今月へ

2006/7月分
[詩 うわの空へ/『モーアシビ』6号が出ました]

7月28日
 

 うわの空へ

 波を、といっても見えないし何なのかよくわからない気持の波をくぐって歩いていると
 きのうの食卓が波間に浮きあがってきた。

 蒸し暑かったから、あまり食欲がなくて、そうめんを茹でて、夫と食べようとした。
 長ネギを細かく刻んだ薬味に、わさびも少しつけた小皿を出して、
 ガラスの器によそった白い冷たい麺をぽんとテーブルの夫の前に置く。
 次、めんつゆをよそらなきゃ、とキッチンにもどると
 
 うすいー。このつゆうすい。とテーブルの方から声がした。

 何のことかわからない。まだめんつゆ出してないのに。
 つゆをよそるガラスの器を私は片手に持っている。
 変だと思った瞬間、

 あっこれ紅茶だ、紅茶にネギいれてくっちゃったよ。
 と夫が叫ぶ

 えッ、なにそれ。うそッ、なにそれ。
 
 さっき水出し紅茶のアールグレイが
 ガラスのコップにあったけれど
 確かにコップは似ているけれど
 ひとめ見ればわかるはず

 どーでも いいんだ 食事なんて なんてことないんだ 食べるなんて
 気持の端から きしきしと 固い氷が張り出してくる
 放射状に氷の花が敷き詰められるかと思ったら
 
 あッ はははははッ

 砕けてしまった
 砕け散った氷の破片が
 すうーっと
 夫がうわの空だったテーブルの上空を横切って
 どこか遠くへ滑空してゆく

 アールグレイの紫の香りへ えぐいネギの味が絡んだ
 食卓の上空を滑空して

 込みあげる笑いの波だけに
 まだ揺られている自分の肩を
 眺め下ろして

 私は
 破片と滑りながら
 もう見えなくなってゆく


 私は私の
 うわの空へ 
 でてゆきそうだ 
 
 でてゆく
 すうー

 


●『モーアシビ』6号が出ました。
 詩、写真、エッセイ、短歌、ロシア文学の翻訳、メキシコレポートなど
バラエティーに富んでいます。日記かと思っていると突如一日のラストが短歌
という作品も面白いし、詩作品も元気です。
私は詩と写真で参加しました。写真はカラーで贅沢です。
読みたい方はご連絡ください。


 きのうは現代詩の会があり、詩の合評をした。ゲストも一人見えて作品もたくさんあった。
女3名男3名。これはかなり珍しい。いつもはほとんど女になっていたから。でも批評はいつも
と同じくちきんと距離をとった気持ちのいいものだった。



[引き寄せられて]

7月26日
 ぎゅっと水を押している水鳥の後ろ足が目のなかにのこって、向きを変えるときの
力技のことを考えた。水の輪も丸い波をたて、水面に映る空を揺する。水色のゼリー
のように空が震える。流れがカーブを描くなか、まっすぐに泳ぐにはぎゅっと水を
押して、いつも胸の向きを少しつづ変え続けていなくてはいけない。流れの早い時の
なかで、ときどき失調してもしかたない。完璧でなくても水を掻くことを忘れければ
いいような気がする。





[朱色のやすらぎ/玉三郎演出・泉鏡花作『天守物語』]


7月21日
 このところ義母の病院にお供をしたり、母を病院へ連れて行ったり、母の用事
をこなしたり、家の付き合いをこなしたし、気疲れというのでしょうか、なんだ
か気が沈みがち。いえいえ、用事をしている時はとても気を張っているので元気
なのです。が、夜、ひとり自由になると、がっくりということばがぴったりの、
情け無いありさまになってます。

 そんな中、行けない人のピンチヒッターが回ってきて、歌舞伎座へ。
泉鏡花の『天守物語』を観てきました。白鷺城の天守閣に棲む富姫はもち
ろん異界の者。彼女のところに猪苗代の城から親友の亀姫が遊びにやって
くる。空を渡ってくる予定だから、富姫は人間が鷹狩りで鉄砲を撃たない
ように、越前の夜叉が池の雪姫のところへちょっと飛んでゆき、雷雨を起
こして貰い鷹狩りを中止するようにお願いに行ってくる。こんなところか
らはじまった女同士の付き合いが、ほっとするような楽しさだった。玉三郎
の演出がとくにそうしたところを大切にしているように思える。女形という
ことをつきつめて、女友達のこころやすさ、その絆というところまでいった
ように感じられた。そして、あっと思った。これはとても似ている。高橋
留美子のラムちゃんと弁天とお雪ちゃんたちの空を行き交って集まったりす
るあの感じ。富姫や亀姫の言葉のやりとりも親しい楽しさに溢れている。ただ
富姫へ亀姫が生首をみやげにもってくるなど魔界の凄みの鏡花の世界があるの
で、逆にそのやすらかさが儚いものになって迫ってくる。玉三郎の演出は
本題の図書之助との恋よりも、友愛や戦いのない世というメッセージがより
残ってくるものだった。・・それから、どうしても、声を含め富姫や亀姫は
女の人がそこにいるように思えてしかたなかった。歌舞伎は時間が長い。その
生の長い時間をともに過ごすことが、観ることなのだなぁ、と実感。




[いろいろな表情/『ゆれる』]

7月17日
  向き合っているようにみえる。ぺちゃんこのビニール袋がなんだか話しをしているようだ。

 西川美和監督の『ゆれる』。とてもよかったです。
実直な兄と気儘で自分勝手な弟。でも弟は兄を、兄だけを信じていたから、兄が殺人を
犯したのか、そうではなかったのか、人間関係のなかでゆれうごくとき、その深さが
とても怖かった。人の思いと思い込み。信じていることと裏切りのあいだに、心の境
はあるのだろうか。不確かさが全編を覆うから、考えずにはいられない。
 


