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2007/7月分

[何sでしょうか? /『ルリアンス』河津聖恵]

7月28日
 暑いです。35度なんてもう熱帯ではないですか。
そんな日に八百屋さんの前で巨大なスイカに出会い、
おおっ、一瞬の驚きが暑さを忘れさせてくれました。
「詩のテラス」の繋がりでスイカが目につくのかも。
河津さんがテラスで紹介してくれた詩論集『ルリアンス』
ルリアンスは・・結び目や信頼をあらわすフランス語。
そこへと向けて書かれた詩についての考察をこのところ
少しづつ読み進めてきて読了したところです。

「女性詩人には批評は要らない、論などどう
せ書けないし、いや書く必要もないのだという(全部では
ないが多くの)男性(詩人)たちからの「女性詩」の暗黙の
囲い込みに、非力ながら意趣返しをしたかった」という
80年代の若い頃からの始まりはあるとしても、詩の本質、
いえ詩を書くことの本質へと論を繋げてゆく本書は、引用
や丁寧な読み解きによって、読者に的確に論旨を届ける
良書だった。私は、考えを言葉として軌跡を描く各論に
共感しながら読んでゆくことができた。
女性の詩集からその声の本質を分析したり、「原理へ」という章の
詩を書く動機の内発について、時代や社会の「異和」や
さらに「異和」を感じられないという「異和」の不在へと
目を向けてゆくところも困難な時代をみつめているところ
も鋭かった。
私が特に面白かったのは「遅い卵割期、あるいは私たちの
成熟のために」の章で、もちろん同世代の詩人として心に
残ったが、それよりも目のさめるような「抒情」という
ものの分析だった。

 「母子関係は、母親が老いようが亡くなろうが、決して解かれない、
 失われない呪縛だ。けれどそれは多くは女性の場合である。
 母子密着が幸福であった男性であれば、むしろ必然的にそれを
 喪失するだろう。喪失するものが、幸福であるからだ。だから
 喪失を嘆き、それを「抒情」といったものに普遍化することもできる
 のだ。たとえば近代の抒情詩人は皆男性である。そしてその抒情の
 中心をなすのは、母や女性との至福の喪失である。中也然り、
 達治然り。」

 「喪失を嘆く抒情とは、自己陶酔〓未成熟である証拠である、なぜなら
 喪失とは、じつは深層心理的にはこちらが見捨てたということでもあり、
 そうした自分の悪意から目をそむけることは、成熟の契機をみずから拒
 んでいるということだからだ、と。つまり逆にいえば、母を捨てたという
 悪意というものを認識し、抒情が覆い隠していた人間の実相というものに
 ふれれば、成熟というものがはじまるというのだろう」

 「この男性における成熟の機構を、女性にあてはめてみれば、逆のことに
 なるのではないだろうか。つまり、呪縛と思っていたところに、幸福を見いだす
 こと、見捨てたという悪意と思っているところに、離れられない愛を見つけること、
 そこから成熟がはじまるという逆説に。けれど愛に悪意を見いだすよりも、悪意に
 愛を見いだすことの方が、より困難ではないか。汝の敵を愛せ、というのは最大の
 皮肉だろう。そのためには、私ではない私が必要にちがいない。」


 この困難きわまりないところへ届くには、「自分ではないより深い自己、たとえば
ユングのセルフのようなものを見いだすこと」がひつようだ、ということ。だから、
私たちはどうしたらいいのか、と筆者は問いを投げかける。
 「自分ではないより深い自己」に届くといことは自分のなかの他者、ついには他者に届く
ということではないだろうか。
 ここから、詩の外からの囲い込みを否定し、詩が、いまここで生きられる、書かれる
ことで「別な人々」との「信頼」による「結び付き」を希求することを認めてゆくこと
が必要なのだと私は理解できた。もちろん安易な結びつきではない。そこには
同苦という他者への共感や、他者への共感的想像力ということが大切になるという
こと思えた。







[みつからないもの]




7月24日
 どうしても「私」にはみつからないものが、夢のなかに
たとえば、雨の日の雫のように昇ってこない記憶の枝に
たくさん付いているのかも知れない。透明だけれども、
「私」を遮っているどこかのくぼみに球形で休んでいる
のかも知れない。

