今月へ

2006/8月分
[風が気持よかった]

8月31日
 きょうはちょっと大きな地震があってびっくりした。家にいたけれどしたことは
とっさに床にしゃがみ込んだだけだった。猫も椅子から飛び降りたので、猫を呼んで
怖かったね、としばらく猫の胴に手を回していた。それから実家のお寺とこの家の
お寺にお彼岸の御経料や卒塔婆料、御供物料などを振り込みに郵便局へゆく。これで
5万円近く飛んでしまった。わたしは一人っ子だからしかたないけれど、お寺によって
は高いものだな、とつくづく思う。

 森絵都の小説『風にまいあがるビニールシート』を読む。さまざまな思いで働いている
人たちの今が、ひりひりとやってくる。仕事へのプライドや入れ込みが、ときに可笑しく
ときに切なく、関係のなかで揺れ動きながらやっていっている大人の女の事情。いまの
ストリーだなと思うところがたくさんあった。数話のなかでも、特に「風にまいあがる
ビニールシート」は国連職員として難民救済の仕事を通している同士の恋人との出来事。
互いの心の繋がりと個人の歴史の中でうまれた大切なもの、のズレ、それぞれの中で
できあがる心の形のズレなど、はっとさせられた。個人の私的なところが外と繋がって
いることを、こんなにくっきり見せてくれたものを初めて読んだ気がする。



[実ったもの。生きたもの。]



8月26日
 いつもこの道を通っている。いつもの癖がでて、また知らない内にうつむいて歩いていたら
蝉が落ちていた。土に紛れることも、草に隠れることもなく、蝉が仰向けになっているのをみ
て、ああ死んでしまった、と7日間ほどの夏の命のことを思い巡らせた。でも、そうじゃなく
て蝉は生きたのだ。成虫になり、鳴き、生きたのだと気がついた。都市でもしっかり蝉が夏に
は鳴いているじゃないか。そんなふうに自分につっこみを入れていると、ふと
「生まれてしまえば同い年」という
沖縄のおばあの言葉が蘇ってきた。悠久の時間からみれば100歳だろうと10歳だろうと死
ぬまでの儚さは変わらない。みな同い年みたいなものだ、というような意味だった。若いだの
年だのけちけち比べない、ことにはっとしたのだった。

 きょうはいまごろ、歴程夏のセミナーでいわきに行っているはずだった。
アレルギーの微熱が続いていて一昨日に取りやめだのだった。
すると一昨日、詩歌句の授賞式の前のディスカッションのパネリストに編集の山下雅人さんから
呼ばれ、こちらは会場も近いので、きょう神保町まででかけたのだった。
 司会は俳人の斉藤慎彌さんで、俳人の五島えみさん。歌人の方は欠席され、
詩人は白石かず子さんと私だった。「詩歌と肉声 朗読の可能性を問い直す」というテーマ
なのでそれぞれ朗読をすることに。準備時間かなかったので、私は詩集に入れた椿の写真と
観覧車の写真のA全のものと、メモリーズの「哀しいことがたくさん」「シーツを掴みます」
の写真をプリントしていった。白石さんは和紙に筆で書いた巻紙をひらきながら読み、うねり
のある声。俳人の五島さんは朗朗と節回しをつけて読まれたのでびっくり。世界が違うかもしれ
ないと緊張してしまった。
 朗読に関してはどうかと聞かれたので、「作品は言葉の世界として自立している。
たとえば円のように。そこに写真をコラボレーションするのは或る意味、円を壊すこと。
一旦壊すことによって、より大きな円をめざしたい。」ということを答えた。そして
作品が受け取った人の中で、見ることや聴くことをふくめ新たな円として完成する、という
ことを考えている、と答えた。
 ただ会場はほとんど俳句、短歌の方たちばかりのようで、緊張は継続。体調の関係
もあって早退させていただいた。白石さんが、私に、あなた愛を書きなさい。ラブよ。
そうでないと技術がもったいない。と何度も言ってくださった。帰りがけに、詩学の選評
で2回ほどご一緒した柴田三吉さんに久しぶりにお目にかかり懐かしかった。




