今月へ

2006.11 分

[ほっとなごむ空]

11月25日
 めざめたら、鳩尾から背中までとても痛かった。背をまるめ体に力をいれて眠っていた。
以前には歯をつよく噛んで眠っていたことがあった。力がはいってしまうとき、無意識に
がんばっているのかも知れない。


 多和田葉子の新作『アメリカ、非道の大陸』を読み始めている。ハリウッド近くの道を
車に乗せてもらって移動している場面がある。なんとなくデビット・リンチの映画『マルホランド
・ドライブ』の映像とくらべてしまう。多和田さんの小説では、なぜ車を運転しないのか、と
うっとうしく質問しつづけられ、運転免許がない人を理解できない人達とのギャプがでてきて、
その差異が土地に流れる日常の匂いを濃く突出させてた。一方映画では、非現実的なものが、
平凡な日常の風景、たとえば道路沿いに椰子の並木がつづいている明るい昼の風景を裂いて
いまにも流れ出てきそうな恐怖が漂っていた。どちらも山肌にハリウッドのアルファベッドが
見える同じ道路を走って、車から見える風景を背景としている。非道の大陸の、非道のどこかで
デビット・リンチが染みこんでくるのかも知れないと思う。

 


[球く添って]

11月24日
 もうそろそろクリスマスの飾り付けが華やかになってくる頃。飾られた輝く球に映るつるっとした
通路には買い物客が歪みながら賑やかに行き交う。通路は乾いていて、照明さえぱりぱりと手に握れば砕けそう。
通路は、まるで薄いカーテンが風で波打つように、揺れて波打っている。

 イメージ・フォーラムでチェコのアニメーション作家、ヤン・シュバンクマイエルの新作「ルナシー」を
みた。哲学的ホラーというふれこみどおり、重厚な神の否定や自由の恐怖、狂気の侵犯がテーマになっていて
痛烈だった。ポーやサドから着想を得た舞台なのだけれど、タンスや敷石のあいだから肉の塊がぐにゃぐにゃ
現れて、あたりを這い回り、牛の舌が動物のようにいったりきたりする。裸の男女が神を冒涜するサド的シーン
も、スーパーのパックの肉でさえぐにゃぐにゃ動くおかげで、型くずれし、それなのでより痛烈に訴えかけてく
る。異才といか言いようがない。「オテサネーク」「悦楽共犯者」「アリス」など振り返るならば、私はやっ
ぱり初期の「アリス」のスピーディーでリズムのある異様な物のあふれ出る異界が好きだ。



[コスモス]

11月20日
 コスモスのピンクの掌に、秋の風がすこしだけ絡まって、すり抜けてゆく。
人恋しく、淋しい秋も、このときばかりは、ぱっと明るい。

 母のホームの秋祭があった。綿菓子、クレープ、甘酒、焼きそば、いろいろな屋台
が出て、風船釣りゲームやゲートボール、ペットポトルのボーリングなどゲームコーナー
も即席で作られた。ひとつひとつ巡りながらスタンプを押してもらう。最後には
スタッフの寸劇、桃太郎が上演される。働きながら忙しいあいまを縫って、開いてくれる
お祭には、お金はかかっていないけれど、手作りの暖かさが籠もっている。桃太郎の出て
くる桃も模造紙いっぱいに大きな桃がピンクに描かれていた。生まれるときは、ハサミで
上からちょきちょきと切るという演出。勢いだけでやってます! と言っているけれど、
元気な若い声が響き、いつも介護してくれる人が演じるのを楽しそうに見ている母の
の隣で、やっぱり今回も目がうるうるしてしまった。展示コーナーには母のジグソーパズル
も飾られていて、ミッキーマウスやマーメイドやなめ猫がはれがましくパズル展と紹介
されていたのだった。



[「ただいま」・覗いてみて]



11月16日
 「ただいま」は壁に取り付けたファイルを支える金具が一つ二つ取れたりしましたが、だいたい
順調です。きのうはちょうど私が行った時に詩集『空に咲く』の五十嵐倫子さんが来ていました。
ゆっくり見てくれてブログに感想を書いてくれました。

私は言葉と写真をセットにしたファイルを力を入れて作ったのです。
なので、手にとってくれた人に、どれが好きでしたかと伺うようにしています。
そうすると、これ、といって指し示してくれる作品が、その人らしくて、なんだか
とても納得できるのです。それが今回の最も素敵な収穫になってます。

 また先日来てくれた詩人で小説家の中村葉子さんは、光文社が出している『本が好き!』という
本の雑誌の次号に私の詩集『青い影 緑の光』についてエッセイを書いてくれました。森絵都
さんや中野柊さん、松尾スズキさんなどが執筆している楽しい雑誌ですので、書店でみたら手に
とってみてください。中村葉子さんはポプラ社から『トンちゃん』に次ぐ二冊目の小説
『ロビンソンくるぞ』を出したばかりです。

 それから、「ポエム・インテリア」で私は透明なガラスビンを使いました。



蓋の穴から覗くと・・カラのはずが・・。というものですが、ビンのなかに鏡を
入れたのです。その鏡を切ってくれたステンドグラス作家のsayu-raさんも見に
きてくれました。sayu-raさんはとても色彩のうつくしいステンドグラスを作るのです。
でもなぜか、職場のおやつのお菓子を撮ってブログに載せたりしているのです。
今回、「ただいま」とお菓子のコラボを載せてくれました。




sayu-raさんのブログから引用
 ↓
 
「今日の東京は時折集中的に雨が降っていました
グループ展が銀座7丁目のPepper's Galleryであり、今回はsayu-ra、
ちょこっと鏡をカットした縁で出かけてまいりました

