今月へ 2006.9月分 [なぜ逃げないのか] 9月26日 きゅうに肌寒くなって秋めいてきた。赤トンボが飛んでいたからそっと近づく。 トンボはなぜこんなに近づいても逃げないのか。人の素手に掴まったりしてしまうのか。 羽根があるのに、すばやく飛べばいいのに。 詩誌『豆』三号を読んでいた。大谷良太さん編集。 野村尚志さんの「隙間」。意識の変化を追ってゆける面白さを 今回もまた読めた。惹かれる詩が並んでいるなかで、 十亀わらさんの詩「月の砂粒」がとても気になった。 「深夜 自販機を 繰り返し殴っている人を見た」からはじまっていた。その 人は大きな声で笑っているのだった。そんな夜の歪みの迫ってくるものを 通り過ぎながら家に帰って、夜の空気に触発されるように、消化できなかっ たいろいろな言葉や出来事が自分の中で苦しく騒ぎだしてしまう。そういう記憶 が私も蘇った。「ぽこぽこ建ち並ぶマンションの 小さな一室に帰っていく 忘れてしまえばい 忘れてしまえば」まできたとき、一人で働いて暮らして いたころの記憶がばぁーと蘇った。その苦しさやきつさを、わらさんはなだめる ような言葉へ向けてゆく。自販機を殴っていた人が疲れて眠る朝に、「わたし」 は月の砂粒になっていてもいい、というようにもう一度殴る人が出てきて、意外で、 立ち止まった。消えてしまうように砂粒になることは、自販機を殴ることの 裏返しなのだ、と思えてきた。殴るか消えるか。そういうことが迫ってきた。 詩を読みながら自分が書くときのことについて考えはじめていた。 [金木犀の香りのなかで/映画『ストロベリーショートケイクス』] 9月25日 歩いているとどこからか金木犀の香が漂ってくる。数年前、金木犀の香水を買ったのを思い起だす。 秋の緑は、どこか静かで人恋しくなる。 映画『ストロベリーショートケイクス』をみました。すごくひりひりしていた。 魚南キリコの原作。四人の女の子の日常が、それぞれ断片的に描かれてゆく。 仕事もうまくゆかない。恋愛も難しい。もちろん人間関係も。食べて生きてゆくこと の孤独。苦しさと夢。そうした四人ぶんの断片がいつしかパズルのように組みあわ さったり、すり抜けたり。この共感は、引き込まれ方は、女だからとかではなく いまのこの時代を生きていることからくるような気がする。 いつも部屋のなかで棺桶に入って眠る秋代。隕石のような石を拾って神様にみたて て恋人を願っている里子。サービスしすぎてきらわれるOLのちひろ。イラストレーター を仕事にしていて、きつい日々を過食と嘔吐でやりすごそうとしている塔子。みな ほんとうに愛しい。エンドロールを見ていたら保坂和志がでていた。どこだかわから なかったので、気になってサイトをみてみた。するとデリヘル嬢の客の一人だった。 (なんだかなぁ。) 漫画で読んだときもあっ、と思ったのはずっと流した涙をガラス のビンに溜めていたりしたこと。それが映画になってすごくいい入り方をしていた。 なんだか励まされました。 [いま一番人気のあるブログ] 9月23日 このごろはホームページよりもプログが主流になっている。 そんな中でいま一番人気のあるブログが きっこのプログ だという。私はブログには乗り遅れているものの、どれどれ と訪問してみた。何か面白いことが書いてありそう、と。 そうしたら、びっくり!!ホラーよりも怖いことが書いてあった。 ようやく秋めいてきて、夏の暑さが去ったきょうこのごろ、 真夏だったら、こんなヒヤッとすることでも涼しくなったかも、 などと冗談でも飛ばさなくてはやりきれません。 [まだこない風をずっと待っている/『蟻の兵隊』] 9月22日 少し歩かなければいけない。駐車場の丘へ道路から階段を上ってゆく。この階段の上はアパート の駐車場だから私有地かもしれない。でも昔、此処を上ってゆくと公園への近道だと教えてくれたの は派出所の人だから、通り抜けてもいいらしいのだ。階段を上りきると風草がわっと生えていた。 まだこない風をずっと待っているような草。草そのものが風の趣で、子供の頃からこの草が好きだった。 イメージ・フォーラムで『蟻の兵隊』を見ました。衝撃でした。 80歳になった奥村さん達は、まだ戦争が終わっていないのだった。 中国で終戦後も、日本軍の命令により中国に残り戦争を続けされられた部隊があった。 2600人が日本軍として中国共産党と戦争させられたのだ。それなのに 日本に帰ってきたら軍籍が剥奪されていた。政府はおまえたちはかってに残ったのだから という理由で、認めない。 80歳になった奥村さん達は命がけで訴訟を起こしていた。 2000年に訴訟を起こして、それを現在の国がいまだ認めない。 過去の国が事実を認めないだけではなく、現在の国も認めない、 ということは戦争の何かが現在も終わっていないということでは。 