今月へ

2006/5

[こんにちは/メモリーズ5号を作りました]


5月27日

 数年ぶりで、カード個人誌「メモリーズ5号」を作りました。まだ覚えていてもらえただろうか。不安。
今回は形を変えて、紙もキレイなのを使ってます。
もし興味のある人はぜひ連絡くださいね。無料でお送ります。今回は値段をつけないのです。

 白鳥信也さん編集の「モーアシビ」5号に私の詩とカラー写真を載せていただきました。
連絡いただければお贈りします。カラーはカラープリントしたものを手差し。このような厚
遇をしていただいて恐縮してます。

 きのうの詩の会では川口晴美さんが新詩集『やわらかい檻』書肆山田刊をもってきてくれました。
家族のことについての詩、と伺っている。これから読むのが楽しみ。この日は白鳥さん、長田さん、
川口さん、ひさしぶりで来てくれた水越さんと私でした。

 

[遠い空まで滑空]

5月26日
 こうして空を見上げると、何かがオフになり、遠い記憶へつながっていったり、とおい国へ気持ちが飛んだり
する。


[カナリアの声は力強かった]

5月19日
 三宿まで行って、カナリアの鳴き声を聴きました。ぴあをみたら「花と蟲と鳥の声」というアート
があるので近いからちょっと出かけてみたのです。廃校になった小学校の一室に、おおきな白いネット
の部屋のなかの鳥籠に、黄色い本物のカナリアいて、他には映像のカナリアが壁で鳴いているだけ。
他にもインスタレーションはあるけれど、なんといっても黄色い本物のカナリアです。しばらくそばに
しゃがんでいたら、大きく嘴を開け、喉をふるわせて、激しく鳴きました。すごく大きな声で、教室
いっぱい声が震えて、カナリアは全身が弾けてしまわないだろうかと心配になるほど力一杯、声を出す
のです。こんな小さな鳥なのに。全身がホイッスルのよう。澄んだメロディーのパートも混ぜてパワフル
な声で、黄色い花火です。
 一度だけそうやって鳴いてくれた。それだけで私はエネルギーをもらいました。そして反省もしました。
カナリアという名前に弱いイメージを張り付けていることを。だめだめ。レッテルというのはこれだから
危ない。



[水の青/リヒターの「船遊び」 ]

6月17日
 時間と天候によってどのようにも変わる水の色は、できることならずっと見ていたい。
暮れかけた晴れた日の水は、青から藍へ陰りながら時間を夜へと渡ってゆく。

 原美術館でリヒターの「船遊び」を見た。白い美術館の他の作品を眺めながら、ギャラリーの奥の
突き当たりの壁にその青く暗い絵を目にしたとき、はっと息をのんでいた。そこには青く暗い色調の流れ
があって、水面をボートに貴婦人たちを載せた舟が走っている。異界が出現している感じで、時間が
流れていて、深く暗い藍色の川の背景が奥行きへと吸い込むようで、時空が開かれてしまっていた。目眩
のようになって混乱してしまう。これは画布なのだけど、そこは異界としか思えない、魔のような深みに
襲われた。はっきりしない婦人たちの姿。特に顔がよくわからない。何かぼーと目のあたりが黒い。
近づいてみれば顔がわかるかな、と思って近づいてゆくと、そこには、顔という目や眉や鼻や口などは
一つも形がないのだった。白っぽいところと黒っぽいところが流れているだけ。体も同じ。私はますま
す失調し、惹きつけられてしまった。楽しいタイトルの船遊びとは裏腹に、深淵がのぞいている。
顔のパーツがないとわかると、ますます婦人たちの顔や姿が不気味。
・・・そしてその時空があるように思える。
みることとは何だろうと思う。この部屋のはっきりした壁や天井をみている脳がここは現実だという
実感を作っているのだとしたら、あの■のなかを見ていて感じる実感を作っているのも脳の現実だから
どちらの比重も変わらないのかもしれない。質の違う現実が交差しているのかもしれない。
 そして絵の婦人が色彩になって流れているのと同じように、私も色彩になって地上の時のなかを
流れているように思う。質量がずっと大きいだけで。