[空洞の木]



8月21日
 しっかり賑やかに枝を張っている湯島天神の梅の木。でもロープをまたいで裏をみてみると
ほとんど半分に裂けていて幹が空洞になっている。苔までこんなに着いてしまってそれでも生
きている。すごいなぁ。


今井義行さんの私家版の詩集『ライト・ヴァース』を送っていただいた。
どんなふうに生活し
(食べたり、働いたり、パソコンをしたり、人を思いだしたり、修理してもらったり)
何を考えたり、気付いたり、躓いたりしているのかが私信のように身近に、
迫ってくる詩集だった。詩が好きで好きで一日一編、おひるやすみに書いたとある。
詩としてはつきつめずに、言葉で意識化したところで形にしてみる、というもの。
そのタッチの軽さを今井さんはライト・ヴァースと表現したのであろう。
今井さんのこれまでにない書き方だ。これまでは躓くことから、
ぎりぎりなところまで考えや気持を追い込んでいって、詩の言葉の現場で
核心に届こうとしていたような趣があった。今回はだから、私は、今井さん
の発見を、言葉の形を通して、まるで自分の発見のように受け止めることができた。
フレーズを覚えていて、ときどき言ってみた。こんなことはこれまでにないことだった。
「無免許」という詩の、まっしろな気分、はかけがえのない自由なアクション
を夢見させ、いくらか実現させてくれる。危ういけれど素晴らしい世界だ。
そして危ういからこそ、それを消す者に対して強烈な敵意が湧いてくる。
それをも含めての、無免許なまっしろな気分、はなお素晴らしい。



 無免許

やわらかい雪がふりだして
遠くやわらかく
積もって
まっしろな野原がひろがったので
無免許で
野うさぎになる

走ってあげる

骨になるまで走ってやる

こんなにも
ゆたかな後ろ肢は
そのように使われるべきだと思う
そう思うより
前に
ゆたかに飛び跳ねた!
飛び跳ねた!
うれしくって
飛び跳ねた!
しあわせな命じゃあ

どうしよう
こんな
無免許な
まっしろな気分
こんな
野うさぎを誰も取り消しにできぬ
取り消したら
殺してあげる

しろいからだが
骨になるより もっと速くに



[なにげなく、懐かしい]

8月19日
 なにげなく木立をみていると、とても懐かしい。この森はたまたま訪れただけなのに、
すっと呼吸になじんでくる。こどもの頃、どこまでも平らな北関東の平地にも、すこしだけ林が
あった。平らな地の木々の茂り。もうほとんど忘れてしまっているけれど、木のたたずまい
は、そんな木々の下の夢のような探険などを遠く響かせるのかも知れない。

 フランソワ・オゾン監督の映画「ぼくを葬(おく)る」では、病でもうすぐ死んで
しまう青年が主人公。彼はそれまっで周囲に心を閉ざしていたのだが、死を意識す
るようになって変化する。そのきっかけとなったのは、幸せだった頃の子供の自分
の幻が現れるようになり、明るい気分を彼に思い出させたからだった。オゾンはい
つも生々しいく一筋縄ではゆかない関係を描くことが多い。この作品にも、そうした
びっくりする生々しい関係が出てくるけれど、そこを、心を開いた真摯さが貫いて
ゆく。病への怒りや拒絶や恐怖が青年を襲わないわけではないけれど、それでも
彼は子供の自分に助けられているようにみえる。
 ときどき、私も息詰まったときに、おもわぬ拍子に遠い子供の頃の事を思いだしている
ことがある。遊んでいたりするなんでもない場面だけれど、無心なような気分に、助けら
るように思うことがよくある。だからオゾンの明るい子供の幻はとても共感できるの
だった。 




[羽根]