杖を着いて中国へ渡り、戦争の現場を辿り、真相を明かす証拠の書類を 探し回る奥村さんの曲がった背中が痛かった。中国の人達の協力も痛かった。 [目を向けていれば] 9月15日 街の靴屋さんに掛かっていたカレンダーにびっくり。山羊がいままさにジャンプして 崖から崖へ飛び移ろうとしている瞬間があった。これほど危険なところに山羊がいる だけでも驚きなのに、飛び移るなんて! 山羊は対岸の着地する岩を見つめているよう に見える。目を向けていれば、そこへ飛び移れる。そう言っているような感じがする。 言ってはいないけれど、山羊の顔を見ていて、はるか下方の青い地上の遠さにひヒヤリ とするものを覚え、必死の命の躍動に感動して、聞こえない山羊の言葉が聞こえてきた。 よく見ると後ろ足が力強い。わたしも力強く地上を蹴ってみたいものです。 [すべり込む霧] 9月9日 目を閉じようとしたとき、すべり込む光景がある。みようとしていなくても見て いたもの。あの水面をゆく白鳥が懐かしいのは、少女の頃、白鳥のいる公園の池の周り を巡って、歩いたからだろうか。あの頃女子校と男子校に別れていたから、ときどき 交換ホームルームというものがあった。男子校のあるクラスと女子校のあるクラスが 一緒に話したり遊んだりする。女子校のクラスを指定して申し込んでくるのは男子校 の方だった。グループに別れて何かしたような気がするが忘れてしまった。でも、 学校を出て、なぜか公園を散歩するオプションがついていて、そのときのぎこちない やりとりや、無理をしてしゃべりまくった男の子たちのことはよく覚えている。 でも、名前とか顔とかもう全然覚えていない。それよりも池の白鳥のほうに見とれ ていたのか? そうではないことを祈りたい。 ・・で、その女子校の同級生だったという方から詩とエッセイの『庭の成長』という 本を送っていただいた。面識がないけれど、廊下ですれ違ったかもしれない。不思議 な感じがしてくすぐったい。 [カウパレードに遭遇] 9月6日 これは何? もしかしたら、これが噂のカウパレード。 この牛は、大手町のパレスホテルの前にいました。 近づいてみると、プレートに「カウパレード」と書いてある。あっ、今日から始まったのだ。 どこかの倉庫で出番をまっていた60頭以上の牛が、ついに街に繰り出したのですね。 インパクトあるし、意外な出会いがとても楽しい。 スイスのアーティストから始まり、シカゴでもその土地の人たちがカウパレードを開催し 日本でも一般の人や小学生も参加して始まったようだ。みんな興味深そうに見てゆく。 ぱっと街の雰囲気が変わるし、文脈が変わる。アートって力があるものですね。 たった一頭の牛なのに、遠い地球のどこかと繋がっていることや、動物のことや、環境の ことなど、いろいろ考えが刺激される。他のもできれば見て見たい。 [マニキュアを落とす] 9月4日 空をみあげると、どことなく9月だな、と感じる。もう真夏の雲とは少し違う。 ちょうど二ヶ月前、那覇のホテルで友達のマニキュアを借りて足の爪に付け、素足で サンダルを履いてもきれいに見えるようにした。それだけでとても気分が変わって楽し かった。で、めったにしないことをしたから、とはいうものの、ずーと落としそこねて、 きょうになって除光液で拭き取った。おそろしいずぼらぶり。自分でもあきれてしまう。 だから、私はおしゃれができない。おしゃれはマメでないと無理だと思うし、時間もか かるし、気もつかうし・・・。そんなだから、やっぱりそういうことを楽しみに思えない かぎりおしゃれは遠い。 DVDで「ハウルの動く城」を見た。映画館でも見たから、今度はもっとソフィーの 気持に近づけたり、ほんとは臆病な魔法使いのハウルの落ち込みもわかるようになった。 ちょっと難しかったハウルの城の崩壊も納得できた。あの城と一体の炎のパルシファルを 城と分けなくてはいけなかったからだ。城を脱皮して、パルシファルだけになって、その 力で、戦いに傷ついているハウルを助けゆにく、ということをソフィーは敢行したのだった。 やはり映画を何度も見るのはいい。その度に見え方が違ってくる。 [散歩日和] 9月2日 きょうは陽差しが強かったけれど、湿度が少なくてさらっとしていて 散歩日和だった。久しぶりに母と一緒に散歩をする。母は一時足が重く なってしまい、また外出は車椅子になっていた。が、再び回復して歩行器 を使って外出できるようになった。母のリハビリ熱心には感服する。衰え ても、衰えても、また回復する。見習わなくては。 このところアレルギーが少し落ち着いてきた。(暑さが収まってきたからだ ろうか)塞ぎがちな気分もやや上向いてきてた。ファイト。 きれいな青虫と出会う。どんな蝶になるのだろう。晩夏の樹は、虫たちの 食事の跡で葉が荒れている。でもきっとこれでも大丈夫なのだろう。季節が 巡れは樹には花が咲き、実が鳴るに違いない。