[草むらのささやき/「三月」野村尚志]

5月15日

 見ていること。草のささやきを見ているように思えること。そこにたくさんの草をみつめた記憶が
蘇ってくる。一つ一つ違う日だった。それぞれ違う年齢だった。きのうと今日の私も一日分だけ生きて
きた時間の長さが違う。

 カレンダーは30日か31日が28日か29日が一枚になっていて、ひと月になっている。
そうすると、ひと月は、1月、2月、3月、4月・・と一枚の紙のモノとして受け取っている。
けれど、よくよく考えてみると、一生に一度しか、その1月は、2月は、3月は、4月は・・ない
のが解る。生きている時間なのだった。
カレンダーの数字の窓を並べている形=生涯で一度しか通過しないひと日の時間の区切りなのだった。
モノだと思っていたら大間違い。生の時間と対応している聖なる象徴でもあるのだ。でもそんなこと
すっかり忘れて日常では便利に使っている。スケジュールを書き込めたり、備忘録になってりする
こともある。でも、日常の姿を破り、生の時間の存在欄という神聖な魔力をかいま見せることもある。
 野村尚志さんの「三月」は生きる時間、生きた時間、これから来る時間について、カレンダーが
恐ろしくも真摯な真相を暴くものになっている。


三月 

               野村尚志 


靴を履いていると 
壁のカレンダーが二月のままだった 
それで 
二月をやぶいたのが 
四月になってしまったのだった 

ひとつきもしないうちだと 
やぶいた二月三月を古新聞に挟み込み 
カレンダーが四月になっているのも忘れていたが 

叔父が亡くなったと父から電話があった 
叔父の隣家の方が様子がおかしいと通報して下さって発見されたという 

検死の結果 一月二十日過ぎ 
心筋梗塞で倒れた 
叔父は 
二月を 
一人で亡くなっていたのだった 

叔父の二月と 
私のやぶいてしまった三月は 
少し違うようにも思うが 

カレンダーが四月のままになっているのは 
私以外に見る者がいないからだ 



 この詩は、生きた時間と紙の上のひと月の対応関係が凄いとおもいませんか。
叔父の二月の欠落。これはもうとりかえしのつかない欠落。生の時間の欠落。
一方、破いてしまったカレンダーの三月。これはとりかえしのつかないのは時間の似姿、
象徴としての紙の一月という時間の枠なのだった。でもそれよりもなによりも、
究極の欠落としての二月の叔父の死と、破いたカレンダー二月と三月の時間の枠は
破くことと欠けることで緊密にシンクロしていて、心に刻まれる出来事だ。
 叔父への愛情があったからこそ、見えたビジョンだろう。
いろいろなことが欠けたり失われたりしながら私達は、なんでもないような四月のカレンダー
の前にに出る。そうしたことが私達の時間なのだよと諭される。












[光も花だった/『夢のてざわり』森山恵/詩誌「カエルの置時計」かみいとうほ]



5月8日
 白い藤棚を見上げた瞬間に、光も花だった、と思い至る。ほとんど、白く透ける光と藤が
見分けもつかないほどまばゆく、澄んでいた。私は何を撮るというのではなく、光に惹かれ
ているのかも知れない。足元には熟れた蛇莓。この実の赤く丸いつぶつぶの光は、遠い記憶
へ通じている。これを撮ったのは6日。この夜、私は夢を見て、その夢から出てくるときに、
懐かしくも、ほとんど忘れていた歌を歌っていた。「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が
茂る〜」静かで、穏やかな春の野の暖かさに気分がひたされていた。目を開けると朝だった。
思いもよらない目覚めで、不思議さがまといついている。

