今月へ

2007年2月分

[それめじろ?/甲斐庄楠音の「横櫛」]

2月23日
母のところへ行った帰り道に、鳥の声がしたので立ち止まると、やわらかな桃色
の梅の花が咲き乱れる枝に、ウグイス色の鳥がいた。私は鳥は良く知らないので
鶯かな、なんて思っていたら、同じ道を歩いてきた女の人が、それめじろ?と
一声、放って通り過ぎていかれた。声をだしては撮ろうとする鳥に逃げられて
しまうので私は応えられなかった。この鳥は、めじろ、でしょうか。よくみる
と目のまわりが白いから、めじろかも。

こうしたトラディショナルな梅とか鶯とか書いていると、和風の記憶が
呼び起こされる。先日見た「日本美術が笑う」展で、すごい迫力で引き込まれ
立ちつくしてみた日本画があった。甲斐庄楠音の「横櫛」。若い着物すがたの
女がうっすら微笑んでいて、目がとてもなまなましく、絵なのに魂のある人が
そこにいるように感じられた。甲斐庄の絵は、その人と解け合えるような親しい
空気を醸していた。絵の前で、私は、ふぅー、と息がつけ、とげとげとした気分が
ほどけてゆくのを体感した。
(「日本美術が笑う」展は5月まで森美術館でやってます)










[これ何これ何]

2月21日
ときどきテレビの画面のなかの動きに反応してしまうシロ。
これは、水森亜土が庭に穴を掘っているところ。彼女は
穴を掘って、穴の中へいやなことを言って埋めてしまう
という。比喩じゃなくて、ほんとに穴を掘っている!



[きょうの東京タワー]

2月19日
六本木ヒルズの展望台から撮った東京タワー。それと毛利庭園の池。
変だったのは、ヒルズの下の庭園の池なのに、まるでお賽銭を投げ入れ
たかのようにお金が沈んでいたこと。どーして、だれが、そんな気持に
なるのだろう。ぜんぜん神々しいところなんかないと私は思うのだけど。


スペイン映画『あなたになら言える秘密のこと』を見る。イザベル・コイシェ監督の
『死ぬまでにしたい10のこと』がとてもよかったので、久しぶりの新作がうれしく
てどんなだろうと期待していた。期待どおり痛くて苦しくて、みるものも傷を負わず
にはいられない恋愛映画だった。でも恋愛というより地獄を生き延びた女性の快復の
ドラマだった。寡黙なハンナの内面が痛切に感じられ、その苦しみに涙がにじまずに
はいられなかった。ここでネタばれは書きたくないけれどそれはクロアチアの悲劇と
係わっていた。エミール・クストリッアがボスニア紛争と係わらずにはいられないのと
同じように。クストリッツァは陽気に、ばかさわぎのクレイジーさのパワーを流し込む
が、イザベル監督は違う。そのまなざしは、大海原の石油掘削所という極大の海と
ハンナが傷ついた男性を看護する部屋という、極小の閉塞感をとても美しいシーンで、
浸みるように映し、臨場感で見る者をいっきにその場へ連れ去る。ハンナのより個人の
内面の危機へと分け入っていて、ぞくっとするほど身につまされる。




[雨あがりのミモザ/犬飼愛生さんの詩「羽根」]

2月18日
朝から雨だったのに。いつのまにか夕日が足元を照らす。
はやめに咲いてしまったミモザには、まだ雨の雫が残って
夕日に輝いていた。


犬飼愛生さんの詩「羽根」を、ときどき思いだす。
詩の言葉が体に入って、私がいっているように
思いだす。暗唱できていないし、読んだときの
印象を思いだしているのにすぎないのだけれど、
ときどき思い出す。

一部を引用させていただこう。


人々の毎日は
その人だけに正しい速度で進行していて
あなたが底に沈んでいるときも
誰かは仕事をしたり、車を運転したり
声をださずに泣いたりしている
毎日の24時間を、その人の速度で消費していく
同時にいろんな人が動く

(略)

言葉のチカラは偉大だと思う
だからこそ
詭弁にもなれるし
声を失くすときもあるよ
人間の胸を裂いたら
いい羽根が採れるんだって
白くて、光沢があって
やわらかい
世界の金持ちがこぞって
欲しがる
いい羽根が

そういう夢を見たんだって言った

(略)

  「羽根」詩集『カンパニュラ』より




[赤い表紙の詩集のぐっとくる詩のタイトル]

2月16日
バレンタインデーのケーキ半額のチケットをもらったので、夫と行く。
ケーキをたべたのは本当にひさしぶり。クリスマス以来かもしれない。
莓の赤いダイヤルをくるっと回して、暖かい春の到来を早めてしまいたい。


