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2006年4月分


[空、空、空、]

4月26日
 春の気温は定まらない。きょうは少し肌寒かったけれど、花たちはいっせいに空、空、空、
と上をめざしている。

 水嶋きょうこさんの詩集『twins』(思潮社刊)を読み始めている。ことばの渦に巻き込まれ、
見慣れないものを目にしてゆく濃さに惹かれている。これまで読んだところで印象深かったのは
 「犬吹公園」。タイトルからなんだろうと思う。幼い頃、母に犬のようだ、犬のようにおとなしい
などと言われた言葉から、今へと続く束縛の通奏低音をひきづり、周りにも姿にも変容が起こる。
犬となるが、「目には見えない首輪をはずし//四つ足で/尾を振って 走り回った」のだ。
そして犬たちのいる公園へ吸い込まれてゆくが、ラストの痛々しく、しかし許す心で、負のなかに
暖かさを灯してゆくところが圧巻だった

「公園にはいつのまにか無数の犬が集まっている。
 目が欠け 口が欠け みな何か言いたげで
 どこかこの世にはいないものに見え
 巻きつく花びらみたいにお互いの体寄せ合って
 むくむくの真っ黒な波立つ毛並みの中に
 お互いの心寄せ合って
 わたしもそのさざめく群れの中へと
 吸い込まれていった」


○小笠原鳥類さんのブログ「×小笠原鳥類」をリンクに入れました。


[まるでステンドグラス]

4月23日
 下からアメリカハナミズキを見上げると、枝と葉と花の感じがまるでステンドグラス
のようだった。

 イメージフォーラムで「バイバイ、ママ」を見る。子どもへの深すぎる愛が
暴走する怖さをまのあたりにする。母性は危険な部分もあるものだと、シングルマザーと
幼い息子の日々が教えてくれた。でももっと驚いたのは、夫はいらない、家もいらない、
私の分身が欲しい、というときの手段として、精子を買うという行為。なんと、注文すると
クール宅急便(のような感じ)で届くのだった。弾ボールのテープを剥がすと、試験管5本
が収められていた。カタログ通販!なのか。こんなに、たやすいことになっていたのかと
肝を潰す。アメリカのことではあるけれど。
映画ではそれは失敗に終わり、赤ちゃんは行きずりのビジネスマンの子どもになっていた。
まだこのあたりは議論がなされているのかも知れない。そしてもうひとつ、考えさせられた
のはシングルマザーになろうと決めたエミリーは、仲の良すぎる両親に育てられ、ほとんど
気を配って貰えず、孤独な少女時代を過ごした、ということ。自分の居場所を、自分と自分の
分身との閉鎖された暮らしで築こうとした幻想世界に逃げ込まざるを得なかったのだろう。
そこに夢をたくして生きてしまったのだ。子どもが幼児の頃はよかったが、6歳になって破綻
がはじまった。母親のいかにも苦しそうな焦りに胸が痛んだが、成長はとめられず、大変なことに。
安全基地。それが問題なのだった。エミリーは少女のときに両親が安全基地となってくれな
かったわけなのだった。人は、なんらかの安全基地を、いくつになっても求めつづけてゆく
ような気がする。



[駐車場の隅で]

4月20日
 カラスノエンドウが花をつけていた。カラスノエンドウは懐かしい。
子どもの頃、小さな鞘を開いて種を抜き、笛のように吹いたことがある。

 実家の用事で前橋にいっていた。昔は賑やかだった中心商店街が悲しいほどに
シヤッター街になっていて、よく通った店がたくさん無くなっていた。それ
どころかビルが一つ、まるごとダメになっている。2003年頃はこれほどまでに
寂れてはいなかったのに。映画館もいくつも閉鎖されている。人がいないので、皆
どこへ行ってしまったのだろうと思っていたら、幹線道路の国道17号線ぞいに
ひろーい駐車場付きの大店舗が幾つも幾つも連なって、ずっと続いていた。前橋は
一家に車が2、3台あるのが一般的だけれど(車がないと会社へ行くのもままならない)、
これほど車に頼ってしまったか、商店街なんか省みないほどに、と思うと、なにか
淋しくてしかたない。
 
 


[「動植綵絵」を見たあとで/緑のランドセル]








