今月へ


[見つめ、揺れ]

10月30日
 なにを目にしているのだろう。波門、水、光、時、それとも立ちつくしていること
をだろうか。


斉藤恵子さんの詩集『夕区』(思潮社)を読み返す。全編から何かを語り出す用意のできた視線。
正確な視線を感じた。実際に目でじっとみたものや夢でみた出来事をくっきりと詩のなかに
書きながら、みえないものへと踏み込んでゆく。その詩がとてもひりひりするのは、「春の岬」
でこの想像力が、ほかでもない"生きていることの/恐ろしさにふるえるのだ"というところから
きているからだとわかる。「薔薇」で事故死した兄の魂を背負って連れ帰る母や、「麦秋」のお
ねえさんがのっぺらぼうになっても人の生の切なさがあぶり出され引き込まれる。

華原倫子さんの詩集『ウォーター・ランド』(詩学社)を読み返す。とても第一詩集とは思えない。
「コップ」では、わたしは人を抜けコップとなっても、白い取っ手が背中に突き出して
いる違和感を言葉がすくいあげる。生まれた詩の中で言葉と気持が動いてゆくのだ。「脚」では飛ぶ鳥
が脚の重さに気付く。だから、脚をぷつんと切り落とす。でもそこで脚が跳び続けることの否定
形だったと鳥が思いを述べるのだ。「ことば」に“《ことば》は中へ入りたいのだ/塞がれた空間の中へ”
とある。そのように、書いては入り、不穏な世界や、原爆ということとさえ向き合ってゆく。わたしと
わたしが戦い、裂けながら、傷は光り、月へまで届く間隙となってゆく。ダイナミックなのだ。

[たくさんの掌のように]

10月29日
 秋の陽差しを掬い取っている葉。たくさんの掌のように。小舟のように。
すこし丸めた奥に何か入っていそうな厚み。掌を葉の形にしてみる。してみなくても
指をそろえた私の掌は少し窪で、小舟のよう。

 石田瑞穂さんの詩集『片鱗編』を読み終わる。
ここには、詩の言葉でしか出現できない時空が存在している。
特に「Lost Light  in Dungeness」の16の詩編は発語のドライブ感
が詩の言葉にしかできないものだった。また「白のなかの島」でも現れた
"初潮を迎えた母"という、詩の言葉の中で生き、存在している母、
"灰ではない"母、の響きがときに聞こえ、はっとさせられる。
それは"私らが何者かの残片であり"という言葉や
"破損も破棄もできない紙が血管を黙ってながれていく"という言葉とも
係わって、断片として一瞬毎に書かれる言葉によって存在する者の
核にひっかかて震えている。言い当てることはできないが、そうした
ことをすくい上げている言葉の現場を追体験することができた。

 昨日、鈴木志郎康さんと石井茂さんの写真展に行ってきた。志郎康さんの写真は
魚眼レンズの風景が、今回は特に光、それも透きとおるような光と影から
成っているのだということを強く感じられた。木よりも木の影のほうが自由に
生き生きと見えたり、光にとけそうな植物が印象的だった。歪んだ塀が
ローアングルの魚眼により、球になって映っているものなどコンクリート
の塊が迫ってくるはずなのに、その前の細細としたひと茎の雑草に負けて
背景に沈んでいる写真など、その反転がユーモラスで、しかも何か惹かれる
のだった。近隣のさまざまな光景が光の感じのためかなんともいえない懐かしさ
をまとっているように私は感じた。



[ゆっくりと歩いて]

10月26日
 ときにはゆっくりと歩いて、一息ついてみる。一息のなかに放たれるまなざしは
ピンクからうす紫へ、そして水色へと移ろう空へ吸い込まれ、それまでの自分がオフ
になる。

