今月へ 2006.12月分 [誰も知らない] 12月31日 映画のキオク 前に見た映画。いつだったか。でも忘れられない。 「誰も知らない」 ずっと前に書いていた感想です。 「誰も知らない」は「幻の光」を撮った監督のもの。抑えた日々の些細な 出来事にていねいに目をむけてゆく人だ。派手なドラマをつくる人達からは受けは 良くない。きっと展開がたどれないのだろう。日々の些細なところで心を紡ぐなかで 心の出来事を転回点としているので、そのまなざしを持てない人には、なぜ、子どもと 仲良くしている母が、捨ててゆくのか、その筋道が理解できないのだ。 是枝監督は、フィクションでありながら実際の時間が侵入している凄みを撮れる。 「誰も知らない」もそう。見ていると、母に置き去りにされた子ども達4人の 柵に囲まれたような時間を隣りの部屋から覗いている気持ちになる。子どもだけの楽しさ。 気楽さ。一番上の明の、気遣い。不安のなかの精一杯の気負い。日々、なくなって ゆくお金。スーパーで食事のための買い物がだんだんできなくなる。それが緊迫感を なげてよこす。だれでも足元から身につまされる危機感だ。水道がとまる。電気が とまる。でもそんななかでも柵の中だけならば子どもらしい楽しさがある。 そして現実は柵の中だけではない。その柵の外と内の往復がとてもはらはらする。 うすい殻がいまにも割れそうで。すぐそばにコンビニにゆく明がいるように近い。 なぜなら、明たちの柵の外として私もいるからだ。外として映画の街の人と私は地続きだ。 日々の生活を支えようとする明のまじめさ。母に子をおしつけて逃げる男達のずるさ。 母の割に合わないという想いと、子どもを愛する想いとの板ばさみ。それにもまして ひどい身勝手さ。大人のずるさ。そういったことがひたひたとやってきて、世の中について、 考えさせられる。ゆきちゃんの輝く目、楽しい塗り絵が忘れられない。 最後のお金で助けを求めて電話を掛けても通じなかった明の苛立ち。 この映画には忘れられないシーンがいくつも散らばっている。 まるで私のことのように。この子どもたちと同じように、誰も知られない出来事を生きている私達。 人は、誰にも知られない時を生きている。そのことがひりひりやってくる。 [真冬のなかでも] 12月28日 一輪がしずかに、でも明るく咲いていた。 樋口えみこさん主宰の ぺんてか 12月号に私も参加させていただいてます。 紹介が遅れてすみません。 今朝、起きようとしたらふくらはぎが攣ってしまった。とても痛くて、とっさに親指 を手前に引く。きのうは耳鼻科へ行って長蛇の列に並び(ドアの外まで並んでた!)アレルギー の薬をもらって、どうにか微熱と皮膚や鼻の痛みが収まったところだった。それでも年末のもろもろ は襲ってくるので、あちらで人と会い、こちらで送金し、門松を飾り、輪飾りを飾り、お供えを 買い、仏花を買い、おせちの準備をはじめ、風呂場を大掃除し、キッチンを大掃除しなくては、 あちらもこちらもと焦り、年賀状にとりかかり、ご飯を作って、洗濯をして、住所録を繰る。 アレルギーの薬は頭がくらっとするので、ついぼんやりしがち。落としものをしたりしてしまう。 でもやらねば。母のところにもゆかねば。 とても、更新している場合ではないのだけれど、体調を壊している友達が、ここの写真が 癒しになるといってくれたりするから、つい。そして私も更新はたのしみ。 押し詰まってきましたが、皆様、どうぞご自愛なさって、よいお年をお迎えください。 [きょうは雨] 12月26日 きょうは雨。きょうは雨とかこうとしてきょうは姉、に変換されぎょっとする。 きのうのクリスマスも天気が持ってくれて、親戚の子供を近くへ案内してゆく ときに、楽しくできてよかった。恋人がサンタクロース♪ではなくて おじさんおばさんがサンタクロース♪ かな。 23日には薦田愛さんの出版記念会。 この日も良いお天気で懐かしい詩の仲間がたくさん集まってくれ、とても良い会になった。 薦田さんは詩集の装幀とあわせたモスグリーンと深緑に紅の小物をあしらった素敵な着物姿。 詩集『流離縁起』の一字をいれた5行詩をみなさんに書いてもらって朗読していただいた のだが、薦田さんは、読む人をじっとみつめて聴いていて、その着物姿がとても印象的だ った。