4月14日
 このような椿の絵があり、このような花弁の重なりの芍薬や牡丹が描かれ
このような魚も描かれていたのです。見た人なら、思わず笑うかもしれない。
目についてしかたなかったのです。こんな感じだったと。

 このところ日本経済新聞の夕刊で宇宙飛行士、向井千秋さんのエッセイが
「こころの玉手箱」コーナーに毎日掲載されている。尊敬している向井さんの
エッセイをスクラップした。特に4/11の「緑のランドセル」のときには、
向井さんの生き方の源を目にした思いがする。かばん店を営んでいた実家に
見本としてあった緑のランドセルを、「人と違ったものを使ったほうがいい」
と中学の教師の父が使わせたのだという。男は黒、女は赤が決まりの頃。
向井さんは嫌でたまらなかったし、みんなからからかわれて泣いて
帰ってきた、という。でも毎日背負っているうちに緑のランドセルが
大好きになった。「理由は自分しか持っていなかったから。」という。
周りからいじめられたが、自分が「これいいでしょう」と言い始めると
逆に周りがほしがったりする、という逆転を知ったのだ。「あのランド
セル以降、私の人生の態度が変わったような気がする」「目標を追い続け
られたのも、そんな人生への態度が関係していると思う」と語る。小学校
低学年からのポジティブシンキング。両親も、子どもの向井さんの思考を
前向きに変えてゆこうと試練の意味で緑のランドセルを持たせたというけ
れど、やはり逆転をつくれたのは幸運だった。緑のランドセルで小学校へ
行かせられるなんて子どもにとっては突然やってきた逆境意外ではない。
逆境を幸運に変えてゆく力が大切なのだった。周りがどう評価しようと
自分から肯定することは、おおきな可能性を開いてくれることだったのだ。

 

[白いキャッツアイ]

4月14日
 自然石のブレスレットを伸ばしたり縮めたり、意味もなく、手を動かしているときがある。
電話をしながら、ボールペンを持って意味のない落書きの線をうねうね引いているときがある。
手を動かすということが、ほんとは楽しいのかも知れない。

 若冲展。よかったです。
江戸時代中期の画家・伊藤若冲(1716〜1800)の代表作「動植綵絵」の30作品が
4作品づつ分けて公開されてます。宮内庁三の丸尚蔵館。
地下鉄大手町で降りて大手門を入るとすぐ。皇居のなかですが訪れ安いところです。無料。
美しい色彩,細緻な描写,奇抜な構図。この透明な芍薬の花は、いったいどうやって描か
れたのかと、生きているような、しかも形式のある絵に引き込まれ、ぼーっと吸い込まれる
ようでした。



[雨に鮮やかな紫]

4月11日
 きょうは雨降り。この紫の花はダイコンの花だったと思うけれど雨に濡れて
とても鮮やかだった。

 あおばさんから送って頂いた詩集『車輪人間』(詩学社刊)は不思議な詩集で、
オート三輪について書かれた詩のアンソロジーなのだ。それも、えっ、
と驚くけれど、もっと不思議なのは参加者がみな、なにがしかの愛情もって
書いていることなのだった。オート三輪の精(そんなのいる?)が、詩を
書く人をあるトーンにしている感じがする。佐々宝砂さんなどいつもの
書き方と全然違っている。芳賀梨花子さんの詩はもうオート三輪恋愛詩。
そんな雰囲気があるからか、ふと何度も開いて、飛び乗ってしまう。この
たくさんのウタシロさんの挿画が、詩ときちんとコラボレーションしている
のも面白い。そんななか、あおばさんの詩だけがエッジが鋭かった。ミゼット
が現役時代だった敗戦の頃の世相を映し込んでいて、この一冊に奥行きを出し
ている。poeniqueや詩人ギルドといったネットの投稿サイトでテーマを提出
してそこへ参加して書かれた詩がほとんどだった。グループ展のような趣の
ある一冊だと思った。あ、場があるのかな。それぞれ一編の詩のいられる場。
場で集まった詩が、場を持ってこうなったということなのか。俳句などが
場を持って作られるのは通常だから、ネットになって創作の作法が先祖帰り
しているのかも知れない。やっぱり不思議だ。