 斉藤倫さんの詩集『オルペウス オルペウス』(思潮社刊)を読んだ。
あとがきに、15年以上もあたためていたテーマとあるが、一冊の一体感
からなるほどと思わずにはいられない。オルペウスと亡きエウリュディケ
のギリシャ神話から、その地獄へ降りてまで連れ返そうとする関係を、
心のなかで、今生きてゆく「私」「オレ」「ぼく」の中に生かし続けていて
切なかった。バンドを組んでいるらしい木詰緑平、鮒山善一、がいてオルフェ
の縦琴と響く。彼女の言葉が出てくる「木詰緑平は かえりみちを辿る」では
彼女の夢に登場する自分に"オレよりもおまえのほうがほんとだから"と、
彼女=他者の心の中で生きている存在感の方が、本体の自分より本当だ、
大切だという認識にはっとする。それはとりもなおさずオルペウスのなか
で生きているエウリュティケのことでもある。この一冊はそのことに向かって
ものがたりと出来事が傷のように編まれていると思えた。叫ばない叫びが
くだけたものいいに包まれてあった。




[やさしくて、にぎわって]

10月23日
 繊細な小さな花がたくさん、にぎわって空へ顔を向けている。集まっているけれど
やさしい感じがする。それぞれ静かに陽差しへと顔を向けているからだろう。

 五十嵐倫子さんの詩集『空に咲く』七月堂刊、を読んだ。
五十嵐さんは詩誌『もーあしび』で白鳥さんたちと供に詩を載せている。
すべての詩が、いまここでの等身大の気持を、やさしくすくい上げている。
初めての詩集は表紙に花が咲いている。これは詩の世界と同じく五十嵐さん
が日々のなかで思わず撮った花の写真。花が空へ向かって咲きでるように、
哀しみやめげることや日々のいろいろな辛いところを、背筋を伸ばし直して、
もう一度前向きに生きようとしている。空をよく見ているし、夜には月を
みあげている。詩を書いて乗り切ろう!と思わず声を掛けたくなる。
五十嵐さんのホームページより
十円玉サイズの水たまり  


[ささやきのように]

10月22日
 近づいて目をよせないと、見落としてしまう小さな水色の花。
でも近づくと、ほがらかな水色のささやきの声が聞こえないけれど
きこえる。

 佐藤恵さんの詩集『きおくだま』七月堂刊を読んだ。
ていねいに描かれた記憶の庭や人々への想いに、読む私の
気持も運ばれてゆくようだった。特に詩「ひろびろと」や「光る庭」
に現れる母親の明るさには、きっとほんとうは孤独や寂しさに耐えて
いるからこそ、の明るさや暖かさがあって胸を打たれる。
また、これで故郷を去ってゆく、という朝、苦労して片思いの人に
会いにいって、驚かれ、告白できなくて、乾電池を買いにきたと
言い訳をする「乾電池」という詩も切なかくて良かった。




[秋のツユクサ]

10月20日
 ひっそりと咲いている草の青に引き寄せられる。
 子供のころカメラをいつも持っていたらきっと撮っていただろう。
ツユクサを白いテイッシュにはさんで、青い色を写し取ると、模様
は青い蝶のようになる。
 

 野木京子さんの『ヒムル、割れた野原』は割れた野原のある空間が
一冊を通してみると、胸に迫ってきた。地表の時間と地下の時間が
植物の呼吸によってゆき交うということや、「想いを地に置き去りに
しておくこと」そうすれば遺された人が出入りできるという世界。
死者をいつも感じつつそのイメージや実感を詩の言葉で手渡してくる
詩集。一冊がすべてそこに集約していた。置き去ることは、また詩集を
作ることも含む私達の言葉の生活。詩集を置くことで他者が言葉を介して
出入りできるから。そして特に印象的だったのは「頭の後ろと背中には
目がなくても通路があって」「知らないまま」「遠い」「天体のほう
に瞬時に抜ける」という空間。いまここには割れた野原がある。それを
感じながら、生も死も続いてゆく。そのようなおおきな動きを受け取った。


[青い花の椅子]

10月16日
 ちょうどお昼どきに出会った青い花の中の二匹の虫。そこが食事の椅子のように
もみえる。青い花の中で体も青く光って、蜜もおいしいのだろう。

 きのうの日曜日は引き続き、川口さん嵯峨さんと、宗左近さん追悼号の校正をした。
 帰りにビックカメラでプリンターのインクを買った。インクって高い。ポイントカードの
 あるところで買うという防衛策は外せない。