○ 光と影をみつめて、発見をするまなざしの詩を読んだ。
『夢のてざわり』森山恵(ふらんす堂刊)より。

アメンボウT

影 黒い影

猫の足跡みたいな
アメンボウの影
明るい池の底黒い影が滑る
水面のアメンボウよりもくっきりと

五つ 六つ 七つ 八つ
アメンボウの影
秋を映す水の底を
すい すい と行き交う影法師

(略)

生きている影
くっきりと黒く 生きている影
アメンボウよりも生きている
アメンボウの影


 こうした逆転の発想に見ることから導かれてゆくことは
きらっとした躍動感があっていいなと思う。森山さんの詩集
には「炎上」という棺に入った自分が焼き尽くされることを
火のように求めていた詩があり、何かを破壊し、新生を求めて
いる詩なとせがあって、アメンボウもその意識が眼差しの中
の影に反応している。地表のことも体の中も行き来して、い
つもゆらゆらしているのがいいのだと思う。


○ かみいとうほさんの詩誌「カエルの置時計」は掌サイズの個人誌。1、2、3、4号を
送ってもらった。4号は三宅章代さん(若い写真家)が構成している。1号をバスの中で
よんで「くらげ」が気に入ってしまった。雨の日の傘と自分が、くらげなのです。

昔、僕は海の生物で、
くらげだったことがあるらしい。
透明な傘の内側から見る、
雨の降る日の、
濡れた世界が懐かしいから。
玄関ではスチール製の華奢な筒が、
ビニール傘を幾つも詰め込んで、
酷く不安定に立つ。

(略)

雨が好きだ。
水が世界を包み込んでいる。
まるで海のよう。
僕は、くらげのリズムで揺れる。
僕は、くらげのリズムで空を飛ぶ。
そう、雨の日に僕は空を飛ぶ。



 こんな風にしなやかにことばがすすんで、傘と僕が馴染みだし
一体化してゆく。僕の呼吸にあわせて傘が伸び縮みする。そんな
だから「表面が寝息のように、/規則正しく波打ったかと思ったら、
僕は空に浮かんでいる。」というようにうごきだす。すいっすいっ
とイマジネーションと身近なことが何か引き起こす軽妙さは、読んで
いて楽しい。こうした感性が生まれはじめたのだなと思う。

○布村浩一さんが私の詩集『青い影 緑の光』の感想を書いてくださった。
 ありがとうございます。





[江ノ島]



5月5日
 ひさしぶりに海をみて、海の匂いと音を感じる。やっぱりほっとする。
湘南は多くの人が遊びにきている。きょうは地元に住んでいる人に案内
してもらった。鵠沼あたりの道路が幅が狭かったことや、山の上の住宅地
の坂道のきつさにも驚いた。



[発光/「極私的なる多摩王の感傷」を見た]

5月4日
 うちがわから光を発する新しい植物の緑に打たれる。

 
 イメージフォーラムで鈴木志郎康さんの「極私的なる多摩王の感傷」を見る。
多摩美、上野毛校のイチョウの黄色が陽差しに輝いていた。私も学生達の「人生本」を
拝見させてもらいにいったり、上映や上演を見に行ったりした上野毛校のあの中庭のよう
なキャンバスは知っていた。ここで表現することを教えていらした志郎康さんの、表現という
ことに費やした膨大な時間が、みえないけれど見えたような気がして、胸に迫ってきた。
 なかでも、卒業制作の耳のプールは、インパクトがあった。表現といってもこんなユニーク
な例を目の当たりにしては、そのただならない発想と発展に衝撃を受けないわけにはゆかな
かった。学生さん達が、こういうことを形にできるようになるまで、表現の道を開いて進ませ
るということは、どれほど工夫がいっただろうと感嘆。そして、みな楽しそうに努力している
姿が忘れられない。志郎康さんが、表現について講義していた。水に石を落とすと波紋ができる。
その波紋が表現で、石は水の底に沈む。波紋は消えるけれど、石は水の底に残っている。という
ところ、個人映画について言葉を文章で読んだときよりも、講義されているシーンを見たら
とてもクリアに伝わってきた。波紋は消えるけれど大丈夫なんだ、石は底のほうにある、とい
ところ、表現の行為の現場の実感と、その抜け殻ではあるけれど作品の存在。その距離とか支え
とか、そういったことまで考えた。表現を教える声のメッセージと、その授業の終了が、
哀しく迫ってきた。そして、映画を見たあとで、水の感じが生きている時間のようで、
表現の貴重さがそこで揺れるんだと思った。自分が生きている水の中にいるように思った。