8月16日
 お盆なので墓参りに実家の菩提寺へいってくる。
 炎天下で暑かったけれど風が心地良く、涼しさを感じた。家にはさるすべりの花が咲いていた。
手入れをしていない伸び放題の枝が、ピンクの花を付けふわりとしていたのが救いだった。
親戚の人とあったりいろいろ用事を足して、帰りに温泉によってゆくことにした。森のなかの池で
はカモたちが水面を揺らし元気よく泳いでいた。人間に慣れているのか餌を求めて近くまでやって
くる。ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい、と鳴いていたような気がしする。そのとき、ふと
カモの背中をみると、羽根の一本一本が伊藤若冲の描いた羽根と同じだと思ってはっとした。
中心線が真っ直ぐ白く通っていて、シンメトリに左右に分かれ、変わった団扇のようにひろがって
いる。絵をみたときはくっきりしすぎていて、若冲の頭に浮かんだイメージだろうと思ったのだ
けれど、いまカモの背中を覆う羽根に目を落としていると、絵の形にそっくりなのだった。
いままでカモを何度も見ていたのに、羽根のことに気付きもしなかった。気付かないことに
気付いた、はっとしたひとときだった。



[手をのばす]

8月8日
 光を受け取るように、手を伸ばしている葉。光を受け取る掌を光は振動させているかもしれない。
ガラスを通ったときにもう星となった日光が、瞬いて音をたてている。



[仙川/『水の花』]

8月6日
 昨日はひさしぶりに仙川へ。ふらんす堂の山岡さんと、薦田愛さん、有働薫さんと合う。
安藤忠雄設計のマンションと美術館のある通りを回って、よそいきの雰囲気を抜ける
と仙川の賑やかな商店街へ。仙川はおいしいお店がそろっているようで今回もおいし
かった。冬瓜のフルーツソース煮をはじめて食べる。甘くて冷たくておいしかった。
ひさしぶりにたくさん話してたくさん笑いました!

ふらんす堂のホームページで、山岡さんのブログ「編集日記」2006.8.6 にデジタル写真について
昨日話ししたことが紹介されてました。よかったら覗いてみてください。



 その前にユーロスペースで木下雄介監督の『水の花』を見る。
壊れた家族からはじまって、父と暮らす中学生の美奈子がなんとか
危ういバランスをとっていたのに、自分たちを捨てていった母が近くに
越してきて、父親のちがう小学生の憂といるのを知ってから、
混乱してゆく。美奈子が憂をつれて東北の祖父母の空き屋になった実家
へいってしまうのだが、二人が一緒にいる間に、二人におこる気持の
往来が迫ってきた。美奈子は母の愛をうけている憂に嫉妬していながら
幼い憂を見守る母のような気持にもなり、息苦しい家からの開放感
を楽しむなかでも、憂への殺意も持つ。二人のままごとで憂と美奈子
が遊ぶとき、美奈子がちいさな子供になって憂が母親役になってと、
自然に役割りを入れ替わるところが引き込まれた。
 大人の都合でできてしまった関係を越えてゆく。供にいっしょにいる
ことが特別な力となってまっさらな一人と一人の豊かなコミュニケーション
を開いてゆく。二人遊びのところが私はもっとも花だという気がした。
 監督は23歳という若い青年なので仕方ないけれど、口紅を塗るとい
行為を何度か出してきてそれぞれの意味をつなげながら通過儀礼の形を
つくった。そのこと自体は良くできているけれど、少女の成長の通過儀礼
は口紅を塗ることなんかでは起こらない。映画のなかではちゃんと母を否定する
母を自分の外に追い出す、いったん裏切るという道筋があるのに、
それこそ大切な成長の要素なのに、母を受け入れる口紅にしてしまったのは
男性のファンタジー。残念だった。



[明日の神話]