 本棚や本の積み上がる部屋の隅から、見つけているのに
出てこない本がある。『明恵、夢を生きる』。河合隼雄さん
の著書。明恵上人は、なんと19才から亡くなる60才まで夢の記録
「夢記」を綴った僧侶で、夢をどう受け止めるかで、夢が生きてゆくか
つまらないものになってしまうか、ということがあると記している。
その言葉が忘れられない。
仏教の視点からだけでなく夢の解釈をおこないながら
分析している。フロイトやユングよりもずっと昔、鎌倉時代に
それを行っている僧が日本にいた。多くの示唆を受けた本だった。





[スイスのチョコレート]

7月22日
 きのうはお客さんが二人きた。4年生のハジメ君とおとうさん。
大人の話は退屈らしく、部屋の中をくるくるくるくる歩きまわって
そんなにくるくるしたら目がまわってしまう、と思って見ていると
こちらが目がまわってきてしまった。おみやげにハジメ君はスイス
のチョコレートをもってきてくれた。先日、チョコレート展へいった
のだけど、それを勧めてくれた森さんは、「私達チョコラーは、外せな
い展覧会」だから、とメールをくれたのだけれど、チョコラーという
言葉に初めて触れて、そうか私達はチョコラーだったのかと再認識。

 きのうは詩の合評会があって、お客さまにはそのことを事前に伝え
てあったのだけど、やはり出かける時間になるとそわそわしてしまって
もしかしたら帰ってねサインを出して失礼してしまったかも。反省。

 詩の会は、今回は少人数だったけれど、はじめて木葉揺さんが参加
してくださった。山本洋介さんと長田典子さん、川口晴美さん、私の
5人で3時間たっぷり合評をしました。木葉揺さんは詩学の投稿選者
を担当していたときに投稿してくれていたご縁でした。



[しずかに結んで]

7月19日
 霧のような雨の日には、しずかにたくさんの雫が葉の上に結ばれる。
できるだけ多くの雫を載せようとしているように、葉は身をたわめて
雫を受け入れている。草むらでいっせいに雫が光る。霧雨の日には
銀の草むらが歌っている。

 今日、河合隼雄さんが亡くなられた。ユング心理学の臨床からの
言葉は、やわらかく、温かく、本を読んでいるのに語りかけられて
いるようだった。
読書によって支えられてきた私にはショックです。
ご冥福をお祈りたいします。


[ひとりとふたり/『チョコレート展』]

外に出してもらえない子だろうか。じっと硝子を
通して路地をみていた。


その近くの道の端で、仲良く姉妹のように一つの植え込みで
昼寝をしている子たちがした。 

7月17日
 東京ミッドタウンの21−21DESIGN SIGHTで開かれた
『チョコレート展』へようやく行ってきました。(7月29日まで)
入場のときに好きなチョコレートを一つもらえます。
私はオレンジチョコをもらいました。
かかおまめを手で掴んで、意外な感触にはっとしたり
参加したアーティストがチョコレートをイメージして作品化
(デザイン)したものをみるのが楽しかったです。
なかでも、くぎづけになってしまったのが岩井俊雄の
『モルフォチョコ』です。
「うわーすごっ」「くにゃくにゃ」「うごいてる、うごいてる、」
「ぜったい夢のなかに出てくる」「ふうー、すごかった」
と、これは見ている人達の口からもれた言葉の実況です。

会場の解説にはこのように書いてありました
(紙とペンを取り出して、憑かれたように書き写していました)

岩井俊雄 『モルフォチョコ』

「力で曲げるのでもなく、溶かすのでもなく、オブジェがゆがむ。
変形する。テクノロジーと表現の中間領域を行き来する作者は
熱で変形するチョコレートの特性をソリッドなオブジェを用い
てみせてくれた。目の残像効果がつくる、イメージのなかの
動くチョコだ。物体を瞬時に変形させることを、熱で溶かし
たり力でねじったりしないで行うことは不可能だから、目の
あたりにすると、手品を見ているかのように驚いてしまう。」


私は手品をみているようにというのは生やさしいと思いました。
これまで、世界のどこににもないことが、目の前でくりひろげ
られているのだから。その興奮は、なんともいいようのないも
のでした。