見た映画について、川口晴美さんや毛利珠江さんや水越聡美さんとランチをとりながら
しばらく話して、家に帰って、ふと書きたくなって詩を書いた。





[テーブルの上に手を伏せました。]


5月2日


詩  テーブルの上に手を伏せました。


その指先は何をなぞりましたか?

何も。
テーブルの上に手を伏せました。
固いテーブルに
手を密着させると
テーブルが
固く
なにもなぞりません。

ただ両の手で
支えていました。

支えていた
草むらでみつけて
両手の上に 載せて 支えて 歩いて帰った
あのとき

固かった 
黒くて 冷たくて
私の両手の上で 目を閉じていた
 
家の人は はやく土に埋めるようにと言ったけれど
なんでだろう なんでそんなことが言えるのだろと
腹が立った
ほうり出したランドセルをはやく片づけるように
といつも言ってるのと変わらないように言うなんて

しばらくいなくなってしまって
ようやく見つけ出したのに
白く尖った歯が めくれた唇から見えてしまって
いつもの可愛い口じゃなくなってしまっているのが ひどかった
もっと可愛い にゃぁんと鳴く口だった
もっと可愛い 鼻筋からすっとカーブする口元だった顎だった
歪んでめくれて くしいばった歯が見える
その口を結んであげたい

夜露と泥で
汚れた毛並み とっても光ってた黒い毛だったね
汚れた靴 探したんだよ川の淵も薮みたいなところもみんな
汚れた手と指 くろちゃん こんなとこで ひとりで きっと苦しかったよね

触れるとき怖いと思いましたか?

ぜんぜん まったく すこしも
おもわなかったよ くろ
おもわなかつたよ くろちゃん
動かなくなってしまって びっくして 息ができなくなったけれど
息ができなくなったけれど
動かないそのことが怖かったけれど
くろだったから くろだから
ちっともくろは怖くなかった

なぜいま思い出したのでしょう?

思い出したのではありません
覚えているのです
両手を固い机にふせると
両手が覚えているのです
固さにはくろが寄り添っています
寄り添ったところには 
くろを見つけだせた日の私がいます
くろと私がいます


いま暗い気持ちなのですか?

光の多さは関係ありません
くろを抱き上げるときのかすかな草の葉擦れの音を聞いているのです
しずかな昼でした
そこにいる私が
私へと寄り添っているのです


気が弱くなっているのですか?

強くなろうとしているのです
支えあって
互いに骨のように 支えあって
むしろ
くろが
私と私をまみえさせます
目を閉じていても 動かなくなってしまっても

固い体で勇気づけてくれています
くろを見つけだせた日の私がいます
くろの固さは私です

ここはどこですか












5月1日

・共謀罪について
 自由にものを話すこともできなくなる法案が国会で強行採決されそうなにっている、という
ことをみずたさんのミクシィの日記で知る。表現の自由ばかりでなく身近なところにも、監視
が入ってくる。話し合っただけでも罪になり、行為をしなくてもいったん言葉を口から出して話し合ったら
罪は消えない、犯罪とされるおそれがある、というところが非常に恐ろしい。

 「共謀罪ってなんだ?」のサイトの漫画が解りやすい。

 
関連リンク 
共謀罪ってなんだ? 
共  謀  罪?5つの質問?