 詩集を読むのがつい遅れがちになってしまう。華原倫子さんの『水の国 ウォーターランド』(詩学社刊)
と斉藤恵子さんの『夕区』(思潮社刊)につづいて、きょう読み始めた野木京子さんの『ヒムル、割れた野原』
(思潮社刊)もとても胸に迫ってくる。いい詩集をたくさん読めて嬉しい。


[10月上野]



10月12日
 建物も木々もすこし茜色を含んでいる。なのに上野駅のホールはライトが青く輝いて、時間の色と
いうよりも照明の色になっていた。

 東京芸大美術館で日曜美術館30年展をやっている。
 藤島武二「黒扇」の筆で置いた線や色がそのまま、布の質感や顔の表情に
なっているのを間近でみられた。村上松園「花がたみ」の女の人のふとした
表情にある気分を、すくい上げている日本画は、あまり見たことがないほど
自然で、女性のセンスが生きていてリラックスできた。また、70代から初
めて絵を描いたという丸木マスの「蝶」「きのこ」のプリミティブな色彩と
楽しい植物や鳥や虫の世界はインパクトが強く、楽しさや元気を貰えた。
そして、ルドンの絵。「目を閉じて」では花が顔を持っているような存在感
と気配に惹きつけられた。青い厚みのある幻想的な空間にはまるで儚く消え
そうな目を閉じた人の顔があるが、花の方がずっと人に近い。その転倒した
物語に魅せられてしまった。「鳥獣戯画」の写しもあって手塚治虫の漫画の
発祥についての言葉も興味深かった。

 魅力のある詩集がいくつもある。華原倫子さんの『水の国 ウォーターランド』(詩学社刊)
と斉藤恵子さんの『夕区』(思潮社刊)など。電車の中やちょっとしたときに開いて読むと、詩を
読むことの独特の潤いに触れられる。何か気分が開き、揺られはじめる。後でまた感想を書きたい。


[月の瞳]

10月10日
 8日の夜の帰り道、空をみあげる。月明かりが眩しくて、はじめは丸い月しか
わからなかったけれど、うっすらと雲がかかり、その感じが瞳のようだった。月
に見られて、帰るのもいい。この日は一日「歴程」の校正をしていた。宗左近さん
の追悼号のために寄せられた原稿は量も多く、達筆な肉筆原稿は読み慣れてなくて、
判読に手間取ったのは私だけではないようだった。川口さん、荒川さん、嵯峨さんと、
喫茶店の片隅で、追い払われることもなく5・6時間は頑張れた。縄文の空にもこの
月が輝いていたのだなぁ、などとふと感慨深く思ったりした。
 ・・・・でも、今日の月は、北朝鮮の核実験も見ていたことになるのだろうか。


 少しづつ読んでいた薦田愛さんの詩集『流離縁起』(ふらんす堂刊)を読了。
タイトルの文字も弾んで素敵な装幀。いろいろ工夫されて凝っいるところも楽しい。
 ものがたりの語りの口調が気分を作っていて、薦田さんの言葉の湿度や粘度が
降り積もった湿った落ち葉のように敷かれ、その細道を歩いて私も物語世界へ入って
ゆくようだった。繰り返しというか、なかなか進めない行きつ戻りつ感じが歌舞伎
の所作に似ているなんて思ってしまった。足裏やその皮膚の感じや、歩くということが
頻繁に書き込まれていて印象深かった。足裏の皮膚感覚というものは何か、と考えた。
詩は暗い中でぼんやりと灯がともされた範囲だけ見えるといったふうで、明るさが
フェイドイン、フェイドアウトするなかで「どの刻限へも移ろわないプラットホームから、ど
こへ行けるというのだろう」という時空で男や、あなたや誰かが待たれているというふうに
読めてしまった。そして考えていると、足裏の感触というのは暗くてよく見えない環境で
進んでゆくときに頼るものなのだと気付いた。また、必死に求める感じが愛らしく、
それが詩集全体の通奏低音になっているように感じた。だから詩集の最後の一行の
「従うひとを待ち受けている」という言葉を読んだとき、ふいにこの言葉が「石積み」
の詩を抜けて、詩集全体に響いて、この詩集はそういう想いのためだったのかという、
気持がしてきた。「姫振峠」の「ふきこぼれる身体の熱で/ままを炊きました」も印象的
でますますそんな感じがしてきた。
 





