今月へ


[夏、しんとして]

8月27日
 激しい陽射しに、夏草が元気良く成長している一方で、
しんとする気持になることがある。真っ青な空や空をゆく白い雲が
まぶしすぎ、強い日光の下で言葉が消えてゆいるのかもしれない。
あるいは、くっきりしすぎるここから、もっと深いところへ言葉が
逃れていっているのかも知れない。

 ところでポエケットで買っていただいた「もーあしび」が
とても評判がよい、ということを主催のヤリタミサコさんから
伺いました。反響がこんなにあることは珍しいということです。
読んでくださった皆様、ありがとうございます。励まされます。

 
 



[足元]


8月19日
 身の縮む思いとはこうしうことでしょうか。先日母が右足の親指の爪が指に
食い込んでしまうほど巻き爪になったので手術をしました。そのとき左の足の
親指の魚の目も手術したのです。私は手術のときそばにつきそっていました。
まずは魚の目。白く変質した固そうな皮膚に麻酔をせずに医師がハサミを入れ
たのです。切り取ってゆく毎に、痛い痛い、といって母が体を強ばらせます。構わず
医師はもう白ではなく赤いところまでぐいぐいハサミの先を入れて切ってゆきます。
そこはもう肉では。赤いものがハサミについています。母の手を握ったものの母が
痛くてたまらないのをどうすることもできません。麻酔をしてくださいと叫びそうに
なりました。深く魚の目が刺さっているならいっそう麻酔して欲しい。
しばらく切っていましたが、一度には取れなくて次回へと様子をみることになりました。
つづけてつぎは右足の親指の爪の手術へ。こんどは麻酔します、と言われました。
でも爪の両サイドを縦に切り取るなど、とても見られません。さっきのことで気分が
悪くなっていたので、ちょっと外に出ています、と扉の外に逃げだしました。
 こわくて力が入らない感じでした。終わってから母の車椅子を押して外に
出ましたが、猛暑のその暑ささえほとんどどうでもなく、処方箋を書いてもらったので
薬局で薬をもらったのでした。母は麻酔が効いていて爪はすこしも痛くない
と言っていたので救われました。そしてひどく悲しかったのは、このように
痛いことや苦しみにあうのは、自分にばちがあたっているのではないか、と
母が言ったことでした。それは違う、どうしてわるくとるの、と言葉が
でそうになったのですが出しません。そんな合理的なことを言ったって何にも
ならないからです。
病気になっただけでも辛い。だからこそしっかり治療して直そう、と、これでも
気合いを入れて母の助けになろうとしてたので、シヨックだったけれど。
治療できて良かったね。これでしばくすれば良くなるから。
と明るく何度も繰り返しました。母もうなづいてくれたので、ますます私は
よかった、たいしたことなくて、と明るく言い続け、気分転換に、冷たい
コーヒーを二人で飲んだのでした。
・・そんなふうに思ってしまうほど、まいっているのがいまの母なのだ、
とわかりました。わかってもどうすることもできないのではがゆいですが、
それなりに母といるときは楽しく過ごせるようにしたい。楽しいと嫌なこと
を忘れるしね、と深呼吸をしたのでした。

 



[蓼科の高原植物]

  
 

  


  

8月15日
 標高の高いところでは、気圧が低く、すこし坂を上ると、息切れを起こしてしまう。
澄んでいる青い空、白くわき上がる雲の白さ、みな際だって、背筋を伸ばして
薄い空気を深呼吸すると、体の内へしみ通ってゆく。まるで、山の気がすーと指先まで
巡ってゆくよう。高山植物は、見落としてしまうほど小さく可憐なものから、あでやか
な花まで、色も形も珍しい。名前が不案内なのでわからないのが残念です。でも
珍しいそれぞれの花の形がすでに名前のようで、しばらく寄り添っていたくなる。
花達に語りかけられたように、私は、膝を折り、身を屈め、顔を近づけてゆく。
そして花達の言葉を聞き取るようにポートレイトを撮る。
花達に見られながら、自分が荒々しい動物のように感じられたので、植物を傷つけ
ないように、できるだけそっと足を運んで、近づき、離れた。



[露天風呂]

8月12日
 旅の宿で露天風呂に入りました。渓流が見えて、流れの音が聞こえ涼やか。
でも油蝉が懸命に鳴いていて賑やかです。洗い場をふと見ると、蝉がいる。
近寄っても動かないからあれっと思いました。やっぱり息絶えている。そうか、
一週間、頑張ってあの蝉たちのように鳴いたのだ。昨夜、お水を飲みに寄って、
そのまま眠ったのかもしれない。


[八ヶ岳、山頂]

8月11日
 2泊3日で蓼科へ旅行しました。写真は北八ヶ岳の山頂です。
透明な景色に驚き、まるで目が良くなったように遠方まで山並み
が見渡せるのでした。登山ではなくロープウエイで昇ったのですが
降りてから、散策路を登ってゆくと、すぐに呼吸がくるしくなって来ました。
それもそのはず、標高2240メートルなのでした。空気が薄いのです。
天上の世界。そんな空気の澄み切り方で、高山植物も華麗に花をつけていました。
葉がつるつる光ってまったく汚れていないのです。
そう、生きている植物は汚れていない。そのことは地平のほとんどの所
でも言えることで、感じるものがあります。




[乗っているのは]