[きょうの新聞など]

きょう掲載されたものです

5月に掲載されたものです


7月15日
 台風の影響で雨が時々強く降ってはやみ、その雨音にも
どこか気分が乱されて、いつもよりも不安定になっているのだろうか。
そっと手にもった桃の皮をむいて、切り分けていたとき
するっと甘い匂いを引いて、桃の一切れが指のあいだから
床へ落ちてしまった。ああ、と残念な声がもれて追いかける。
柔らかく冷たい桃の一切れが、あまくわたしのなかを
すべって落ちてゆくはずだったのに。

不安定なゆれを引きずって、外へ出る。バシャバシャと水溜まりを
踏んでしまいたかったけれど、夏の靴の間から雨水が朝の足を濡らして
しまえば、一日がぬかるんでしまうようでわずかに避けた。
そうして、コンビニへ新聞を買いに。




[室内楽のように]

7月13日
 いつもビル街や家々の間を縫うように歩いていて、あまり空がみえないけれど
高架になった電車のホームには空がしずかにひろがっている。ああ、きょうは
見ることがだきた。夕焼け。と立ちつくす。茜色やオレンジ、ピンク、あふれる光の黄色
から白、そして深い青やたちこめる紫。暮れてゆく空ははなやかでさえあるのに
、からだのなかがしずかになる。そしてしんとしたところに、かすかな室内楽がながれだす。
どこから?
それはわからないけど、てのひらのように温かい。子どものこころの安心へ夕焼けの色に
包まれて入ってゆけるからかも知れない。

[「もーあしび」10号、出来ました]


「もーあしび」10号が出来上がり、七月堂さんへゆきました。
台風の雨の影響でこられない人もいて、きょうは白鳥さん、辻さん、
渡辺十絲子さん、と私でちょっと発送などしました。
内山さんのご苦労で、いつも詩のための写真をカラーで入れていただき
感謝してます。(じつはカラーコピーも綴じ込みもみな手作業なのです。
内山さんの技術と努力がなければとうていできないことなのです。)

本号は、皆さんのものがとくによいです。
ご興味のおありの方、どうぞお気軽ご連絡ください。
こちらから郵送させていただきます。

10号 目次

詩 それは道しるべですか?  詩&写真   北爪満喜
  浴室にて   松本真希
  いたっていいじゃん  辻 和人
  タイムカード  五十嵐倫子
  幽かな人たちの名前  沢木春成
  両面太鼓 ムリダンガム の思い出に  泥C(デイドロ・ドロシー)           
  朝、走る    白鳥信也

散文 十八年、働いてきました  渡辺十絲子
   山菜接待裏事情   平井金司
   自然との関わり合い、過去未来  浅井拓也
   風船乗りの汗汗歌日記  その9 大橋弘

翻訳 月蝕7 ウラジミール・テンドリャーコフ/内山昭一 

           (頒価500円)




[立ち尽くす]

7月11日
 いつも風のなかにいるわけではないのに、
風車は風のなかにいつもいるように思って
しまっていた。雨の滴に顔中を覆われて、
立っていた風車にはっとする。いろいろな
物や人にレッテルを貼っている。表面的な
ファイリングや誤解のファイリングがきっと
たくさんある。自分もそうしたり、されたり
している、きっと。それでも、ある瞬間に
びりっと破れることがあるから、文脈を
抜けられることがあるから、やってゆける。



[酸素の雨]


7月10日
 きょうは細かな雨がふっていたから、明るい肌色の傘をさして歩いた。
水槽のなかでは、酸素の雨が空をめざして降っていた。魚たちは、
歩く私が雨に肌が濡れたときに、ひやっとするように、酸素の雨に当たると
ひやっとするのだろうか。


[ヒラオカサワコ「ささやかにともると」展]

7月8日
 かみいとおほさんのパートナーで、かみいさんの詩集の挿画をなさった
ヒラオカサワコさんの絵を見にゆきました。ほんの一瞬しかロジカェにいら
れなかくて、その割にはいろいろ写真を撮らせていただいてしまった。
 「かじの森」は火事の森なのでした。右上の炎がどんな文脈からも外れて
いて、はっとしました。森はあるんですね。心のどこかに無意識にあるくら
いだから、テーブルクロスの上にあってもおかしくない。そしてこの火事は
悪い火ではなさそうです。焔に惹かれました。



