今月へ

2007/12分

[糸の口とボタンの目]

12月28日
 糸の口とボタンの目です、といっているような作りなのに
人のこころをくすぐるシロクマ。今年はクマを二つもらった。
テディベア博物館に入場したらココア色のクマをもらい、
エディー・バウワーで買い物をしたらチョコレート色のクマ
をもらい、付いていました。

 きょうは、新川和江詩集『水の記憶』すこしと
 野村尚志個人誌『凛』と最果タヒさん等の『mizu』と
ゲスト西元直子さんの『フットスタンプ』を読みました。

今年はいただいたたくさんの詩集の感想をぜんぜん書けな
かったことを反省。杉本真維子詩集『袖口の動物』とても
おもしろかったのに書いてない。岩佐なを詩集『しましまの』
も書いてない。藤原安紀子詩集『フオトン』も書いてなて。
最果タヒ詩集『グットモーニング』も書いてない。
私のようなものにまで送ってくださった稲川方人詩集『聖-歌章』も
四方田犬彦詩集『人生の乞食』も書いてない。
おして知るべしで、まったく猛反省なのです。



[ひとあし早い八重椿]

12月27日
 いつもは2月ころから咲く椿がもう咲いてしまっていたのでした。
温暖化の影響かもしれませんね。

ところで、話は変わりますが。
「デルモンテ平山」という名前、ちょっと癖のある名前でしょ。
私と同じ雑誌で映画評の仕事をしているライターさんですが、
お会いしたことはなかったのですがインパクトのある名前なので
どんな人だろう、とは思っていたのです。で、このほどデルモンテ平山は
ホラー作家の平山夢明と判明したのでした。びっくり。
だからどうだというわけではないけれど。デルモンテとホラー
のとりあわせがどうしても納得いかない感じではありませんか。
デルモンテ とくれば トマトケチャツプ

もしかして・・・ケチャップは赤くて飛び出すと血みたいだから?
そんなものなのでしょうかねー。デルモンテさん。



[にりん、さんりん]



12月26日
 冬のカフェで向き合っているにりん。
 ビルの屋上のガーデンテラスで別々に競うように咲くさんりん。
 ひらがなにすると花は凛とした鈴音を響かせた。

「かばん」285号のアンケートに答えたので、一冊送られてきました。
この号は短歌と現代詩についてで、詩人、歌人にアンケートをしている。
詩人に聞きました・・@影響を受けた歌人や歌集があれば教えてください。
A短歌をつくったことがありますか。B歌人に勧めたい詩集があれば
お教えください。・・というものでした・

勧めたい詩集で吉原幸子をあげた人が14人中3名いまた。
他はほとんどばらばらなので、印象的でした。
私は鈴木志郎康さんの『遠い人の声に振り向く』、伊藤聚さんの『気球乗りの庭』
川口晴美さんの『Exit.』をあげました。

この号では斉藤倫さんのエッセイ「〈わたくし〉メーカー」がおもしろかった。
「脳内メーカー」の話からはじまって、短歌を論じるときに現れる「私性」という
ことばの使われ方を考え「テキスト外のコンテキスト」つまり、作品には記されて
いない文脈、ということだと言う。詩では、作品が詩の外の文脈によってたつことは
作品が自立していないことを指すと今では認識されている。でも短歌では
作品の「私」=現実の「作者」で、しかもそれでも短歌は「私」を仮構する、
と論じる。この「私」が短歌では直裁「作者」じしんに影響を与え実人生を変成
する恐ろしいものなのだと指摘する。
ここでいう「私」は身体を通った何にも還元できない「私」なのだから、
詩においても、作品に書いた「私」によって作者が傷を負わないという
ことはない。そうでなければ詩を書いて自分が変わるということがなければ
書く意味がないのたから。
だから斉藤さんは「〈わたくし〉メーカー」という言い方で詩と短歌をつなげて
いる。そして短歌での影響には直裁さがあるということに目を向け、それが
作品の外の文脈を作者が引き受ける位置にあるということが短歌という短詩の構造として
あるということに光をあてているのだった。


[クリスマスのテーブル]

12月24日
 メリー・クリスマス。みなさんどのようにお過ごしですか。

 このところ3日間、大掃除をしたのできょうはお休み。まだぜんぜん
掃除は終わってないけれど、夫の母親がちょっと調子悪いというので
めずらしく夫と二人ででかけました。でも昼だけ。夜は夫の親のために
クリスマスメニューでご飯を用意するので。同居なので。