(詩は後でふらんす堂のホームページに掲載されます) ・私の贈った5行詩 明け始めた空から 夢が舞い落ちてくる 薄闇から剥がれ あなたの夜から離れ 私の目の前を舞ってゆく 私もちょうど夢の中から出てきたところだから カーテンを開けたら 舞い落ちてくるあなたの夢が 見えた きっと 昼には詩の言葉へと目覚めるに違いない 黄色い銀杏の葉のように 鮮やかに [些細な、日常のなかの一瞬を抱きしめる] 12月22日 きょうはひやひやし通しだったけれど、なんとかまあまあに落ち着いた。母は やはり頭のCTスキャンを撮った。痛みから不眠になり、整形の病院から他の病院へ 回った母は、CTスキャンの結果、頭の内部は異常はないようだった。ただ頸椎捻挫 の痛みはまだ弱くならないらしい。もうすこし時間がかかりそう。 弥生時代の人が植物と体の似ているところに気付いて、いろいろ名前をつけていった、 ということを知ってからイメージがふくらんでしまう。紅葉した葉が太陽の光を通して 赤く透けているのを目にしたとき、手も太陽の光を通すと赤く透けたっけ、と子供の頃 歌った歌なんかも思いだした。手「て」と木「え」はこんなところも似ている。そう いうみかたや、言葉でみつける世界は弥生時代からずっと繋がっているのだと思うと、 遠い人たちとリンクできるような穏やかな気持になる。そう、そう、この太陽、この 同じ星を弥生時代の人も見ていたのだ。弥生時代は稲作が盛んだった。太陽の恵みを うけて稲を作って収穫して食べた。今晩も私はお米のご飯を食べたわけだし、食べもの もこうして繋がっている。どうして想像力だけが繋がっていないなどということがある だろうか。植物からいろいろ発見したり、感じたりすることは、根本のところで、楽しい し、元気をもらえるのは、ぜんぜん不思議ではない。いつもこうして植物などをカメラ で撮っていることも、些細な、日常のなかの一瞬を抱きしめる、っていうことだし、 遠いところから繋がっている。ここから、弥生時代のひとが身体の部分を名付けるとい う大きな認識の構築を言葉でしていったように、些細な日常を抱きしめることから、 言葉を通して、さまざまなことへ繋がっていったり、発見したりできるはずだ、そう 思った。 [これも木・ボオバブ] 12月20日 いろいろな木があって、いろいろな枝がある。いつも見てない木の形をみるのは どきどきする。嘘みたい。といううれしい驚き。いっぽんだって同じ木はないと、 知ってはいるけれど、ボオバブほど異なった木をみると、はっきり違っているから 、よりくっきり、違っていていいし、いっぽんだって同じ木はない、ということが 確かめられる。 きょうは船橋の湊町小学校でひらかれた千葉大、大学院生の広田早智子さんのワークショップ 「身体と植物の命名に着目した語源教育ワークショップ」の授業参観+手伝いをした。 小学4年生が70人ほど集まっての授業だった。弥生人になってみよう、というもの。 大和ことばのなりたち、ということで弥生時代の人は植物と体の一部が似ていると気付いて、 名前を付けていった、ことについて、体を動かしてイメージしてみる、というもの。 とても子供たちに受けていた。みな活発に、繊細に反応して感嘆。 例えば、木のことを昔の人は「えー」といっていて、それは木の枝が伸びてゆくことが、 手がすっと伸びることと似ている、と気付いて、木と体の手が似ていることから 「えーーー」「てーーー」、てーえー、 というように手を名付けた。それを木の姿をしてみて、枝の感じから、手に気付き、 手、と叫ぶ、というジェスチャーをしてみる。まず担任の先生がやってみせて、 つぎからは子供たちがどんどん発表。みななかなかおもしろく動く。 「えー」のジェスチャーをやった子にあとで、どこが似ていますか、という質問に 木の枝も大きくなると伸びてゆくし、人の手も大きくなるとき伸びてゆく。とか 枝の先が別れているところが、指に似ている。というようにそれぞれ考えたこと を答えてくれた。それがちゃんと「えー」から「手」と名付る似ていることに よりそった考えができていて、すばらしかった。感性がやわらかいのだ。 他にも「めー」から植物の「芽」と体の「目」が似ているという名付けなど があり、これをやった子の答えなどは、そのまま少したせば、すばらしい詩に なるような答えだった。 やまと言葉の成り立ちから、植物と体の似ているところを意識して、イメージ して自分の動きをとおして、また言葉でどういうふうに似ているか言ってみる。 そのことは、言葉へのまっすぐでしなやかなセンスを見つけるといもいい 過程だと思った。詩、なんてかしこまらなくても、まずこんなふうに言葉に 接するほうが、リラックスして繊細な言葉化を小学生達はみつけだす。 