別れていて、幹と幹の間に人
が座れるような空きができていたのです。樹はさわやかな緑の梢を風にまかせてゆっ
くりと波うたせていて、木陰を作っていて、外は太陽が照りつけてとても暑かった。
そんなこともあり、私は樹を見てはしゃぐ子どもの心に負けてしまって、樹の幹の
空きへよじ登り、座ってみました。するとひんやり涼しい。空へ向かう幹も冷たく
て、中はたくさんの水が蓄えられているのだな、いいなと、ちょとじーんとくるよ
うな感じがしました。文字通り、肌で感じたのですが、すっとそのとき「水の塔」
と、言葉が浮かびました。

 こういう特別な感じはなんだろう、と気になっていたことがありました。なんで
もない日常のなかで、外からみれば、ただ樹にのぼっただけのこと。でも、その
ときたしかに感じ取ったものがあるのです。

 このごろ話題になっている脳科学の本を読んでみると、脳科学では、それをクオ
リア(茂木健一郎著『心を生みだす脳のシステム』NHKブックス)と呼んでいるのを
知りました。 クオリアとは感覚の質。私は生きているんだ!という質感、というこ
とです。
 たとえば、夕日をみて感動するとか、恋人とこのままいたい、とか、潮の香りが
いいなとか、<私>自身の質感。「五感から入ってきた情報と、自己意識のように心
の内部から湧き出てきた情報を、ありありと感じる質感がクオリアだ。」(前野隆司
著『脳はなぜ「心」を作ったのか』筑摩書房)ということです。
 それは、脳のなかの無数のニューロンの無数の繋がりの、ニューラルネットワーク
が何らかの計算によって「私」のなかにクオリアを作り出しているということなので
す。
 切ないような、浸みるような、ありありと感じる質感。クオリアは、どんな記号で
も現せないということです。言葉でも言い表し難い、生きている質感だということが
分かりました。クオリアは、私達のただ生きているという茫洋とした広がりの時間の
なかで、私は生きているのだ、と実感できる大切な質感だったわけです。茫洋とした
生の時間のなかで、そうした無数のクオリアを記憶しているから、判断したり、行為
したりするときに役に立ち、自分が自分でいられるのだということです。自分が支え
られてゆくような、きいきいとした質感があるから、人は生きていることを実感して
日々を送ってゆくことができる。そして、詩は、その言い表し難いけれど、ありあり
と感じる質感と深く関わっているように思います。詩は、そうした質感と言葉で向き
合ってゆく行為だと言ってみたくなりました。

 クオリアはぞれぞれの人の脳の中に、固有に起こってきている、そして、そのとき
の質感は、人によってみな違う。それぞれ違う質感を持っているということです。そ
の瞬間、それぞれちがう感覚の質で生きているということがあるわけです。クオリア
はどんな記号でも表すことができないといわれています。伝達不可能なものだという
ことがあります

 だからこそ、その固有のクオリアと向き合って言い表し難いことを、工夫して詩の
言葉にすることが意味があると思えます。詩の言葉で人に届けたり、言葉で人から受
け取ったりする、詩の行為が人と人の間で重要だということです。ときにはなかなか
簡単には読み解けない言葉を、そのまま受け取とめるという態度も、詩だからこそ大
切なことがある、ということが分かります。

 そして、もう一つ、言葉がクオリアを作り出す、という大変重要なことを知りまし
た。 詩を書いたり、読んだりして、言葉を受け止めることによって、クオリアが作
られ、自分が更新される、自分が変ってゆく。自分はこのような粗末な自分だけれど、
変わってきた、ということに光を見出した思いがします。とても勇気づけられました。
特に詩の言葉から、作りだされるクオリアは、鮮やかで深いのではないかと私は思い
ます。
 
 はじめに上げた公園の樹から受け取ったクオリアが、すっと「水の塔」というよう
に言葉へと繋がっていったことには、私と詩と樹が緊密になっていたことがあるのだ
と思えます。

 まだ詩を書き始めたばかりの頃、吉原幸子の詩集『幼年連祷』を読んで、「ナンセ
ンス」という詩の言葉がとても気に掛かって、忘れられなくなったことがあります。
いま思うと、意味ではない言葉、でも強い印象の言葉に初めて躓いていた、体験だっ
たわけです。