8月3日
 先日、汐留で展示されている岡本太朗の「明日の神話」を見た。
巨大な壁画から赤く強いエネルギーがやってきて立ちつくす。
原爆の絵なのに絶望ではないところが混乱させ、見つめさせる。
スペインで見たピカソの「ゲルニカ」は悲惨さが肉弾戦の悲鳴と
血の匂いとなって溢れてきていた印象だった。けれど原爆は、
巨大な一度の大爆発で地上を壊滅させた。その空からの火と、
地平や水平線のある地上との空間が広がっていることで、悲鳴よりも
この世にもたらされたすさまじい破壊力がの方が強くやってきた。
 見ていると絵から破壊力というものが突出してきて、どこかで
滅ぼすパワーが、創造のための破壊のパワーへ反転しているように
思えてきた。尖った嘴のある赤く丸い大きな目が、ぎょろっと
こちらをにらんでいる下で、よわよわしく震えている小さな生き物
もこちらを向いている。死者が黒い気流のように流れていて陰惨
でもあるけれど、生き延びているいろいろな生き物も見える。
 これほどのことがあっても、明日へ続く命があること、また
始められるという物語が「明日の神話」なのかも知れない。

 会場には何人ものスタッフがいて、絵の説明をしてくれたり記念撮影
をしましょうかと声をかけてくれる。多くの人が記念撮影をして帰って
ゆくようだった。私は絵と向き合ってあるカフェで少しゆっくりコーヒー
を飲んだ。


[詩 月の頂点]


8月2日

 月の頂点

 シートベルト着用のサインが消えて
 夕暮れの機内
 丸い窓の外に雲海が遠のいてゆく
 台風に迫られて 一日早く終わりにした旅行の帰り
 遠のいてゆく青い海とハイビスカスの海岸が
 日焼けした右手の甲の肌の上にひりひりする
 ひりひりするのはずっと右手でカメラを持って
 陽差しの中へ差し入れていたから

 丸窓の外は白い雲が深まる空の青に浮いて
 あの青は 海じゃないのに
 海のように見間違って
 海面を航行する船の小さく白い点を
 上空から
 目を凝らし探してしまう

 青に溶けて
 わたしはまだ
 珊瑚が微塵に砕けてできた白い砂の上
 ビーチタオルを頭から被りながら痛い陽差しを避け
 深く青い水平線をカメラを掲げ撮っている
 浜辺の波音が繰り返し耳を流れ
 撮りながら吸いよせられるように波打ち際へ近づくと
 打ち寄せる波に入っていった 
 
 海水に足が浸されると 
 一瞬 冷やっと
 水平線が 水となってなだれ込んでくる
 このまま どこまでも水の中へと歩いていってしまうのは
 どんな気持だろう

 海水の中で 膝を持ち上げるようにして 
 ぎこちなく歩いて 海原を撮り続けた
 珊瑚礁の海は浅く どこまで歩いても水は腰までしか
 来ないけれど
 ひたっと波に腰のあたりを打たれるごとに
 何かが抜かれる
 抜かれるように不安で
 帰れなくなってしまいそうで
 砂浜を振り返りたくなる

 すこしづつほころんでゆくハンモックの網目のように
 しずかに消えてしまうのか
 結び目が 
 波にさらわれでもするように

 振り返ろうとして水の中で体をひねると
 危うくなったバランスに カメラが上向き
 むくむくとわき上がる巨大な嵐の雲を 遠く捉えた

 いま見えているのはあのときの嵐の雲だ

 丸窓から遠く広がっている雲の嶺や雲海を
 みつめるともなく眺めていると
 「お飲み物はいかがですか」とサービスの声に呼ばれた
 はっとして 振り返る
 雲から 目を引き離そうと
 振り返ると 丸窓の天頂あたりに
 小さくて明るい月の光がぽつりと光る

 三角の波頭のように よせてくるものを
 あの月を頂点にして
 三角形の斜線で繋いでみようか
 
 去年出会った山奥のニホンカモシカも
 空き地を縫って帰ってくるクロやミケも
 地上のどこからでも見える月の
 三角のアングルで繋がれる
 
 書類を持って移動する夫も、
 テラスで鉢植えに水をやる妹も
 携帯電話で話しこむAも、子どもの手を引くOも、
 車の運転をするNも、
 そうすれば
 機内にいるわたしと
 月を頂点にして 繋がってゆく
 
 月の光に斜めの線を放射状に
 きらっとさせる 
 光の環のように
 中空で