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2007年4月分


[マルレーネ・デュラス展「ブロークン・ホワイト」]

4月28日
 木場の東京都現代美術館でマルレーネ・デュラス展をみたとき、
彼女の言葉がずっと頭にのこっていた。

「肖像画についてたちの悪いのは「魂をとらえた」というようなことをいう」こと
だという。良く耳にする言葉なので私ははっとしてしまった。たちの悪い見方が
ベールのようにあたりを覆って、私の目も覆っていたのかもしれない。

「"あなたはまるで私自身のように見えるときもあれば、私の
知らない奇妙な(良い意味で)人にも見える" 対象に呼吸させなくては死んでしまう。」
と彼女の言葉はつづく。

彼女の描いた多くの顔をみながら、この顔の感じは、きょうの私にみえる顔なのだなと
意識した。肖像画は見る人との出会いの時に生きているのだ!
作品群のなかでは私は「ヤングボーイズ」に強く目を引かれた。
みな微妙な表情をしている。まばたきしたら、もうその顔は違う表情をしているような。
私の感情をとらえてしまう。それぞれの人種のヤングボーイズたちはゆるい輪郭で
描かれ、色が水で流れて滲むような線だった。その色や滲みや線が人の特徴を作って
いて迫ってきた。私の感情をつかまえて離さない。この微妙な表情のアクセスの力は
なんて強いのだろう。
もう一度、見に行ってみたい。




[詩  目覚めたとき]

4月26日


詩  目覚めたとき


呼吸が苦しく 胸がしびれるように痛かった

きつく両腕で体を抱きしめていた

こんなことは初めてだった 胸の痛みにおどろくよりも
眠っていてわたしがいないあいだに
だきしめられていたのがおどろきだった
だきしめていたのは誰だろう

わたしの両腕はだれのだったのだろう

わたしの体だと分かっているようでも
ほんとうは 分からない 
どんな人がいるのかは 

体から腕をほどく
幹から腕をほどくように 
いつか大きな鈴掛の樹に抱きついた
風に吹かれれば
鈴掛の丸い実が揺れてあたって
木の実が鳴る
好きな人ばかりが
この身にいるのだったらいいのに

眠りの階段を降りていった底の底の階から
知っている知らない人がのぼってくる
小さな灰色の椅子を立ち その部屋の扉を開け

微かな足音をたて
昇ってくる 
小さな人の一人が
立ち上がった小さな灰色の椅子は 
丸く並んでいるのかもしれない
昇ってくる
枝が揺れて 鈴掛けの樹が実を鳴らす


しびれて胸が痛くて苦しかった とても

だきしめられていたのだろうか ほんとに

ほんとはこらしめられていたのではないのだろうか 

小さな灰色の椅子の人たちは 恐るべき人たちかもしれない
地上では
好きとか嫌いとかいうけれど
丸く並んだ椅子に掛けて
立ち上がって階段を昇るのを
鈴掛けの実を鳴らすのを まっている小さな人たちが
いる 
羅針盤のように 


歩いてゆけば 風にゆれる鈴掛の木の実がある公園へゆける
地上にいて

こらしめられ いましめられ してゆくのか これからもいきるために

底の底からの足音にうなされ
びっしょり寝汗をかいたとしても
目をさまして
風に濯がれるように 
この世の人になって靴を履く  

       (4/28)




[キャッチするなら]

4月22日
 とてもかすかなサインかもしれない。何か大切なことに気付くのには
アンテナを広げていないといけない。たとえば、気持が沈んでいても、
まるまってしまった背中の上で、気持が沈んだからこそ、ぎゃくに吊られて
開くアンテナがあるかもしれない。羽根のように。見えなくても。

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エッセイ、翻訳、詩、写真、多様な表現のジャンルを横断しています。
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[あっ、牛]