[風変わりな風鈴]

7月5日
 気温差に体がついてゆかない感じです。こう蒸し暑いと、爽やかな風が吹き
風鈴が涼しい音で鳴ってくれないか、などと思いながら一日を送ることにな
ります。前に三軒茶屋を歩いていると窓の格子に風変わりな風鈴が並んでい
ました。遊び心で工夫したのはどんな人だろう。どうみても道行く人を楽しませる
ために作ったらしいのです。というのは風鈴たちは窓の下の道沿いに下がっているから。
あまりしんけんでないところが、ユーモラス。でも、ユーモアはとてもたいせつ。
たとえ窓からみえなかろうと、縁側がなかろうと、カラフルな風鈴を下げてしまえ
ば、ふっと明るく、心のなかに縁側と涼やかな風が通り抜けようというものです。



[ぼろぼろの羽根]

7月3日
 家のそばの道路で、アゲハ蝶が飛んでいるのにであった。ひらり、ふわふわと
飛ぶのどかなゆれに誘われて、見つめていると、蝶の羽根はところどころ破れてぼろぼろに
なっていた。何かに襲われたのだろうか。痛々しい。帰って調べてみると、蝶の成虫
の寿命はおよそ10日間くらいしかないと知った。10日しかない命をぼろぼろの羽根で
懸命に生きているのだった。のどかどころではない切迫した時間に、よりそう、もう一匹の
蝶と出会えるといいのに。


[ポエケットのひとコマ]

7月2日
 ポエケットへ出展しました。「もーあしび」と「フットスタンプ」
「MEMORIES 6号」や詩集を並べて、店番をしたり、他のブースを見て買ったりという
一日でした。たくさんの若い詩人のみなさんにお会いでき、買っていただき、
ありがとうございました。すごくたくさんの来場者で会場は暑いくらいでした。
白鳥さんが強気の値引きなし500円で「もーあしび」各号を厚く平積みしましたが、
上の写真をみての通り、終わり間際にはほとんど飛び立ってゆきました。
五十嵐倫子さんと売り子をしていると、松本真希さんが子ども連れできて、
一緒に作った詩誌「エメット」から7年ぶりくらいで会えたのも嬉しかったです。
終わりぎわに泥ドロ・ドロシーさんも仕事帰りに来てくれました。

 とくにびっくりしたのは、詩学で投稿詩をずっと読んできたのですが
その人に思いもかけず初対面できたことでした。出縄由貴さん。まだ十代
の彼女の詩は、驚くほど詩の言葉が立っていておもしろいです。今度引用
したいと思います。隣りのブースにいた三角みづ紀さんと、彼女の詩は
いいよね、とおしゃべりしました。

 新鮮なできたてほやほやの詩集をたずさえて、犬飼愛生さんが大阪から
出店。新詩集『なにがそんなに悲しいの』ジェットシティ・パブリッシング
はピンクの桃のようなデザインも素敵。傑作「バタフライ」も入っている。
これから読みますね。
 
 こちらも新鮮。かみいとおほさんの新詩集『ささやかにともると』フロッグ・ザ・クロック
がご本人によって運ばれてきました。かみいさんの詩のファンはだんだん殖えて
きてるね、と三角さんとおしゃべり。おもしろい詩です。ヒラオカサワコさんのデザイン
や挿画がさわやかで素敵です。詩集の解説・感想のようなものを私、書きました。
他に犬飼さん、みずたさやこさんも書いてます。

 そうそう私の個人誌も20部ほぼ飛び立ちました。
『アメジスト紀』の裏表紙にある昔の私の顔写真は、鈴木志郎康さんが撮影して
くれたのですが、ひさしぶりに自分で見て、若かったなぁー、と思います。
九州からわざわざ渡辺玄英さんがご来場されたのにも驚きました。大きな地震の
被災から、ご苦労されてきたお話しを伺いました。そして「火焔鉄」という
鉄のアーテイストの作品とのコラボレーション冊子、うつくしい炎の写真と
詩の冊子をいただき、その場でしばし見入りました。ありがとうございました。