で、東京都現代美術館「Space for your future」展へゆきました。
巨大な「四角いふうせん」がめあてです。
建築家の石上純也の作品。美術館の吹き抜けに四階建てほどの大きさのアルミの
構造体「四角いふうせん」がヘリウムガスで浮かんでいました。揺れてゆっくり上下
や前後に動いているそれは、大きさを実感するとき、大きな生き物のように感じ
られてきました。二階のギャラリーから手を伸ばせば触れられそうになるまで
近づくと、あっきたきた、とうれしくなる自分がいました。アルミは鏡のように
私達を映し、そして暮れてゆく都市の空も映していたのです。それがなんとも
いえない共生感になって、四角いふうせんを見てよかったと、気持ちがほぐれて
いました。でもこれ2トンという重さだそうです。その2トンが浮いているという
不思議にも打たれました。



[原美術館へ「ピピロッティ・リスト からから」展]



12月17日
  きょうは仕事の原稿を仕上げメールで入稿。それから
フットスタンプへ寄せる詩の原稿を推敲。
なかなか時間がかかって、これっ、という決断ができず手を入れて
しまってばかり。もう少しだからがんばろう。
というそばから家事がおしよせているのはいつものこと。
きょうは3食供しました。牛乳やじゃがいもやなにやかやと
ずっしりの買い物、背負ってきて重かったです。野菜は重いです。
そしてすぐなくなってしまうのです。
 
 きのうは体調が戻ってきたので、ほんとうに久しぶりに遊びにでかけました。
 原美術館へ「ピピロッティ・リスト からから」展を見に品川
までゆきました。冬の陽差しは透明に青くビルを透かし、銀杏の黄色を
映えさせていました。輝くような一瞬を赤い電車が走り過ぎてゆくとき、
色彩のマジックの冬の贈りものが現れました。

 よかったです。ピピロッティ・リスト。
花の茎を抱えて楽しそうに笑いながら歩く白いワンピースを着て赤いパンプスを
履いた女の人が、ときどき花の茎を振り下ろして車の硝子を砕いてはゆく映像
は印象的でした。「エヴァー イズ オーヴァー オール」。これを見たのは
二度目なのですが、ショッキングな、でも開放感のある印象は変わりませんで
した。
 こちらを向いて目を見開き、スーパーマーケットを歩く女の人の額に、
小さな人影が映るのですが、彼らは夜の森の中を全裸で動きまわる人達。
タイトルは「あなたに大賛成」。解釈は見る人にゆだねられていて、女の人の
移動とともに、もう一つの世界の森をのぞいている体験が、人の頭の中
をのぞいているようにも思えて面白かったです。頭のなかにはみえない
イメージがきっとたくさんあるのですよね。それをピピロッティリストは
肯定している、そのことが伝わってきました。

いつもと違うものが見えてきて、カフェのテーブルでは
瓶の中に家が入っていました。




[寒い朝]

12月14日
 風がとても冷たかった。きょう初めて厚手のコートを着込む。
地下鉄から出ると、まばゆい12月の朝に反射している白いフェンスが
視界を覆う。街は白の上にも映って、歪みと光を街路に解け合わせて、
瞳をとらえ、寒さに眠っていた体の闇のなかに流し込む。にわかに
忘れていたところでさざ波がたち、冷たい風のなかにさざ波が解け
合ってゆく。朝の光と街にこんなふうに入ってゆくことも悪くない。

 きょうは、『主人公は僕だった』という含蓄のある寓話をDVDで見た。
ある日、ハロルドの頭の中に女の声が流れはじめ、自分のことを語りだす。
実はハロルドは、実在するのに作家によって小説に書かれていて、彼女の
小説の主人公なのだ。しかも作家のケイトは必ず主人公をラストで殺す
悲劇作家。声に振り回されるハロルドの意外な展開もおもしろく、
実人生か芸術か、古典的な悲劇か新鮮な展開か、ほんとうに私達は自分の考え
で生きているのか、など、さまざまに問いかけられる。
ちょっとすてきなラブストーリーでもあってなかなかだった。


 夜、「もーあしび」12号のために、詩の原稿を白鳥さんにメールで
送る。体調がすぐれなくて締め切りを延ばしてもらっていました。早く
原稿を送られていた方に、ごめんなさい、です。





[霧と蜘蛛の巣]

12月11日

 霧と蜘蛛の巣



 すこし前まで朝霧がたちこめていた
 薄くなった雲の明るさに
 霧の一粒一粒が透きとおった反射で
 よびとめる

  小さな虫だったならふしぎな輝きに
 ひきこまれて 糸の網なかへ捕らえられていたかもしれない

 糸から虫は さいごの水をすすり
 中空で 身動きをうばわれてゆくとき
 怖さを感じるのだろうか
 
 もがいて
 怒りを使い果たすまで もがいて
 
 それから 
 それからを考えたくない
 
 ふいに 超える
 いのちを超える
 その超えるまでは 呼吸をしている

 みえない瞬間はないのと同じ
 いいきかせる

 頬を霧のしっぽがなでてゆく
 
 きょうはこれから晴れるのかもしれない