[上野公園でお花見]




4月9日
 はなびらが散り敷くなかのお花見。詩学の会で寺西さんが呼んでくださった。
いとうさんがおいしい日本酒を差し入れてくれた。三上その子さんには演劇の
ことについて、いろいろな話を聞かせてもらった。クロラさんと初めて会った。
クロラさんは朝10時から席の確保をしてくれたらしい。昼は汗ばむほど暖か
かったけれど、夕方になると冷えた。隣りの席から子犬がやってきて私の膝の
うえでしばらく遊んでいったから、気に入られたのかも知れない。


[椿も満開を過ぎる]

4月8日
 いつまでも寒いから花は長くさいていられるけれど、もうそろそろ椿は咲ききろうと
している。なにか淋しい。椿は子どものころたくさん遊んだ花。そのころは赤く大きな
一重の花だった。子どもの背の高さから満開の花をつける枝だった。花の枝に近づくと
幻想的で、それを幻想というのだとは知らなかったけれど、そこはどこでもない場所に
なってどきどきしていた。ちょうど「千と千尋」の千がハクに匿われるとき、湯屋の庭
の満開の花の木の間を走ってゆくのだけれど、あのいっぱいの花に身を隠されるような
体感はとても懐かしい。


[冷たい風の中]

4月6日
 冷たい風の中、お花見をしている。人々の着ているものや持ち物の色彩が
季節を春だと作っているような感じがする。そうして明るくしてお花見まで
しないと、季節だとか春だとか、実感できなくなっているのかもしれない。
通り過ぎていってしまう時間。置いて行かれる不安。まだ寒くても春にして
ゆく。

詩誌「ひょうたん」28号に水嶋きょうこさんの「多摩のいきもの」4が
でていた。いつもすこし不気味で、存在感がある。今回は、気になる
空き家に入っていってしまって、どうかなってしまう、バランスを壊して
空き家に同化してしまう主婦がでてくる。空き家にうち捨てられた椅子や
ゴミや以前の住人の気配のなかにガラス玉が動いている。このガラス玉が
赤く反射する。多摩のいきもの。「わたしがわたしでなくなる」ような境
にでてくる。そこが面白い。
「ひょうたん」28号には長田典子さんの「夢の坂道」もあった。詩の会
で読んだときよりも、呼ばれることや、ねこと名付けられることの幸福感が
でていてよかった。棚田に横たえた麦の束、や村の秋が、自然の実りとして
ラストで不安定なものを受け止めたから安心感が出ていたのかな、と思うと、
「多摩のいきもの」は郊外というなにかなのだ、とつよく実感。


[反射]

4月4日
 店先で作業している人が、ボードを持ち上げると、青緑のような反射にその場が
映った。あわくて絵のような中に作業の現場が青緑に染まっていた。まったくの
余分なことなのだけど、光はかまわず、ボードを鏡にして、頼まれもしないのに
映しているのだった。


[シーツを掴みます]

4月3日


詩   シーツを掴みます


また こわいのですか?

はい。
朝、目を開くと
どこにいるのかわからないのでこわいです。
薄暗くてどこかへばらばらに散りそうです。

そんなときはどうしますか?

とっさに掌で何かに触れます。すると手にシーツの布が触れます。
ひんやりと冷たい布を掴み、ここはベッドの上で、ワタシは眠っていたのだ
と思い起こします。
肩をなでてみます。腕を撫でてみます。
ワタシがいるようです。

あいまいですか?

さっきまで 夢のなかの
どこにあるのかわからない荒れた惑星の地表にいました。
時のないこわさが寄せてきて 
またワタシを震えさせます。
朝なのに、薄暗くて
半分透けているかもしれない。

半分夢から覚めたのでしょう? 朝だから。

朝は半分にはなりません。
二本の足は一つにはなりません。
二つの目は一つにはなりません。
スリッパが二つあります。右と左。
眼がふたつ有ります。右と左。

だから
夢から醒めるのかも知れない。
右目と左目でみる夢がズレて。
裂け目から 
こぼれ出る。
         
手をのばす。ワタシの隣りには誰もいません。

こわいからシーツを掴みます。
こわいから
顔をあげます。
毛布をはぎます。
             (4/4)