赤い表紙の詩集を読む。伊藤信一さんの『豆腐の白い闇』(紙鳶社 0270−25−5864)
豆腐なのに真っ赤な表紙の詩集なのが面白くて、ページをめくり、目次に目を走ら
せると。長い詩のタイトルがあった。

「海の近くで暮らした思い出も持たずに死んでしまっていいのか」

ガーン、と頭を一撃された。そうです。そうです。小さい頃からずっと体の
どこかで求めていた海への憧れ。憧れというより切望かな。海無し県の群馬
で育った者特有の渇きが、まっすぐに言葉になっていて、ぐっとくるのです。
伊藤さんは私の母校の高校の先生をしていらっしゃる方。
伊藤さん。私は幹線道路などのどこまでも続く小高い堤をみあげながら、
「この堤の向こうは海」、とむりやり青空の青を助けにして海を想像して、
青春の息苦しさをやり過ごしていたのです。
それに、群馬出身の若い自主映画監督の村上賢司さんは、自作の映画の中で、
利根川にじゃぶじゃぶと入っていって「この川の水は海まで続いている」と
言って、荒れ狂う内面を癒そうとしていました。


「冬の日」抄  伊藤信一

(略)

幼い少年と少女の声高な会話
青と赤が交互に明滅することば
  (冬は消去されている)
  (あるいは保留されている)
世界は君たちが口にするほど
単純でも複雑でもない

交差点の中に取り残された
  (潜行し蛇行する冬)
いつかシグナルは変わるのだろうか
僕はここでヒマラヤスギになろう
車のナンバーの数字をいつまでも加算していよう

雪を待ち
感情のトーンをきっちり一オクターブ下げ
表情は囲い込まれた
見えない(あらかじめ失われた)雪に
僕たちは敗れたのだ

(略)


[鳥の食事]

2月12日
暖冬で2ヶ月ほど早く咲いた椿。やわらかくて甘いのかも知れない。鳥たちが
さかんに嘴ではさみ、千切っては食べている。まだゆっくり咲いていたいはず
なのに。 

『もーあしび』8号、ご購入、ありがとうございます!
まだ在庫があります。
ことばに関心があって、表現を味わいたいという方はメールでご連絡下さい。」 
白鳥 black.bird@nifty.com
北爪 kz-maki@mx5.nisiq.net


五十嵐倫子さんの「モーアシビ」のコーナーをご覧ください。

また、私の詩「表面張力、ならべて」の感想を谷内修三さんが
「詩はどこにあるか 谷内修三の読書日記」で書いて
くださいました。こちらもよかったらご覧ください。

[理髪店の問いかけ]

2月9日
こんな道を以前、通ったことがありました。

道ゆく人に問いかける理髪店の窓の言葉が目に飛びこみ、何も考えずに過ぎよう
としていた私は水たまりに足を入れってしまったような不意打ちをうけました。



[垂直飛行/句集『プールの底』]

2月8日
何を狙っているのだろう。ふっくらとした鳥の鋭い尖端の嘴が地上へ向けられている。
これは落下と同じ速さなのだろうか。それより速いのだろうか。

辻村麻乃さんから句集『プールの底』(角川書店)を送っていただいた。
私の詩を読む機会があり「とても印象に残っていたのでジャンルは違いますが」
とお手紙が入っていた。俳人の方にも私の詩を読んでいただけてたいへん嬉しく
思っていたところ、あとがきを捲ると、亡くなられた詩人の岡田隆彦さんの
お嬢さまでいらした。

『プールの底』を拝読して、ゆらぎから別の空間が開いている句にとても
惹かれた。

摘むうちに少女消えゆく蛇莓

     蛇莓を摘みながら草原のなかをどこまでも行ってしまって、少女が
     の姿が見えなくなってゆくように読める。また赤く濃い色や蛇という魔
     的ななものにどこかへさらわれてしまう気配ものする。その重なりが
     おもしろかった。

朝曇りコップコトリと鳴りにけり

     雲っているのが心のような不安が朝からあり、コップコトリと、という
     言葉がふくれる。手から力が抜けて、コップが落ちテーブルに当たって
     音を立てたような、そんな一人の部屋がひろがり、語られないものの気配
     だけにふれられる。

あの角の連翹の窓を見てしまふ

     これも不思議で、気になってしまう窓にしぜんになんとなく目をむけて
     しまう。いつも見てしまう、不確かな気持のうごめきが感じられる。
     
音も無くプールの底の青さかな

     しずかに青くゆらめくプールの水底、という視覚的なうっとりする青を
     私もいま目にしているようで、その無音が夢の時間へつながっているように感じる。

句集のタイトルにもなっていて、ここが、ここを超えた場所へ、繋がっていることを
気づかせてくれるものだった。



[光がさす/重ならない現象]