[表面張力、並べて]
 
10月9日
 
 表面張力、並べて


 細い草の茎だった
  きりりと雫 
 並べていた
 表面張力

 意志も意地も型くずれになっていた
 このごろ
 
 草の茎に雨の雫が光って
 もっとよく雫をみたい

 あたりの草地も水滴がついて明るんでいる 
 きらきらしている
 でも雨粒をしっかりみたことはなかった
 
 通り過ぎていた草ぼうぼうの空き地の中へ入ってゆく

 しゃがんで草に目を近づければ
 円らな雫がきりりと並んで
 表面張力
 すごいなぁ 重みに耐えている
 一粒の水のなかには 空も地も映し込まれていている
 覗き込む私も 映し込まれて
 しっかりしてよと 耐えている雫の表面張力が言う 

 雫をよくみたいと思ったのは
 このことのためだったのかも知れない 
 
 きのうテレビを見ていたとき
 「それでは あなたのいま一番大事なものを思い浮かべてください」
 といわれたとき
 思いがけず浮かんできた顔に
 鼻の奥がツンとして目が潤んできそうになって
 あわてた
 
 この目の奥の雫も
 あの草の雫のように
 目の奥で
 目の奥のなにもかも映し込んでいるのかも知れない
 
 やりきれないことをきりりと包んで
 きりりと
 表面張力で
 いま見上げた空なんかも 映して


 掃除をしたり洗濯をしたり
 なにごともないような一日を
 しずかな一日を
 仕立て上げているのかもしれない  
 



[夕空がいまとてもきれいだった]
 
10月7日
 今晩はカレーをつくろうと思ってお米を研いでガス炊飯器のスイッチをセットした。
ふと気付くと西側の窓の外が黄色い。ブラインドをあげて覗く。夕焼けだ。雲が金色に
染まっている。気持が暖かくなってゆくような、それでいて日常が裂け、清まるような
そんな気配に包まれた。



[傘が曲がってしまった]
 10月6日
きょうは風が強く、ビル風とも重なって遂に傘の広げた骨が
曲がってしまった。大きめの傘だったけれどジーンズの裾も
濡れてしまって、寒くなってひどかった。

短歌の雑誌『花壇』(本阿弥書店)の1月号のために書評を仕上げた。
江田浩司さんの『ピュシスピュシス』という歌集と
東 直子さんの『長崎くんの指』という小説。

江田さんの歌集には詩も入っていて読み応えがある。
自主映画の三宅流さんの映画「白日」を的確に凝縮した歌が
あり、私も「白日」を見て感銘を受けていたので、そこから
すっと入ってゆけた。
 回る水 私の死から声届き 一人の男になって歩めり


東 直子さんの『長崎くんの指』は初の小説なのに文句なく
面白い。コキリコ・ピクニックランドという寂れた遊園地に
関わって30,40代の女の人達が登場する。切なくて、ちょっと
ユーモラスで、意外で、長崎くんがなかなかにミステリアス。
引き込まれ一気に読んでしまう。観覧車がとても良かった。



[雨の日は光って/『時をかける少女』]


10月2日
 どんよりとした雨の日にも、草の滴はきらっと明るい。道に張り出した花の枝もしずかに
水滴の光を溜めている。

 日曜日に渋谷でとても久しぶりにアニメーションをみた。筒井康隆原作の『時をかける少女』。
ストーリーは学園青春物で、時をかけるためのアイテムも出てきて今風に
アレンジがされていた。絵がきれいだった。夕暮れの川原や住宅街が雰囲気があったり
学校内の机の上の物とか、実験室とかディティールがとても良く描かれて
いた。ヒロインが時をかけて、成り行きを変えて、自分に都合良くやって
ゆこうとしたら他の同級生が犠牲になったりして、それを救うためにまた時をかけて、
という展開だった。最もよかったのは静止した映像が次次映されて止まっている時が
好きな子との永遠の別れの瞬間と重なって迫ってくるところだった。ここは胸を打たれた。
だけど全体的にどこか足りない感じがしてしまった。キャラクターがなにか薄い感じで。
ストーリー展開ではなくその上の何か味みたいなものを求めてしまうのだった。