4月18日
 以前、常磐線に乗っていたら、水戸の手前で、車窓からいきなり牛が見えた。
ふいを突かれびっくり。でもなんだかとても気持よさそうにしている牛たちをみて、
こちらの気分もふぅーとゆるんだのだった。狭い牛舎ではなく、のびのび木々のあい
だを歩ける乳牛たちは、なんて幸せなのだろう。なかには、走る電車を座って眺めて
いる子もいた。牛も電車が走るのっておもしろいのかな。

 きょうも寒いです。変です。体調がおかしくなって集中力が欠け、いろいろ
へまをやってしまう。傘を置き忘れ、タオルを置き忘れ、電話では言葉が足りず
相手が変な返事をしていたのが気になって、翌日、言葉が足りなくてすみません
これこれこういう事をご連絡したかったのです、とファックスを送り、ファックス
つきましたか、など確認の電話を入れた。また電力会社のオペレーターの詳細な
手続きなどの説明を聞くうちにどういうことなのかわからなくなって、すみません、
ひとつだけ聞かせてください、そうしても危険はないのですね、と単純なはじめに
戻って質問している。集中力が欠けるからますます気の抜けない日々。



[蜜を食べに]

4月14日
みたいものしかみていない。あきれるほどに、人の目いうのは。
カラスノエンドウが咲いていて、思わず駐車場の隅にしゃがみ込んで草の花を
撮っていた。あとでパソコン画面の大きくなった写真をみてみると、蟻が一匹
草を上っていた。きっと蜜を食べにゆくのだ。でも、その草の茎は花の茎へと
続いているのかな? 葉と葉が触れあっていて、橋のようになっているのかも
知れない。蟻にとっては小さな草むらも巨大な森なのだった。そして、そうして
生きている蟻に思いもかけず、出会えたことで、わたしが小さな虫の目になって
巨大なピンクの花を見上げていた。

「蘭の会」という女性詩人達のサイトに「おてがみ」を書きました。
「蘭の会アンソロジー」という詩集をwebの人たちがまとめています。
ユニークな企画でした。今回もはじめての体験でした。
芳賀梨花子さんから依頼されたのですが、エッセイじゃなくて、お手紙を
書くというのは、なかなかわくわくしまた。



[自転車の色]

4月10日
 だれかの家の玄関先で、チューリップや水仙といった春の花に
囲まれているのがとても似合っている自転車。
 私が初めて買ってもらった自転車の色を思い出そうとしたら、
黄緑だったか、モスグリーンに近い緑だったかはっきりしなくて
情け無い気持になる。あんなに嬉しかったのだから、覚えている
はずなのに、どうして。何度か買い換えていたときの自転車の
色がすこしずつ、基本の初めての自転車の色に混じっていって
いるような気がする。大人になって乗った自転車の淡いブルーが
黄緑に混じりモスグリーンになったような気がしているのかも
知れない、と、よくよく考えると思い当たってくる。自転車に
乗っている詩は何度も書いてしまう。そのときは不思議と自転車
の色は思いうかばない。動くことで一体化していたのかも知れない。




[止めてある車の埃、みえない解体の埃]
  
4月8日
 きょうはお釈迦様のお祭り、花祭り。偶然にも。お墓参りにお共した。
街はとても埃っぽくて、温かいけれどさわやかとはいかないのが春らしい。
お墓は高層ビルと高層ビルの間のようなところにあって、墓石を洗っている
間じゅうヘリが3機も飛んでいてうるさかった。なんだかナァー、と空を
見上げると、すーとすっきりした鳥が飛んでゆく。ツバメかもしれない。
シルエットがそんなふうに見え、すこしほっとする。

 詩人のたなかあきみつさんから、お手紙を頂いて、モスクワのギャラリーIZART
のサイトでweb個展をしているというので見に行った。でも、うまく観られなかった。
 郵送してくれたサムネイル状態のモノクロのプリントアウトからもはるかな風景が
ほとんどの写真は、視界が抜けてゆく快さがあって、大きいサイズをみてみたいと
思った。いま、ロシアの人は日本人の写真に注目しているのかも知れないですね。




[夢のシーンが良かった]