8月7日

照りつける夏の太陽。くらくらするのは悪くない。みえないものがみえてきそうで。
などと強がりを言ってみた・・・。

すると、通りかかりのバス停で、バスを待っている人の頭のむこうに
何か見える。もちろんバスが見えているのだけれど、それだけではない
何かが見えたような気がした。見えないはずのものか、なんて思って
もう一度よく見ると、大きな頭がある。大きな白い頭、紅いリボン、
それは、キティちゃんだった。バスの座席に大きなキティちゃんが
たった一人で、乗車している?! やっばり見えないものが見えているようだ。
暑いから。やがてバスは走り去っていった。



[溢れるよに咲く/可能無限]

8月6日
 じりじりと肌を焼かれる。きょうもとても暑い。
耳にはただでダウンロードしたラテン音楽がながれる。
ラテンは真夏がしっくりして、汗をかいてもいやな気分
にならずにリズムよく歩けてしまう。SDカードいっぱい
に入ったロック、ジャズ、etcなど全部聴くことはできる
のかな。でも聴ききれないほどの音楽といっしょに真夏の
下をあるくのはちょっと羽ばたける感じがする。SDカード
にまた別の音楽を組み合わせてダウンロードすることもで
きると考えたら、可能無限がこんなところにも広がっていた。
 iPodではないのですけれど、このタチアオイの花のよう
なピンクでメタリックなボディをしています。
 ここからだって日常の文脈はくにゃっと外れるのだ。
 ここからだって別の言葉が飛び立てるのだ。

 

伊藤悠子さんの詩集『道を 小道を』(ふらんす堂)を読んだ。
伊藤さんの詩は日常の方がはるかな世界のなかにふっと浮かんでいるような
たたずまいがあって、日常が堅牢におもえないところが魅力だった。
なかでも「行方」という詩に現れる「小さな渡世人」と呼ばれる赤ん坊が
とても不思議だった。
 
  さいしょ両腕で抱いていた
  いつのまにか片腕で抱く小ささになり
  すぐに手のひらに移り
  またたくまに指先から離れていった

という赤ん坊で「それは昔からいる世を渡る赤ん坊のことでしょう」と
近づいてきたひとが説明してくれる。この近づいてきた人も誰なのだろう。
でも「わたし」は「ほうぼうのひとに少しのあいだ抱かれていくらしい」と
得心がいくのだ。この空気感からも、永遠から来た人や無限に行く赤ちゃん
というはるかさが、特徴として立っている。

 ここから私が連想したのは、手のひらにのった赤の坊を手渡される、という
詩を書いた、かみいとおほさんの詩集『ささやかにともると』(カエルの置き時計)
の中の「おいで」という詩。かみいさんは若い男性だからだろうか、赤ん坊をうけとること
が自然ではなくその意識が、いろいろ自分に跳ね返ってくるところが新鮮な発見を促していて
素晴らしい。
 この手のひらに乗る赤ん坊が受け渡される、手から手へ渡ってゆく、ということは
何か大きなはるかさを「行方」の詩と共有しているように思える。いったん母から、
"産まれ"から切れたかみいさんの発想や、その意識は、「おいで」の詩の中で既成
の母子の文脈をはずれ、新鮮なそよ風のようだった。


 作品と作品はみえない糸でつながっているのかも知れないです。はてしなく。
 みいだそうとする読書があれば。ここにも可能無限がひろがっている。





[未確認球体]

8月5日
 いろいろとぎしぎししている日々のなかで、やっぱり脱線とか
ユーモアは大切。ときに、公園の池に不思議な銀の球が浮いていてもいい。
庭のアクセントに岩を配置する日本人の正統からぐーんと離れて
このまんまるい銀球は、しかしいったい何をイメージしたのでしょう。
惑星の並びにしては数が足りないし、やっぱりアレでしょうか。UFO。
 昔、輪になって手をつないで、空にむかって念を放ち、UFOを呼ぶ
なんていうイベントがあったような。公園だから人々が親しくくつろぐ
ということや、輪になって手をつなぐことなど、心を一つにすることなど
を思い出させてくれるオブジェは、場に適していないこともないわけです。



[背中の羽根と尖った耳]

8月2日
 何を聞き取っているのだろう。願い。悩み。悲しみ。望み。道をゆく人々
の声が、渦になってビル壁の間をのぼってゆく。その中空にいて
ブロンズの妖精は、みえない姿で飛びたって、ひとびとの隣りに付き
添ったりしているならいいのに。


「もーあしび」10号の感想を五十嵐さんが書いてくれました。
よかったら覗いてください。本人だから書かれてない五十嵐さんの詩
私はとてもいいと思いました。
 五十嵐さんの詩「タイムカード」は朝の通勤ラッシュのまっただなか
のことから書いてます。せめぎあうほど混雑しているのに駅の階段を
飛ぶように駆け上がってゆく男の足首があって、じつは誰かを取り押さ
えようと追いかけている出来事にでくわしていたのです。そこから事件
の方へ向かわず、意識は走っていた足首から、追いかけること、走ること
へと入っていったところがいいな、と思いました。
子供のころはリレーでただ走ることだけになっていたけれど、いまは、
突き進むこと、走ることに迷いがある。君へのメールも送られなかった。
でも、そんな自分も時を刻んで走っている。リレー選手として走っている
子供の自分と会社の自動ドアへ駆け込む足が重なっていく。だから、想い
の揺れもふくめ、今ここが刻まれる。揺れながら収斂してゆく今ここが
くっきり点っています。