それは素晴らしいことだった。 [そこはコスタリカ] 12月17日 馬事公苑のそばの植物園は無料なのです。一足踏み入れれば、枯葉の街は どこふく風。熱帯のくっきりとした夢のような植物やは虫類やお猿さん、な どの生活が繰り広げられています。お客さんがあまり多くないから、みな ばっちりこちらを見てくれます。いつのまにか見られているのは私。 お猿たちも、金網に飛び着き、貼り付いてよくよく私を眺めてゆきます。 じつはきょうもホームへいって母のお見舞いと、偉い人とのお話でした。 こういう難しい話し合いはやはり苦手です。すっきり早く治れば何も問題は ないのです。どうか怖いことがおきませんように。 きのうは現代詩手帖の新人賞授賞式に参加。中尾太一さんは受賞のことば のとき、カオリンタウミの詩と自分の詩を朗読。この人の考えていることは、 コミュニケーションのための共通の通路をすこしでも、難しくても、みつけ だしてゆかなくては。これからは。という危機感に根ざしたものだったよう に受け取れた。ことばを探し注意深くあまり断定はせずに話してゆかれたこ とが印象深かった。 この日初めて野木京子さんや佐藤恵さんコマガネトモオさんとお会いして 顔と作品が一致しまた。だからどうということではないけれど、書いた人が はっきりすると、言葉を受け取るとき収めやすいというようなところは あるようです。それからこの日、稲川方人さんが私の写真をとても誉めて くださったので、驚きました。見ていてくださったのだ。誉められると バカなので素直にうれしいのでした。 [燃えているような] 12月15日 高くブルーの仕切で囲まれた敷地の中で、朱色の炎のようにみえたのは紅葉。 まるで燃えているようで目を引き寄せられた。 一難去って、また、という具合のことがあった。母が怪我をしてしまった。 これは事故で不運としかいいようがない。介護の人が母の頭に物を落として しまった。そしてどういう手違いか家族には連絡がなかった。たまたまホーム へ行ってみると母が痛がっていた。その日に整形外科へゆきレントゲンを撮っ て診察。怒りが湧いてくる。でも、故意ではないのでぐっと押さえる。頸と頭 のことなので心配が残ってしまう。このところ病院へ一緒にいったりホーム経 営側の人と、合わなくてはいけなくて消耗。もしうまく治らなかったら、どう するか、ということなど、考えたくないけれど、整形の先生が教えてくれた怖 いことの可能性まで考えて、文書を取り交わさなくてはなくてはいけないらしい。 偉い人が出てきて謝ってくれるけれど・・ なんとも、首にブルーのコルセットを巻いた母は、あわれな姿になっている。 なんで、こんなに運が悪いのだろう、腰も痛いのに。 [いますか] 12月12日 もう巣立ってしまって、木の梢に、小枝を集めて作られたあの巣には、鳥も雛も いないのだろうか。寒くなっているから雛はもうたくさん厚く羽毛を生やした小鳥 になっているかも知れない。いますか。ねえそこは夜になったら帰ってくる巣ですか。 光文社のだしている『本が好き!』2007年1月号(頒価100円)に 詩集『青い影 緑の光』が紹介されました。 45人が勧める今年読んだ最高の一冊、という ところで中村葉子さんが紹介してくれました。 「言葉の発端や事件の動機が、自分の日常に近ければ 近いほど共鳴は深い。詩集『青い影 緑の光』の 日常は、とてもわたしに似ていた。」ということで 次の部分が引用されていた。 「子どものころ祖母が乾麺を茹でているとき、19世紀末に 生まれた祖母は、うどんの茹で加減を孫に教えようとして、 うどんがみずいろになったら、ゆであがりだよ、と言った。 ワタシはみずいろという声を水色と聞いて、わくわくして、 白いうどんが魔法のようにブルーなにるのを待っていた。」 ここのところはいろいろな人から、おもしろい感想をいただ いたところでした。 [聞こえる] 12月9日 とても寒くなって、真冬になったのを実感。黄色く変色した葉が 路面にはらはらと散って、木の枝はすっきり枝だけを掲げている。 そして、尖端には、小さな実。小さな寝息が聞こえてくる。私は いろいろと心配なことがあって、ちょっと寝不足だった。やすら かな冬の枝が、曇り空に眩しい。 写真のページを更新しました。14回です。 [イメージ的に楽しむ・エッシャー展] 12月6日 エッシャー展には初期のデッサンやノートもあり、エッシャーの変遷を辿れる。多くの展示 のなかには、3次元の映像もあり、空間を体験できた。