4月5日
 この映画は、コリーヌ・セロー監督の新作だと知って、見たかったもの。
コリーヌ・セロー監督は女性監督。代表作は「女はみんな生きている」。
彼女は、女性が本音のところですかっとする映画が撮ってくれる。
「女はみんな生きている」はユーモラスでスピーディーで危険でさくさくと
展開するスクリーンにぐんぐん引き込まれてしまった。
 本作も、さくさく感は変わらなかった。
フランスからスペインへ兄弟姉妹そろって歩いて巡礼しにゆくことが
亡き母の遺産相続の条件、という変わった遺言を果たすため、いがみ
あう兄弟姉妹とその連れ達が、賑やかに、過酷な徒歩の旅をする。その
旅のなかで、それぞれが夜、夢を見るのだけれど、その夢のシーンが
とても良かった。黒い布をまとった母が馬になるシーンなど、特撮が
おもしろく、無意識のなかを覗き見る感じがする。誰でもこだわって
いる心の中のことがある。そういうこだわりを、外に出してみれば、
自分だけなぜこんなのだろうという追いつめられたところから、少し
距離がとれる。他の人だってそうなんだ、という思いが、きつさから
救ってくれる気がする。



[シロとミケ]

4月1日
 季節よりも温かすぎる一日。シロとミケが屋根の上で昼寝をしていた。
ミケはときどき尋ねてくるシロとクロの母猫。ミケの方がずっと野良なので体が
小さい。シロはおかあさんと仲良くやれるけれど、クロはどうしてもおかあさん
とうまくやれない。クロはミケに近づこうとするとき気遣うことをせずに突進して
しまうから、けっきょくミケは逃げてしまう。猫のあいだでもいろいろ付き合い
じょうずとへたがあるらしく、ああ猫でもそうなんだぁ、と愛しく思う。

 元木みゆきさんの写真展『息の結び目』はとてもよかった。
感想を書くのが遅れてしまったけれど詩誌『歴程』4月号のコラムに
掲載しようと思います。

草稿

 新宿ニコンサロンで開かれた元木みゆき写真展『息の結び目』を見にいった。元木さんは、
北海道で乳牛を飼っている祖父の家族を5年間かけて撮っていた。そして今年90歳を過ぎた
祖父が永眠したことで、5年間の集大成としてまとめた写真展だった。そこにあった写真は
生と死の間の「息の結び目」だった。牛飼いの家族の暮らしの中から、それこそ息子夫婦と
炬燵で横になって休む姿や、牛小屋の糞尿にまみれた力仕事や、牛の出産で血まみれにな
って子牛を介助する家族の真剣な姿まで、美も醜も等しく、息の結び目の現場として撮られ
ている。まるで撮った人がいないかのような写真、目だけが澄んで動いていって撮ったよう
な写真に私は激しく打たれてしまった。入れ歯を洗う姿が愛しく、下着姿でお風呂場へむか
うやせて皺寄った手足が温かく、うたた寝の頬の赤味が可愛らしかった。それらは写真のな
かで今にも動きだしそうだった。狙っていないのだと解った。元木さんは躍動感を呼吸して
いるだけなのだと。愛しいとか温かいとかは、躍動の写真のなかではじめて生まれているの
だと解った。写真が元木さんに成り代わっているのだと。それは、言葉が自分に成り代わる、
詩の言葉と響きあう。私は澄んだ写真の中で詩を書くことの初心をあらためて焼き付けられ
た。
 北海道の牛舎は雪のなかにぽつんと建っていた。写真にはひろびろと真っ白な雪が映って
いて、その上のほうに牛舎がある。そうした作品が横に何枚も続いていた。私は雪の白さに
目を奪われていた。そして、ふとギャラリーの壁の下の方にも写真があるのに気付き目を移
すと、そこには花に囲まれた棺の中の顔、組まれた細い両手の指、穏やかな足裏、が少しズ
レながら、三枚縦に並んでいた。そのさりげなさと尊さに、私はこの写真展が忘れられない
ものになった。