グループ展が期間ごとに入れ替わり18日まではPROGRAM 2で個人と詩人グループの
企画展になっているようです

詩のグループというと一般的に朗読会や詩の書かれたパネル展示が想像されると思いますが、
絵や画像とのコラボレーションはじめとても自由な創作活動をしています

許可を得てデジカメで様子を撮ってきました


 
左端にあるのが靴下(本当は左に何足かあるんです)
これにも詩が縫い付けてあります

洋服を買ったときにくれるボタンと端切れの小袋・・その中に詩が書かれていて
引き出しにどさっと入っていました(おもしろいでしょ)


壁にあるのはアルバムのようなファイル
手にとって開くと間取り図に詩が流れて!いたり
漫画のような構成になっていたりと、ちょっと小さな異空間

sayu-ra ひいきではありませんが画像と詩のファイルが一番手ごたえありました
色にも強く惹きつけられました

ふと目に留まったものをそのまま見過ごしている毎日が、とてももったいなく感じました
デジカメにとって自分の言葉を添えられたら、そんな一瞬も体のどこかにとどまってくれそうです
でも悲しい事にsayu-ra詩は苦手でねー
浮かばないんです

お仲間に次のように紹介されました
「sayu-raさんはブログをやっているんですよ、おやつをのせて」と

そうしたら・・おやつまでコラボされちゃった!
(今日はコレをいただいたのです)

 
(奥にあるビンの底にsayu-raのカットした鏡が入っていまーす 
ビンのふたに小さな穴があいていてそこから覗くと・・ほら!)

興味のある方は是非お出かけ下さいまし

☆ステンドの天使を作りました

クリスマス用です
ツリーとセットになります
ツリーは白・もうすぐ完成させます 」






[日向ぼっこ

11月13日
 そうして並んで、日向ぼっこをしている。小学校の明るい窓のそばに地球が昼を謳歌している。

 「ただいま」はじまりました。
 
 きょうはあおばさん、かみいとおほさん、中村葉子さん、西元直子さん
直片平ひろとさん、が来てくれた。ありがとうございました。
私もみんなのを見たり読んだり覗いたり。どれもみな工夫があって面白い。
美術の人とも少し話せが、またじっくり見たい。
 会場写真を撮ったのだけど、三脚を使ったのにあまりよく撮れなかったので、
また撮りにゆこうと思う。できれば、水曜日にも行きたい。


[地面から覗くと]

11月13日
 

きょうから「ただいま」が始まります。
午後から私も行く予定です。搬入の途中までしか参加できなかった
けれど、すごくいい感じにできたと聴ききました。

壁に設置したファイルや、「つもりタイル」の貼られた壁や
インテリアのオブジェ、参加型作品などです。どうぞおでかけください。




[すりぬける]

11月7日
 なんだか自然の森のようですが、三茶です。小さな公園には滑台とタイヤのブランコが秋の陽に
照らされていたから、ちょっと足を踏み入れてみた。赤い実がたくさん成っているけれど、地面に
もずいぶん落ちている。清掃の人が3人ほどやってきて熊手で落ち葉をかき寄せてゆく。でも赤い
実はだめでしょう、と見ていると、やっぱり熊手をすりぬけて、きれいになった砂の上に赤い実は
きらきらところがってゆく。きもちのよい線の入った砂に気持よさそうにまぶされている。

三角みづ紀さんの詩集『カナシヤル』(思潮社)。
「Dという前提」が印象的。意外な言葉がある。“将来もらう結婚指輪”が入っている箱、という
ことが書かれている。この詩には墓という闇の容器が出てくる。そして父が釣り糸を垂らす少女の口、
という容器も出てくる。これは「父だけが/所在なさげに/アスフアルトに倒れている少女の/
ぽっかりあいたたくちに/釣り糸をたらす/お父さん/それ、わたしなのよ」というもの。その口は
自分の闇の容器なのだ。自分のくぼみのような闇の容器、は、でも、地上の部屋よりは荒んでいない。
父がそこからわたしの面影を釣りあげているのだ。釣りあげる記憶については父は父の言葉で紡いで
いるのだから、自分の闇の容器のぽっかりあいた口の奥から、手探りでも、自分の言葉で自分の記憶
を編み上げることが出来る。そこが明るい。きっとうまく生きられる。母というものからも、言葉で
新しく編み上げるネットでこれから距離をとることができるだろと思われた。


[やわらかな音を見上げる]

11月5日
 夜の街の光がともると光とともに私の中にも何かが灯る。
 並び立つ街灯のそばへ近づくとやわらかな音楽が流れ出し、光に溶ける。
 私のなかでは光の渦がゆっくりと渦巻いて、どこでもないところに浮き上がる。



[足音を聴いている]

11月1日
 足音を聴いているようにマツバポタンの花が顔をむけている道路。
 だれかが水をやっているのだ。でもその誰かをいちどもみたことがないのだな、と思う。

 キキダダマママキキさんの詩集『死期盲』を読み返す。
 直感と実感から飛びだしてくる言葉は、鮮烈。いっけんカオスにみえる詩なのに
言葉自体は古風なほど実人生の実感と切り結んでいる。そこに惹かれた。“階段下、/
心を隠してきた”“むき出しのデリケートな部分で/世の中を踏みしめてゆく”
“飛び越えてゆく子供が/死んだ人を支えにして/軽くジャンプするんだよ/そうだ/
その軽さが暮らしの屋根だ”“暮らしはいつも死んだ土地の上で/靡く幼い椿/
心の皺をのばしてゆくの/赤い馬がうまれているのです”こうした詩の率直な訴えが
ダイナミツクに届いてきた。