[前兆のように/メールトラブル・着信できるのに送信がときどき出来ないらしい]

7月14日
 13日の夜から異様な暑さと湿度で、外にでるとまるでサウナのようだった。そして
きょうはお昼頃の気温が37℃だった。これは陽差しの強さを別にすれば、那覇よりも暑い。
そういえば昨日の空の雲はいつもと違った雲だったから前線の影響が大きかったのだろう。
気温差のアレルギーというのがあって、私は瞼が真っ赤に腫れてしまうことがときどきある。
肌ががびがびになって、痛がゆく、皮膚科にゆくと飲み薬を処方される。でも薬を飲むと
とても眠くなりだるくなってしまう。それもこたえる。 
 
 ところでこのところ私の送ったメールが着かないことがあるようです。
 返事がこなくて変だ、とお思いのかたは、すみませんが返事をするようにというメール
を下さい。着信は大丈夫なので電話番号かファクス番号を記入して頂ければ助かります。
よろしくお願い致します。





[水平線/オキナワ 残波岬・名城ビーチ]











7月8日
 はじめて夏のオキナワへ行く。女友達と二人で海に行こうときめていた。3泊4日のはずだったけれど
台風3号が迫ってきたので一日早く戻ることになってしまった。離島の渡嘉敷島への船が欠航していて、
行けなかった。でも、糸満市の南にひろがる名城ビーチにゆくとそこもとてもとてもきれいだった。こんな
にきれいな海を見て、これよりもきれいな海なんてあるのだろうかと友達と言い合って、渡嘉敷島へは行け
ないけれど残念じゃないとい気持ちになっていった。
 残波岬の青く吸いよせられるような海もすばらしかった。灯台に昇って眺める。見つめる青さに透明に
なっていった私は空っぽの軽さで嬉しい気持ちでいっぱいだった。けれど友達は青すぎて切なく哀しい感じ
がすると言っていた。しじんだね、なんて私が茶化すと、ある歌を思い出していたのだという。友達は歌を
歌う人だから、内側に響いていた音があったのだろう。私には聞こえない音楽が。
 この岬は読谷村にある。静かな岬には広い駐車場の他には灯台しかなく、岩肌と絶壁がはるかに海を縁取
っていた。読谷村に移り住んでいる詩人の野村尚志さんに連絡してお目に掛かった。というよりも案内して
頂き友達ともどもお世話になってしまった。ありがとうございました。野村さんが、こちらでは詩集をじっ
くり読めると語られたことが印象深く残っている。どこにいてもインターネットで詩集が買えるのはほんと
うによいなと実感。
 今回はいろいろおしゃべりをした。知らなかった友達の一面や、懐かしく思い出した昔のことなど、揺れ幅
が大きい旅行ができて短かったけれど、たっぷりしていた。
 そして、今回も変更出来ないチケットだったにもかかわらず、ANAの方がイレギュラーの振り替えをして
くれた。高い正規の航空券を買わずに済んでほんとによかった。


[なんども振りかえる]

7月3日
 もう7月になってしまった。
 「メモリーズ5号」について、感想を下さった方々、ありがとうございました。
現代詩手帖7月号、詩誌月評の杉本徹さんが「風のような姿」とノヴァーリスの
言葉をかりて形容してくださった。
 いっぽづつこれからも進めてゆきたいと思います。

 東京ポエケットに参加したら(関富士子さんが誘ってくれたので)、奈良から来た
若い詩人と隣りのテーブルになっり、山梨から来た流川透明さんと初めてお会いす
ることができた。詩学へ投稿している人でどんな人だろうと思っていた人とも何人か
と初めてお会いできた。みな同人誌を工夫を凝らして創っている。隣りの席になった
タカミネリョウさんの詩誌はプロ級のきれいなデザインだった。また
ウタシロさんや杉澤加奈子さんたちの手作り詩誌もお店を出していて、おもしろ
い装幀の「愛」という詩誌を買ったりした。
 また此之下真也さん、我蝶ボルカさんとも数年ぶりで会えたのだった。場があって顔
が見えることは、とても大切なことに思う。ただ叫ぶ朗読はどうも個人的に聴くのが
辛い感じがしてしまう。
 それから五十嵐倫子さん、あおばさん、柴田千晶さん、嵯峨恵子さん、阿瀧康さん
とも会えた。なんども忘れものをした帰りがけに杉本徹さん杉本真維子さん石田瑞穂
さんとも帰りの道でばったり会えたのだった。
 ポエケットを主催して、頑張っているヤリタミサコさん、いつも、ご苦労様です。

 
  [表現は「今を生きることだ」といったときの、その「今」というのは、表現が作る形の
細部が持っている時間といえる。表現者にとっては、それは一つ一つ作る細部が孕んで
いる時間だ。その時間は時計が刻んでいる時間ではない。物と事が為し遂げられていく
時間だ。それは書かれつつある詩の一つ一つの言葉が孕んでいる時間だ。詩を書くため
に、一つの言葉を選ぶということは、書いている人間が意識するしないに関わらず、その
言葉の本来的な意味と同時に、選ばれ関係づけられたところで生まれてくる新たな意味合
いを生み出すということだ]鈴木志郎康「表現の現前性」抄

 という事の後での表現の抜け殻が詩誌なり詩集なのだが、そこを生きた人、がそこに
自主的に集った。そう思うと詩が生き続けられる希望がわいてくる。