風 吹いている  
木 立っている
ああ こんなよる 立っているのね 木

風 吹いている  木 立っている 音がする

 
 という部分です。この詩は次ぎのように続きます。

よふけの ひとりの 浴室の
せっけんの泡 かにみたいに吐きだす  にがいあそび
ぬるいお湯

なめくぢ 這っている
浴室の ぬれたタイルを
ああ こんなよる 這っているのね なめぐぢ

おまえに塩をかけてやる
するとおまへは いなくなるくせに  そこにいる

  おそろしさとは
  いることかしら
  いないことかしら


 木が立っている、ただそのひろがりが、夜の闇のなかで、孤高に、いることかし
ら、いないことかしらと、おそろしさを孕んで、時の中に投げだされている。その
投げ出されたのが、まるで自分のように迫ってくる気迫を感じ取りました。もちろ
んこんなふうにその時分の私は分かっていたわけではありませんでした。「風 吹
いている  木 立っている」とい詩句が頭の中をとぎとぎ、何度もよぎってゆく
、そういう体験をしたのでした。
 そしてその頃、私は詩の講座へ通っていて、何人かで、詩劇を演じました。新藤
凉子さんの演出でした。そのとき舞台で等間隔に10人ほどが黒い衣装で並び、直
立して前を向き、詩の言葉をセリフにして声をだしました。いまも鮮やかに思い出
せるそのときのセリフが、「木が立っている。隣りにも木が立っている。その隣り
にも、木が立っている。隣りにも。隣りにも。隣りにも。」という言葉です。
 しかし、これだけしか覚えていないのです。これだけを覚えていて、他は全て忘
れてしまった、そのことが非常に重要なわけです。私が木として舞台に立っていた
とき、私の身体が、詩の言葉を通して木と重なり、クオリアを作ったのだと思います。
だからほとんど忘れてしまっても、そこだけ覚えていた。それが「風 吹いている  
木 立っている」の孤独や怖さと共に、結びついたのだと思います。
 
  2002年の10月、ホームページに日々撮っているデジタル写真と言葉を
更新していたら、不意に、写真を起点にして詩を書きたくなり、突然こんな言葉が
出てきました。

 くっきりしていると葉の影は葉の延長で実体化しているみたいだということが、
見間違いのすぐ後で言葉となって枝を伸ばした。ということは、ワタシはこと葉と
いう葉をはやした木のようなものにいくらか変身しているのかもしれない。
                     (北爪満喜「青い影・緑の光」より)

 このときから始まった書き方の詩では、「ワタシ」は「こと葉」を葉のようにつ
けている「木」とい意識が作品を繋いでゆきました。その期間を一冊にして、
もうすぐ詩集『青い影 緑の光』(ふらんす堂刊)が出来上がります。
 「青い影・緑の光」の冒頭の言葉は、ほとんど自動的にでてきた言葉ですが、遠い
日から木という言葉を追ってみると、言葉と木のクオリアが積み重なっているのだと
思い、じーんとするような感慨があります。詩によって私が作られてきたことに思い
至りました。そこからまた詩を書いている。そのまなざしで写真も撮っている。言葉
が人々にクオリアを作る、ということを知って、ここから未来へ開いてゆくものがある
ということに思い至りました。

 


[色落ちしたのか]

8月24日
 雨風でこんなことになるのだろうか。赤い色が落ちてしまっている。
 先日西岡兄妹の「ぼく虫」を読んだら、その夜とても怖い夢をみて、内容は
忘れていたのに朝、辛かった。若気だと著者は語っているけれど、直球はやはり
ずしっとくるようだ。
2年ほど前、大下さなえさんの開催した「みみのひるね」の朗読会で私が読んだとき
西岡兄がいらした。すらりと背が高く静かな感じの人だったように思う。
今回あらためて読んで「鳥籠」をなるほど、と思ってしまった。青年には彼女の
いうことがぴよぴよとしか聞こえないのだな、ほとんどは、と、女の言うことを
聞いていない男の心理というか生理が察せられておもしろかった。

 


[尊重している]

8月21日
 ガード下の壁にもののけ姫が描かれている。ずいぶん前の上映だったから、その
頃描かれたとしたら、もう10年くらい、誰にも落書きされなかった事になる。落
書きをする人も、同じ描くものとしてもののけ姫の絵を尊重しているようだ。

 ふらんす堂からもうすぐ出版する新詩集『青い影 緑の光』のカバーの色校が
終わった。カバーには日々撮っているのを反映させて、小さな写真を数枚配置した。
詩集に収めた詩も写真もメモリーズでの実践からうまれたもの。今回は実践の第一章
を形にした、ということになる。
 


[夏はのびのび]

8月16日
 久しぶり。夏の草がのびのびと生えている空き屋の庭をゆく。アゲハ蝶が舞い、
しおからトンボが滞空していた。どこからか蚊がやってきて刺すわ刺すわ。足の
あちこちがいっきに痒くなる。


[不確か]

8月14日
 絵の前で動く人。手も。人の目にみえないところも、動いている。
 


[自転車便・青と赤]