2月5日
キッチンで、朝、バッっとカットしたラップにも光がさす。
ぎざぎざと切り口が立っている、しわくしゃに水滴がついている。



昨年、詩学投稿欄から詩学新人賞をきめるときに、選者が3名づつの候補を上げさせて
いただくのだが、いとうさんと私の推薦する人が一人も重ならなかった。
そのことがとても印象的だった。詩が多様に書かれており、それに対応して読むことも多様に
深く道筋が開かれているという感触を持つ。

この重ならない現象は詩学の場だけではなかったのだ。

城戸朱理さんの12月8日のブログに「毎日新聞」の、年間回顧「詩、この1年」のことが書いてあった。

城戸さんの選んだ詩集5冊と、入沢康夫、安水稔和、井坂洋子の3氏がそれぞれ選んだ5冊、
「毎日新聞」学芸部の酒井佐忠氏の選んだ5冊、計25冊が一つも重ならなかった!という。

「例年であれば、何人かの評価が集中する詩集があるのが、ふつうなのだが、
今年は本文を書いた私を含めて、4人の詩人が選んだ詩集が1冊も重ならないという、
驚くべき結果になった。」
「これを、酒井佐忠氏は、「今年の詩集がそれぞれの形態で優れた結実を見せた証し」とし、
次のように、コメントを結んでいる。
現代詩は復活した。」

城戸さんは詩集にさまざまな結実があったことへの共感を
ブログで書き、現在が転機であると結ぶ。

私もこの現象を体験して、詩を書くことに、多様な結実への道が開かれている、
とポジティブに考えたい。そして昨年がその第一歩の年で、開かれ続けることを願いたい。


☆☆

犬飼愛生さん、詩集『カンパニュラ』を二度、読みました。いい詩集ですね。
人の匂いがして、犬飼さんの言葉が剥き出しに世界と触れてるのが良かったです。痛がらせ、
そっと撫でたりもするところ、すきでした。第一詩集らしい、真っ直ぐさでした。
水嶋きょうこさん、個人誌『アクアリウム』読みました。「深く」という言葉が車輪のなかに入り
込み、こなごなに燃えてゆく、というところにはっとしました。今度、私の母の車椅子をおすとき
蘇りそうです。

☆☆

白鳥信也さん発行『モーアシビ』8号に、詩と写真で参加しました。

白鳥さんの言葉
「モーアシビというマガジンを出しています。 
エッセイ、翻訳、詩、写真、多様な表現のジャンルを横断しています。
シュールな短歌の生まれてくるプロセスが日記で垣間見えたり、ロシア
の知られざる文学者テンドリャコーフの小説の連載翻訳や、詩人たちの
輝く新作とか、どれひとつをとっても、読み応えがあります。 
ことばに関心があって、表現を味わいたいという方はメールでご連絡下さい。」 
白鳥 black.bird@nifty.com
北爪 kz-maki@mx5.nisiq.net


[からっ風の空/紀伊国屋・アーティストブック]

2月3日
昨日、一昨日、赤城山から吹き下ろした風は、すっごく冷たかった。歩いていると
シンから冷えてくる。それで、軟弱な私は用事をすませた翌朝、腰痛になっていました。
痛いことは痛いけれど、貼り薬と飲み薬が良く効くのです。
で、こちらに来て、気になっていたブックフェアーへでかけてみました。

南新宿の高島屋タイムズスクエアーの奥の紀伊国屋書店。6階。
アーティストブックが展示されているコーナーへ。(明日までですがお勧めです)
芦田みゆきさん。杉澤加奈子さん。みずたさやこさん。この3人が詩人として本と物の
間をつなぐ作品を展示販売しています。
芦田さんは詩集『草の円柱』をガラスのマグカップに箱庭のような盆栽のような世界を
作っていて、私は本当に驚きました。詩集の私の読後感からは考えられない意外さで、
まじまじと見入ってしまった。他者のイメージは、なんと新鮮なことかと実感。
杉澤さんは、靴下に詩が刺繍してあって、本屋さんに、靴下、というところが
来る人、来る人、老若男女の目を引き、声をあげさせていて愉快でした。
まちがって服売り場のノリで手にとってからハッとしている人など、横目で見てました。
「やつめうなぎ」と朗読してしまう人もいました。私も「ただいま」のときからうずうず
していたのですが、身内が買ってしまってはいけないと、買わずにきましたが「おおきく
ゆれる」が気に入っています。靴下には詩が添えられていて、その詩も迫ってくるブック
ユーモアの凄いものでした。
みずたさやこさんの「かえりみち」は電話帳のようになっていて、分刻みのインデックスを
めくりながら詩を読み進めてゆくもの。めくることで、帰り道を進んでゆくあいだに、
いろんな場面に出会いながら夜道を帰る、ということがくっきりして、とても面白いもの
でした。「おとうふ」の冊子も丁寧につくられてました。過去の「おとうふ展」の会場が
浮かびあがって、発想のユニークさに参りました。