特に画面を指で触れて、あのメビウス的 な絵を動かせるのが面白かった。 エッシャーのだまし絵的な世界について、ある本を思いだした。 「創造することは思い出すことににている」といった数学者ロジャー・ペンローズの本。 『ペンローズの〈量子脳〉理論』心と意識の科学的基礎をもとめて(ちくま学芸文庫)、には、 茂木健一郎の解説に、ペンローズは「非周期的にのみ平面を覆い尽くす」ペンローズ・タイリングの研究 でも知られるように優れた幾何学的センスがあるという。ペンローズ三角形は、有名な不可能図形 (実際には存在しない図形)。ペンローズの祖父は画家で、ペンローズが子供の頃、自分で思いつ いた不可能図形を描いて、祖父にみせた。その祖父が、そのアイデアをエッシャーに伝えたことが エッシャーが「無限階段」を始めとする一連の絵を描くことの一つのきっかけになったという。 数学もイメージとして楽しむことができるというは私にとって、本当に新鮮なことだった。 [青空の呼吸] 12月4日 気流に乗って流れる雲。水が解かれて雲になって、霧となって消えたり、雨となって降り注いだり。 そうしたことを青空の呼吸と呼んでみたくなる。 3日の群馬詩人クラブの「詩祭」は、4、50人もの多くの詩人の方々が群馬各地から 集まってこられ、とても盛会で、二部の私の「気付かないことに気付くとき」という話し も皆さんがお聴きくださった。数日前に買ったDVDプレイヤーもプロジェクターとうまく 接続できて、写真の投影も無事にすべて映すことができた。 すこしの見方を変えることで、日常のなかで見えなかったものが見えてきて、はっとする ことや気付くことがある。ということをカメラを持ちホームページを更新するなかで、 その新鮮さや、大切さに思い至ったことをお話した。日常の些細な発見や、ちいさな閃きを 抱きしめる。そのことが私は大切だと思うということメモリーズの言葉と映像を交えながら 話し、見て、聴いていただいた。 当日は、幹事の関口将夫さんが丁寧な紹介をして下さった。また新井啓子さんがてきぱきと 進行係りされ、伊藤信一さん(私の卒業した高校の先生)がしっかりした司会をされ、技術系の 中澤睦士さんがプロジェクターのセッティングをしてくださった。また高校の同学年だった 房内はるみさんにもお目にかかれ、FM群馬のパーソナリティーをしている新井隆人さん、や 選者などで活躍されている大橋政人さん、詩の店、まほろばの店主富沢智さん、金井裕美子さん など多くの方とお会いできた。さすがに詩の街だと思ったのは上毛新聞の記者の方がずっと最後 まで私の話を聴いてゆかれたことだった。そして御年91才になられる詩人の佐藤滋さんも いらした。発行されたばかりの群馬年間詩集29号をひらき、帰り電車のなかで顔を思いうか べながら詩を読んだ。佐藤滋さんの詩「月光蘇生」がとても瑞々しく私の胸に迫った。今日映し た私の映像は偶然にも初めの「月の瞳」からさまざまな映像を経て終わりが「月の頂点」。月で しめくくられたものだった。 佐藤滋「月光蘇生」 抄 月光の光が薄い雲に 厚い雲にさえぎられ 地上にも その繊細なしらべをもう二度と 永遠に閉ざしてしまうのではないかって そのことばかりが不安になるよ 凍てつくまでに届く その月の雫で くり返す浄化と蘇生 暗黒に葬られた心情の時計が またわずかにでも 動き出す気がして でも大幅にはズレない 何も変わらない この先に見えるものは 何も 何ひとつ それでもせめて 月光の届くところにいたい その唇が紡ぐ言葉のように柔和な光 髪を撫でる指先のような光の送風 蘇生のための息吹を どうか 今日は さえぎらないで [その葉を読むなら/「気付かないことに気付くとき」] 12月1日 あざやかなピンクがかった紫の花キャベツの葉が、瞳をさまよわせていた。 雫のついたその葉を読むなら、泣いてしまうようなことが葉脈の話しの筋から 読みとれるだろう。 ●お知らせ 12月3日。 群馬詩人クラブ 「秋の詩祭」 で 前橋にて講演をします。 「気付かないことに気付くとき」 というタイトルで詩とデジタル写真から話します。 プロジェクターを使って楽しんでもらえるようにしますので お近くの方は是非お越しください。講演は無料です。 12月3日 日曜日 会場 前橋テルサ 4階 第3研修室 午後2時40分から4時 北爪満喜「気付かないことに気付くとき」 4時30分から別室で懇親会・パーテイーがあります。 こちらは会費4000円となります。