8月12日
 赤と青、目を引かれてみると、自転車。自転車便。車道をペダルで漕いでゆく危険な
仕事をしている人がいた。初めて自転車便というのを知った。夜の道では、ペットショップ
の熱帯魚が、青と赤の体で店頭に出されていた。狭いビンの水温の変化の危険の中で生きて
いる。


[寄って見ると花]

8月11日
 小さな花が釣り鐘のようにゆれている。これが稲の花のようだ。
近寄って見ると、たくさんの花が咲いている。

 もうすぐ私の新詩集『青い影 緑の光』ができあがります。
  ふらんす堂からの出版です。
  この詩集には、写真を起点にして書いた詩だけを集めました。
 それなので写真も数枚載せてあります。カラーで載せました。
 ふらんす堂の山岡喜美子さんに相談させていただき、自分で
  完全原稿を作り、工夫して載せたのであまり高くなくできまし
  た。感謝しております。
 初めての試みなので、どのように読んでいたたけるか、どき
 どきします。
 

三宅さんの言葉と写真の展示に、思ったよりもいろいろな方が
お見えになっていて自分のことのように嬉しい。森ミキエさん、
かみいとおほさん、メールをありがとうございました。また先月
ギャラリー椿で「充満と空虚」の展示をなさったときお誘いした
尊敬する箱の造形作家コイズミアヤさんも来てくださった。

 

[命綱は?]

8月8日
 どう見ても女性たちが作業している。帆船の帆がマストへたくし上げられている横浜のドッグ。

 6日は、三宅さんの展示が言葉の展示にも力が入っていたので、
言葉について話した。新聞紙や旅行のガイドブックやカメラの取り扱い説明書や辞書
などをもっていった。それらは用具としての言葉であることを話した。そして家族や友達
に話す言葉のようなものは日常の言葉だということ。三宅さんの展示の言葉はそうした言葉
とは違うところと係わっており、スタイルのある文芸の言葉というよりは、より自由な言葉で、
ほとんど詩の言葉ということなどから入った。三宅さんの言葉は、短冊に作られた作品
「かんさつ」にもたくさんある。それらはとてさわやかな言葉でまっすぐにやってくる。

聞いてくれた友達から「北爪さんが言った、言葉は(時間のなかで)直線だから、
という意味が大嶋さんの説明を参考にしてわかった。言葉のことをはじめて考えた。これま
で言葉のことなんか考えたことがなかった。」といってもらった。また「詩って自由に書いていい
のだね。いままで詩はだれにでもわかることを書くのだと思っていた。」と声をかけてもらった。
また「いつもは聞けない話をきけてよかった」と丸田直美さんに声をかけてもらえた。
元木みゆきさんも来ていて重層的ということに興味をもってもらえた。それで、
萩尾望都対談シリーズの「科学者とお茶を」の脳科学者茂木健一郎との話をプリントした
ものを紹介した。

三宅さんの展示の写真と言葉は、本人は無意識的かもしれないが
生きている感覚の質、人の心にある重層的な感覚の質、という
ものを外在化させ開こうとしているように思え、クオリアということを考えた。
 
それにしても対談に慣れていないので、大嶋さんには本当にご苦労をかけてしまった。
それに、三宅さんのトーク、もっと伺えばよかった。

家森あかりさん、あおばさん、小林弘明さん、水嶋きょう子さん、大村さん、
来てくださってありがとうございました。


[波形]

8月5日
 三宅章代さんの雨の伝う傘を思い浮かべた。
明日は「★三宅章代−海をみにゆく★8月1日(月)−8月10日(水)」の会場で
三宅さんと大嶋浩さんと私で、話をする。インターネットでwebサイトを持った
ことから知り合えた方たちだ。何か、役に立つことが話せたらと思う。きょう
はいろいろ参考になりそうなものをプリントしてみた。

 詩のメールマガジン、「さがな。」でも広告を出してもらえた。
 また写真展を見に行くと何人かからメールをいただいた。
 また自発的に詩の情報サイトに広告してくださった方もいる。有り難いことです。



[午後の数秒]

8月3日
 近くの舗道をまっすぐ歩いていると、ふいにビタッと誰かと衝突。次ぎの瞬間、
「あっ」「オーッ」「すみません」「アイムソーリー」と言いながら、びっくり
した顔を目の前に互いの両手をとっていた。同じようなピンク系のTシャツを着た
同じような年齢の女性だった。とっても急いでマンションから飛びだしてきたのだ。
そして歩いてきた私と衝突。私は陽に照らされて暑い手、彼女は冷房に冷やされて
冷たい手だった。それだけ。なのに手の感触が残っている。お隣りさんのように。